石の眠りから目覚めて
意識が、ふわりと浮かび上がった。
閉じられていたまぶたの裏に、じわじわと光が滲んでくる。耳に届いたのは、遠くから響く聖歌と、祭壇の蝋燭が揺れる微かな音。
(……ここは、どこ?)
ゆっくりとまぶたを開くと、レリーフが刻まれた大理石の天井が目に入った。鼻をつくのは香の匂い。見憶えのない場所だった。重いまぶたをもう一度閉じようとして、セジットは気づいた。
(動ける……?)
確かに、あの時、石化の呪いを自らにかけたはずだった。追い詰められ、勝ち目もなく、魔力も尽きかけていたあの夜。せめて、弟子だけでも守ろうと――相手もろとも自分を封印したのだ。
なのに。
まるで眠りから目覚めたかのように、体は自由に動き、意識せずとも呼吸ができる。五感も正常に働いているようだ。セジットはあらためて目を開け、ゆっくりと自分の姿を確認した。
「……っ!?」
思わず息を呑む。なじみのある魔女の黒衣は、セジットがわずかに身じろぎすると同時に、ぼろぼとと灰のように崩れて、彼女の肌の上を滑り落ちていった。
(これは、石になっていた影響? だとしたらいったい、どれだけの時間が……。って言うかわたし、裸になっちゃうじゃない)
おかげで身体に傷がないことは確認できたが、そういう話ではない。
とりあえず、周囲に誰もいないのが救いだ。
彼女が立っていた場所は、四角い台座のような石の上だった。
少しでも手で肌を隠しつつ、そろりとそこから降りる。
足元には花々が供えられ、周囲の装飾や布飾りは、まるで何かを祀っているかのように荘厳だった。
「……すみません、ちょっとお借りしますね」
誰にとはなしにそうつぶやき、台座を覆っていた白い布を引っ張り、自分の身体に巻き付ける。
ありあわせの急場しのぎだが、裸身を隠せたことで少し気持ちは楽になった。
おそるおそる辺りを見渡し、彼女は自分が今いる場所を理解する。
「……ここ、何かの祭壇……?」
しかし、いったい何を祀っていたのだろう。まるで何か、とても神聖で、人々から崇敬されるような――
空っぽの台座に目をやり、しばし間をおいてセジットは理解する。
(わたし……? 石像になっていたわたしを、ここに飾っていた……?)
落ちこぼれの魔女である自分が、誰かにこんなに崇拝されるなど、考えられない。
戸惑いの中で、ふと、耳を澄ませると、遠くからざわめきと足音が近づいてくるのがわかった。
ここにいては、まずい。
逃げなければ。見つかる前に。
少なくとも、魔女であることで歓迎されることなど、まずないのだから。
かすかに震えているが、足もちゃんと動く。セジットは燭台の灯に照らされた回廊を走り出した。
* * *
回廊を抜け、セジットは神殿の正面らしき場所に辿り着いた。なるべく人目につかなさそうな道を選んだつもりだったが、自分の方向音痴ぶりに嫌気がさす。
だがそれ以上に、目の前に広がった光景に、彼女は愕然とした。
遠くに見える山々の景色は、間違いなくセジットの知っているユレシアの街だ。
よく見れば街の通りや地形も大きくは変わっていないようだ。だがその空気が違う。足元には石畳が敷かれ、家並みには帝国の旗があちこちに掲げられ、人々の服装もどこか画一的な帝国式に統一されていた。
(……数週間や数ヶ月じゃ、ここまでは変わらないわ。いったいどれぐらいの時間が……!)
理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
石化の魔法が解けるには年単位の時間が必要だということは覚悟していたが、まさか本当に、自分ひとりを取り残したまま、周囲の世界がここまで変わってしまうとは。
「見て、あれ……!」
「えっ、えっ、今、動かなかった?」
事態に気づいた群衆の視線が一斉にセジットへと向けられる。
さっきから、言葉にできない違和感があった。
見たところ、セジットが石になっていた間に、ユレシアの街は完全に帝国に占領されてしまっている。
その帝国の支配下の街が、どうして魔女であるセジットの像を祀ったりする?
その謎がたったいま、解けた。
「聖女さまが……よみがえったのか!?」
「奇跡じゃ、奇跡が起こった!!」
ひと目見ただけで、それとわかる。誰もが、セジットを“帝国の聖女”だと信じて疑っていない。すがるような民衆のまなざし――。
反射的に髪に手をやる。聖女との戦いで短く切られた髪。
そしてそこに、石となった上から聖女のティアラがご丁寧にかぶせられていたことに、今になって気づいた。
(なんて誤解……よりによってわたしが聖女だなんて……!)
だが言い訳の暇もない。押し寄せる歓声と民の手を避けながら、セジットは必死に人混みの中を駆け抜ける。
角を曲がった時、何者かとぶつかりそうになった。見るとそれは、体格のいい中年男性だった。
一瞬ぽかんとした男の顔に、すぐに驚愕と畏敬の表情が浮かんだ。
「ま、まさか、聖女さま!?」
ただでさえ、大男が苦手なセジット。しかも、こんな表情を向けられるのは初めての経験だった。
男の手が、セジットのほうへと伸びる。彼女の柔肌を守るものは、心もとない白布しかない。
セジットは思わず首をすくめ、身体を固くした。
──「そこまでだ」
鋭くもよく通る声が、喧騒の中を切り裂いた。
セジットの目の前に、法衣をまとった一人の青年が立ちはだかる。背が高く、細身ながらも引き締まった体。鋭く研がれたような琥珀の瞳が、銀縁の眼鏡ごしにまっすぐこちらを見ていた。
顔に見覚えはなかった。しかし、その目には、どこか懐かしさがある気がした。
彼は一歩、セジットに近づいた。
「……まさか、目覚めるとは思わなかった。七年も経って、ようやく、か」
「……誰?」
セジットの声はかすれ、震えていた。
男は、少しだけ口の端を上げた。
「忘れたか。俺はリュノ。帝国神殿に仕える、第一級司祭。そして――七年前のあの日、聖女様の従者だった者だ」
その名を聞いた瞬間、セジットの脳裏に、高貴な軍服に包まれた聖女の姿が浮かぶ。
そして、彼女の傍に寄り添っていた、まだ幼さを残した真面目な少年。
(あのときの……)
だが目の前のリュノは、もうあの少年ではなかった。端正な顔立ちに冷たい静けさをまとい、まるで感情を凍らせてしまったかのようだった。
「リュノ、あなたは……私が誰か、わかってるの?」
「ああ、もちろんだとも。君は魔女セジット。七年前、帝国に背き、禁術を使い、聖女もろとも石となった反逆者だ」
セジットは息を呑む。
わかっていて――なぜ?
「話はあとだ。このままでは騒ぎになりすぎる」
リュノはまとっていたマントを外してセジットにかぶせると、彼女の身体をひょいと抱き上げた。
「え……っ!? ちょっと……!?」
「騒ぐな、暴れるな。肌が見えるぞ」
セジットは顔を赤くし、見た目より意外と力強いリュノの腕に身をゆだねるしかなかった。




