偽りの軍服 (2)
正装したセジットは、再びあの神殿に連れて来られていた。
目の前には、大勢の帝国騎士と神官たちが整列し、静かに抑えられた熱意と崇敬の視線で、セジットを見つめている。
しかし、セジット自身の心中は、それどころではなかった。
あのあと、アンナが部屋に戻ってきて、二人は慌てて身体を離した。
リュノはまるで何事もなかったかのように、事務的にセジットをここまで案内してきた。
ただ、あれから一度も彼女と目を合わせようとはしなかった。
(怒るべきだったのかしら。あんな、いきなり……キス、するなんて)
彼女にとって、おとぎ話の中でしか読んだことのない行為だったが、さすがにそれが意味するところは知っている。
だが、セジットはリュノの涙で何も言えなくなってしまった。
七年間、求め続けた、とても大切な相手。
その面影をセジットに見て、ずっと抱え続けてきた感情の堰が切れて、あふれだしてしまったのだろう。
(わたしはあくまで聖女の代わり、偽物だ。……初めて、だったんだけど)
そんなことを考えている間に、祭礼の儀式は終わっていた。
「聖女様はまだ体調が万全ではない。これで失礼させていただく」
リュノが集まった神官たちにそう告げて、セジットにフードをかぶせ、通路へと連れ出す。
そこでセジットはあらためて、自分の立場を思い出した。
「わたし、怪しまれてなかった?」
セジットが小声で尋ねると、リュノは相変わらず目を合わせないまま、軽くうなずいた。
「ああ、なかなか堂々としたものだった」
……どうやら、考え事で頭がいっぱいだったのが、逆に神秘めいた印象を与えたらしい。
神殿を出ようとしたところで、リュノは門番の兵士に声をかけた。
「帰りの馬車の手配は?」
「ハッ。それが、噂を聞いて町人たちが大勢集まってきているようで、道が通れず……」
リュノは軽くため息をついた。
「仕方ないな。なるべく裏道を選んで帰るか」
そう言いながらリュノは、セジットのフードを目深に引き下ろす。
伸びてきたリュノの手に、セジットの心臓がどくんと脈打つ。
先ほどのことを意識しすぎないように心を無にして、セジットはただ静かにうなずいた。
けれど――
(なんで……ちょっと近づくだけで、鼓動が跳ねるの……)
彼の視線が、ふいに胸元へと流れた気がして、無意識に襟元を押さえる。
何も言ってこないが、昨日の“視線”を、身体が覚えていた。
リュノもまた、セジットに対して妙に距離を取っているようだった。
口調は変わらない。態度も相変わらず冷徹そのもの。
けれど目が、どこか合わせづらそうだった。
(意識してるのは……私だけじゃ、ないの?)
* * *
七年の眠りの間に、街は大きく変わっていた。
露店の数は減り、規律と統制が重んじられた帝国式の区画整備がなされている。
セジットにとっては、戦争の象徴だった帝国の支配。それでも――人々の暮らしは、穏やかだった。
小さなパン屋が、通りに甘い匂いを漂わせている。
セジットがふと視線を送ると、焼き立てのマフィンを並べていた老婦人が気づき、笑顔で声をかけてきた。
「そこのお嬢さん、よかったら出来たてのマフィンをどうぞ。神官様のお付きなら、お口に合うかはわからないけど……」
「あ、ありがとう……」
とっさに受け取ってしまい、セジットは慌てた。
それを見ていたリュノが、わずかに眉を寄せたが、何も言わなかった。
焼きたてのマフィンは、小麦と蜂蜜の香りがして、ほんの少し焦げていたけれど――それがかえって懐かしい味だった。
(こんなふうに……優しくされるなんて)
自分が“魔女”だった頃にはあり得なかったことだ。
帝国の兵士から隠れ、焼け残った森の影に身をひそめ、恐れられ、疎まれ――それが“普通”だった。
けれど今、彼女は「聖女」として、微笑みを向けられている。
どこまでも、皮肉な話だ。
街の裏通りでは、薬師風の女が青ざめた顔で地面に座り込んでいた。
その傍らには、熱にうなされる痩せた青年。彼女の弟らしい。
「どうか、どうか……聖女様にお会いできれば、きっと、弟も……!」
そう叫ぶ女に、リュノが静かに歩み寄った。
「その者を運びなさい。必要な治療は神殿で行う。聖女様の力はそのようなことのためにあるのではない」
「いえ、今……今がもう限界なんです! どうか、聖女様に“奇跡”を……!」
リュノは視線だけで部下に指示し、患者を担架に移させた。
「奇跡? それが下されるとしたら、それはお前にではない。帝国に対してだ。望みを託すなら、まず生き延びる努力をしろ」
その言葉に、セジットはぞくりとした。
正論だった。だけど――
その青年は、かつて自分が救えなかった者たちと、まるで同じ表情をしていた。
焼け跡で泣いていた子ども。
禁術に飲み込まれ、灰になった友。
“魔女”として、誰にも認められなかった自分。
彼女は、一歩、足を踏み出していた。
「わたしにも、薬草の調合ぐらいなら……」
小さくつぶやいたつもりだった。
けれど、リュノはその声を逃さなかった。
ふいにその目がセジットを射抜く。冷たい光が、彼女の中に芽生えた何かを、瞬時に見抜いたようだった。
「……やめておけ」
「え?」
「リスクを増やすだけだ。“偽の聖女”だと気づかれたいのか」
「でも、私は……!」
リュノが立ち止まる。
「貴女は“聖女”の象徴だ。個人的な情など必要ない」
そう言い放つ彼の声に、セジットは心が重く沈むのを感じた。
(偽物だから……わたしは、何もしてはいけないの?)
セジットは答えを出せぬまま、ただうつむいて地面を見つめていた。
* * *
翌朝――。
誰もいない厨房で、セジットは小さな鍋を火にかけていた。
乾燥させた薬草を細かく刻み、水に溶かしてぐつぐつと煮詰める。
魔女の技ではなく、薬草師としての経験に基づいた古いやり方だ。
「……何をしている?」
扉の前に立つ声に、セジットは手を止めた。
リュノだった。
昨夜の視察から帰ったあと、彼は一言も話さなかった。それが今、あえて問いかけてきたのだ。
「……薬を作ってるの。昨日の、あの病人のために」
「それはお前の役目でも、聖女の役目でもない。どういうつもりだ」
「わからない……でも……あの人たち、私が“魔女”だった頃より、ずっと優しかった。私を見て、祈ってくれた……笑ってくれた……」
リュノは無言で立ち尽くしていた。
「私は、誰のことも助けられなかった魔女。でも、今は違う。……“偽り”でも、“道具”でもいい。誰かの命を、守れるなら」
「……」
リュノの視線が、鍋の中の薬草に落ちた。
それが、あまりにも素朴で、地道な努力の結晶だったからか。
彼は、静かに言った。
「……君は愚かだ。だが……本当に愚かでなければ、聖女の真似など、やっていられないのかもしれないな」
それは皮肉めいた口調ではあったが――これまでにない響きがわずかにこもっているように、セジットには感じられた。
セジットは、鍋の湯気の向こうで、ふっと小さく微笑んだ。




