魔女と聖女
ユレシアの街の朝は、ひんやりとした空気とパンの焼ける匂いで始まる。
青空の下の市場では、野菜や果物、布地や薬草がずらりと並び、賑やかな声が飛び交っていた。
「おばさん、これも一束つけてくれる?」
屈託のない笑顔で声をかけたのは、一人の少年だった。
栗色の髪に陽光が揺れ、緑色の瞳がまっすぐにおばさんを見つめる。
「あら、また来たの、エイルちゃん。今日も森のおつかい?」
「うん、師匠が薬草と根菜が欲しいって。あと、パンも忘れずにってさ」
町人たちは、エイルの人懐っこさに目を細めながらも、彼の背に背負われた籠が次第に重くなっていくのを微笑ましく見守っていた。
「おう、エイルじゃん」同じ年頃だろうか、黒髪の生意気そうな少年が声をかける。その後ろでは妹らしき少女も顔をのぞかせている。「あとで遊びに行こうぜ!」
「ごめん、今日は師匠の手伝いしないといけないから。ごめんね」
にっこりと笑って手を振り、エイルはくるりと背を向けると、まっすぐに森へと向かっていく。
その小さな背中を見送りながら、人々は口々に噂話を口にする。
「魔女の弟子なんだって? ほんとかねえ」
「でも、あの子、いい子だよ。明るくて愛想もいいし」
「あたしたちとも、よく一緒に遊んでくれる……」
エイルが広場を後にすると、噂話があちこちで交わされ始める。
「孤児だったのを拾われて、魔女に育てられたらしいよ」
「魔女なんて良い噂を聞かないけど、あの森の魔女も悪い人じゃないのかねえ……」
そんな人々の声を知る由もなく、少年は羽がはえたように、喜び勇んで薄暗い森の中へと駆けていく。
* * *
小さな足が森の中の小径を踏みしめる。
鳥のさえずりと小川のせせらぎの中、エイルは荷物を抱えて小屋へと戻ってきた。
「師匠、ただいまー! 芋はちょっと小粒だけど、安かったよ!」
木製の扉を開けると、スープの匂いが鼻をくすぐる。
セジットは戸口から顔を出し、淡い笑みを浮かべた。
「おかえり、エイル。今日もたくさん買ってきてくれたのね」
銀色の長い髪を無造作に三つ編みに束ね、深緑のローブを身にまとうその女性は、魔女――と呼ばれるにはどこか柔らかく、穏やかな空気を纏っていた。
彼女の名前はセジット。魔女としてはまだあまりにも若い、駆け出しのようなものだ。
「……あとね。道すがら、パン屋のおばちゃんが焼きたてをくれたんだ。これ、先生の分」
「まあ……ふふ、ありがとう」
二人分の簡素な夕食を囲みながら、エイルは市場で見たこと、町の人の話、迷い猫の話まで夢中で語り続けた。セジットは頷きながら、時折目を細めてエイルを見つめた。
「エイルのおかげで本当に助かるわ。町の人たちは基本的に優しいけど、中にはわたしのような魔女を良く思わない人もいるからね」
もっとも、もし仮に魔女でなかったとしても、とてもエイルのように如才なく振る舞うことはできないだろう。
人見知りが激しく、対人関係があまり得意でないセジットは、心の中でそう苦笑する。
(魔女の中には、うまく人の中に溶け込んで暮らしている者もいるそうだけど……わたしにはとうてい無理)
ふと、喋っている途中でエイルが変な咳払いをしはじめた。
「あら、スープにちょっと香草を入れすぎちゃった?」
「ううん。最近なんだか、喉がかすれて喋りづらくなることがあって」
少しの間を置いて、セジットは思い当たる。
「あぁ……それは、声変わりが近いのかもね」
「声変わり?」
「エイルも大人になるってことよ」
自分でそう言ってから、セジットは少しだけ戸惑う。
エイルがこのまま大人の男になったら……異性に免疫のない自分は、これまで通りに接することができるのだろうか?
まして、このまま寝食を共にして、一緒に暮らすなんて。
不安を抱きかけたセジットだったが、すぐにその思考を打ち消す。
(……ま、その頃にはきっとエイルも、町で素敵な恋人でも見つけて、わたしのところになんか戻らないわね)
――数年前。帝国軍の侵攻で多くの村や町が焼かれ、たくさんの子どもたちが孤児になった。エイルもそのひとりだった。
森の奥で傷だらけの小さな体を抱えて震えていたエイルを、セジットが見つけ、保護した。
その日から、ふたりは共に暮らしている。
エイルにせがまれるまま、読み書きや、初歩の魔法の知識を教えたりはしていたが、セジットには本気でエイルを正式な弟子にするつもりはなかった。
いつか彼が大きくなって巣立つまで、少しの間保護しているだけ――セジットはそう自分に言い聞かせるのだった。
「ねえ師匠、また今度、薬草の採集に連れてってよ。今度こそ、見分け間違えないから」
「ふふ……そうね、明日は朝早く出てみましょうか」
何気ない日々の会話。
ふたりにとって、それ以上に望むものなど、何もなかった。
* * *
平穏は、いつだって唐突に破られる。
安定しているように見えるものほどそれは、地道にひとつひとつ石を積み上げていくように、時をかけて繊細なバランスの上に成り立っているものだから。
夜更け。
月は曇り空に隠れ、森は深い闇に包まれていた。
セジットは、突然の胸騒ぎで目を覚ました。
(……なに、この感覚)
何かが近づいている。言い知れぬほどの、不吉で禍々しい感覚。
小屋の外に飛び出すと、ユレシアの街の方角に、赤い火の手が上がっていた。
「まさか……もう、ここまで……!」
帝国が、とうとうユレシアにまで侵攻してきたのだ。
しかも、感じるのはそれだけでない。
セジットはすぐにエイルを起こした。
「エイル、すぐに支度を。森の外れまで一緒に来て」
「……なに? どうしたの?」
「帝国が、街に来た。もう時間がないわ」
二人はわずかな荷物をまとめ、森を駆け抜ける。
やがて、小さな洞穴の前に辿り着く。
「エイル、ここから先は、一人で行って。この穴を抜ければ、向こうの山道につながってる。そこを越えればたぶん帝国もすぐには追ってこれないわ」
「何言ってるの、師匠は? 一緒に……」
「私は、ここに残る。少しでも敵を足止めするために」
「嫌だよ! 一緒に行こうよ! 僕だって戦える、魔法だって覚えて――」
セジットは、エイルを抱きしめた。
「いい子ね、エイル。……ずっと、私のたったひとりの家族だった」
そして額に唇を寄せる。
その瞬間、柔らかな魔力がエイルの身体を包んだ。
「あなたに加護がありますように」
「……! 先生……っ……」
セジットの手が、エイルの身体を押しやる。
セジットの口から静かな呪文が漏れる。次の瞬間、岩が崩れ落ち、洞穴の入り口を塞ぐ。
「必ず、生き延びて。……あなたが大人になった姿は、もう見れないかもしれないけど」
セジットは寂しげに微笑むと、森へと引き返した。
* * *
小屋に戻った彼女を待っていたのは、ひとりの女性だった。
鋭い瞳、背筋を伸ばした立ち姿。
豪奢な刺繍を施された、礼装に近い白金の軍服。腰には儀礼用の短剣を携え、その胸には帝国の紋章。
セジットとよく似た銀色の髪は、軍服に映えるよう整えられ、肩口できっちりと揃えられている。
そしてその額には、聖女の証たる黄金のティアラが輝いている。
「森に住む魔女というのは、お前か」
「……帝国の、聖女……!」
《帝国の聖女》――帝国の神性の象徴であり、魔女を狩る帝国の使徒。
魔女でなくとも、その存在を知らぬ者はいなかった。
ふと気づくと、聖女の後ろにもうひとり、従者らしき小柄な少年がいた。
エイルよりは少し年上だろうか、いかにも繊細そうな外見だ。
聖女はその従者に向かって、小声で二言三言指示を出した。少年は大きくうなずき、街のほうへと駆け出していった。
それから聖女は、冷然とした様子でセジットに視線を向ける。
「噂を聞いて、いちおう確認しに来てはみたが……どうやら二つ名も持たない小物のはぐれ魔女か。帝国に歯向かう“七針の魔女”たちも、ここにはいないらしい」
「……大物でなくてごめんなさいね」
「いや、仕事が早く片付いて助かるよ。どのみち、魔女は一人残らずすべて狩るのだから」
月明かりが、聖女の銀色の髪を照らす。
次の瞬間、聖女の指先から放たれた魔法の光が夜を切り裂いた。
咄嗟に身をかがめたセジットの頭すれすれを光の刃がかすめる。ローブのフードごと、三つ編みに束ねた髪が切り飛ばされる。
ほどいて広がったセジットの銀髪を見て、聖女は初めて少しだけ表情を動かした。
「その髪……もしかしたらお前と私はどこか遠くで血のつながりがあるのかもな。……魔女になど堕ちなければ、もう少し生きれたろうに」
セジットは、魔法で木の枝や石つぶてを飛ばして、懸命に応戦する。
だが、聖女の魔法は鋭く、整然と、容赦なく、狙いすましたように繰り出される。
それをなんとか紙一重でかわしつつ、セジットは聖女に向かって言う。
「ご覧の通り、わたしは大した力もない弱い存在よ。魔女と呼びたければ呼べばいい。あなたたちはただ、帝国に従わない者を“異端”として焼いているだけじゃない」
「私たちは信仰を守る。民を導き、秩序を築く。そのためには、魔術という自由は毒になりうる」
「秩序のための犠牲なんて、もうたくさんよ」
「だが我々帝国は、その秩序で犠牲以上の民を救っている。……お前はその自由で、誰かを救ったのか?」
その問いに、セジットは答えなかった。
胸を張って、「救った」と言える存在がひとりはいる。だが、今ここでその名を出すわけにはいかない。
(――絶対に、あの子だけは、エイルだけは逃がしてみせる)
セジットは、正面から聖女の顔を見据え、静かに微笑んだ。
「わたしにも一応、二つ名はあるのよ。師匠から半ば見限られたような落ちこぼれだけど」
瞳を閉じ、セジットは静かに唱える。
「わたしは――”石の魔女“セジット」
セジットがゆっくりと目を開く。その瞳は、生き物とは思えないような無機質の輝きを放っていた。
「石……? 石化の邪視か……!?」
聖女は慌てて飛びのき、セジットから距離を取ろうとするが――。
その足下の地面に光の線が浮かび上がり、聖女の動きを封じた。
複雑な紋様と文字で構成された魔法陣。
それは、数年かけて魔力と刻印を込めて準備していた、最後の切り札。
「なぜ、わたしがわざわざ小屋に戻ってきたかわかったかしら?」
聖女の脚が、ブーツごと石化していく。一瞬の反応の遅れが、致命的だった。もはや逃れる術はない。
「お前……! このような魔術を……!」
怒りに燃えた瞳でセジットを睨みつけた聖女が、小さく驚きの表情を浮かべた。
対峙するセジットの足元もまた、冷たく堅い石に変質しつつあった。
「ふふっ、言ったでしょ、わたしは落ちこぼれだって。対象を選ぶような器用な真似はできないの」
逃げ遅れたのか、石となった小鳥がボトリと地面に落ちて転がる。
聖女とセジットは、身動きの取れなくなった身体で向かい合ったまま奇妙な時間を過ごしていた。
「ねえ、聖女さん。あなたにも、最期に会いたかった人って、いる……?」
その声すら、石に封じられていく。
夜の森に、静寂が戻った。
一対の物言わぬ石像が、月明かりに照らされて、ただそこにあった。