平凡な俺と平凡じゃない幼なじみ
同居人が舞台稽古の最中にぶっ倒れたらしい。
知らせを受け取ったのは、古株の営業担当と課長とプロジェクトリーダーと一緒に、システム障害のお詫び行脚を終えた夕暮れ時だった。そこそこ影響範囲は広かったが根本的な原因は他社にあり、かつ被害も最小限に食い止められたお陰で、烈火の如く怒られたりはしなかった。が、終電で帰り、始発の少し後に出社するような生活を二週間ほど余儀なくされていた事もあり、非常に疲れていたのは確かだ。営業担当の「経費で落としていいってさ」の言葉と共に、全員直帰扱いで居酒屋に繰り出そうとした矢先である。
「すいません。同居人が倒れちゃったみたいで、失礼します」
「ええー。例の一緒に住んでる幼なじみ君だよね、大丈夫なの?」
直属の上司に当たるプロジェクトリーダーには、最低限の事情は話してある。
「あ、事故とか急病じゃなく、不摂生で倒れただけみたいなんで」
「そっかあ。西川君、その……大変だね」
プロジェクトリーダーが、同情と憐みと好奇心がない混ぜになった眼差しを向けてくる。
「まあ、二人暮らしはこっちも何かと便利なんで……」
その幼なじみが、2.5次元作品を中心に活躍し、界隈で人気急上昇中の若手舞台俳優「青野はるひ」だということは、もちろん職場の誰にも話していない。舞台メインなので一般的な知名度は高くないが、二十代後半の男がひとつ年下の同性の俳優と同居してるなんて知れたら、いろいろめんどくさい事になるのは目に見えている。
行きつけのスーパーで買い物を済ませてから、はるひと暮らしているマンションに帰った。中堅SI起業勤めの身ではちょっと厳しいお値段の賃貸マンションの家賃は、はるひの所属している芸能事務所持ちである。事務所の社員である大学の先輩曰く「事務所始まって以来の超逸材」なので、必要な投資は惜しみたくないんだとか。一応断っておくと現在二十五歳のれっきとした成人男性であるはるひは、俺の恋人とかではない。
「はるひ君、家事ぜんっぜんできないし、ほっとくとご飯も食べないんだよー。早起きとか身支度は大丈夫みたいだし、仕事がもう少し安定してハウスキーパーさんを雇えるようになるまで、千晃が一緒に住んであげてくんない?」
めちゃくちゃな依頼である。だが先輩には、割と好きだった人気バンドのライブのチケットを融通してもらった等々、たくさんの借りもあり、最終的には呑むことにした。
一番の理由はそれとは別にあるのだが――。
「ただいま。はるひ、生きてるかー?」
「あ、西川さん!」
はるひの部屋から、俺より少し年上くらいの、ひょろっと痩せた男性が顔を出した。マネージャーの皆本さんだ。
「お仕事中でしたよね? 突然連絡してしまってすみません」
自分には全く非のない事なのに、皆本さんは心底申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「や、ちょうどひと段落したとこでしたので。様子はどうですか」
「一応稽古場近くの医者に診せて、点滴を打ってもらいました。軽い貧血の他に特に異常はなかったので、明日から稽古に戻っていいそうですが、毎日ちゃんとご飯食べなさい、と」
「頭を上げてください。しっかり面倒見ていただいて、むしろ申し訳ないくらいです」
報告のために事務所に戻るという皆本さんを見送った後、はるひの部屋のドアを一応ノックする。
「入るぞー」
返事は待たずにドアを開ける。
「天使がいた」「完璧な美って存在するんだね……」「次元を超越した透明感!」とか何とかファンから言われまくる程度にはおそろしく整った顔が、ベッドの上で寝息を立てていた。出演する舞台のために髪を肩近くまで伸ばして漆黒に染め、ところどころ青のメッシュを入れているせいか、いつもより更に現実感は薄い。が。
「起きろ」
長年一緒にいるのだから、寝たふりかどうかくらいはすぐにわかる。
「……千晃ちゃん、おはよー」
次元を超越した透明感の完璧な美の天使とやらが目を擦りながら、俺の方を向いてにへら、と笑う。
「何がおはよー、だ。不摂生で稽古場で倒れたんだろ。皆本さん、真っ青になってたんだかんな」
「そっか……後で電話しなきゃ」
「早めにな。てか、ろくに飯食べてなかっただろ。コンビニの弁当と惣菜でいいから三食しっかり摂っとけって言ったのに」
「前から言ってるじゃん。コンビニのご飯、あんま好きじゃない」
「じゃあいい加減自炊覚えろ。火も包丁も使わなくていいやつ、俺が教えてや……」
唐突に意識が途切れそうになった。
まずい。この二週間、三度の飯は食べていたし、睡眠も取れる限り取ったが、「食事」は全くしていない。しかも一昨日は新月だった。二日くらいなら持つと思っていた、んだが、……。
「千晃ちゃん? もしかして『お食事』?」
「い、や……大丈……」
「飲んで」
はるひはベッドから上半身を起こすと、俺の目の前に左の手首を差し出した。
青く浮き出た血管が視界に飛び込んできた次の瞬間、俺ははるひの手首に歯を突き立てていた。
身長体重、その他健康診断の値は軒並み平均値。ルックスは「100パーセントお世辞とわかる場面で『イケメン』と言われた事は何度かある」程度。勉強も運動もほどほどで、日本に住む多くの人が「中くらい」として認識しているであろう大学卒。年収は同年代の大卒男性のほぼ中央値。今まで付き合った人の数及び交際期間は……まあ平均的だろう。趣味は強いて言えばスポーツ観戦と散歩。我ながら、世間的にイメージされる「平凡」そのものな人物だと思う。ひとつの点を除いては。
俺、西川千晃は、ヒトの血を糧とする種族の末裔だ。と言っても種族全体でヒトとの交配が進み、生活様式にも馴染みきった今は、ほぼ周りの人間と変わらない生活を送っている。意識しなくても鏡には姿が映るし、不老不死でもない。十字架もニンニクもお経も仏像も全然平気だし、朝日どころか真夏の正午の太陽の下でも元気でいられる(熱中症には注意が必要だが)。唯一の悩みは「食事」だ。活動や成長、体内環境の維持に必要な栄養素はヒトと同じ食事でほぼ賄える。だが、だいたい二次性徴を迎える頃になると、主食、つまりヒトの血を一ヶ月以上摂取しないと、徐々に精神の均衡を崩す。それが原因で命を絶ったり、社会的に屍同然になった同族の事も聞いている。俺自身も、さっきみたいに意識が朦朧としてバラバラになりそうになった事は何度もある。
はるひは、俺の事情を知る数少ない『ヒト』だ。中学生の頃、彼の部屋で段ボールの解体を手伝ってやっていた時、手を滑らせたはるひが自分の手をかなり深く切ってしまった。怖いとか美味しそうとか、そんな事を考える間もなく、気がついたら俺ははるひの手に口をつけて、その血を啜っていた。自分の出自は聞かされていたけれど、誰かの血を飲みたいと思ったのはこの時が初めてだった。後で調べたら、その日は新月だった。
「千晃ちゃん……? どうしたの?」
怯えたようなはるひの声は、今もはっきり覚えている。その声に我に帰った俺ははるひに全力で謝り、リアクションが帰ってくる前に立ち去った。
終わった。嫌われた。俺の奇行を周りに言いふらすような奴ではないが、もう友人ではいられないだろう。
そう覚悟したのに、次の日からもはるひの態度は全く変わらなかった。いつものように俺に笑いかけてくるし、わかりやすく甘えてくるのも同じだった。「ヒト」に対して吸血衝動を覚えた事は両親にも話した(自分たちも通ってきたであろう道なので冷静に受け止めてはくれた)が、はるひの血を飲んでしまったことだけは言えなかった。現代では、ヒトの血を体から直接飲むのは種族の間で禁忌とされている。次の新月からは、飲用に加工された血液製剤のパックでしのぐようにはなったが、不味くて飲み切るのがやっとだった。はるひの血はあんなに美味しかったのに――。
初めてヒトの血を飲んでから半年が経った日の夕方。担任との進路面談を終えた俺は、成績が悪くて補習授業を受けていたはるひと、久しぶりに一緒に家路に着いていた。新月の前後ははるひと顔を合わせないと決めていたが、その日は次の新月まで二週間程度あったから、大丈夫だろうと判断した。だが――学校の門を出て暫く歩いたとき、急激に強い喉の渇きに襲われた。満タンのペットボトルの水を一気に飲み干しても治まらない。いつも持ち歩くようにしていた血液製剤も、この日に限って家に忘れてきていた。俺の様子を心配そうに見ていたはるひは、不意にカバンから小さなカッターナイフを取り出して、自分の左手の甲に滑らせた。程なくして、真っ赤な血がはるひの手の甲を伝いだした。
「飲む?」
半年ぶりのヒトの血は、これまで飲んだどんな飲み物より、美味しく喉を潤した。
その日のうちにはるひに自分の生まれと、吸血衝動について話した。はるひは非現実的な話をあっさり信じたどころか「つまり千晃ちゃんは、ドラキュラの末裔なんだ? 格好いい!」とか言いだす始末だった。ドラキュラじゃないし、そこはせめてヴァンパイアじゃないか?
あまりにアホ……いや、斜め上の反応に言葉を失った俺に、はるひは尚も突拍子もない事を言った
「いいよ。俺の血、飲んでも」
「は……?」
「その代わり、俺以外のヒトの血は、飲んじゃ駄目」
もちろん丁重に辞退した……かった。生きているヒトの血をそのまま、二度も飲んでしまった俺の舌は、すっかりその味を覚えてしまった。はるひに言われるまでもなく、他のヒトの血なんて全く飲みたいとは思わない。会うことが難しい時は血液製剤で何とかしているが、その度にはるひは不服そうな顔をする。
はるひは、俺の作った大して美味くもない飯を嬉しそうに食べたり、スポーツの中継を一緒に見て盛り上がったり、仕事の話をつまらなそうに、けど遮る事なく聞いてくれたりする。少し甘えた声音で名前を呼ばれたり、締まりのない笑顔で微笑まれたりすると、それだけで心の中が温もりと安らぎで満たされる。はるひといる時間は、他の誰といるより心地いい。
あいつが俺に微笑んでくれるのは、そうなるようにしたからだ。
決して最初から意識してやっていた訳ではない。けど、気づいたら事あるごとに世話を焼いて、結果的に甘やかしまくっていた。俺から離れられないように、俺なしではいられないように。そうすれば、いつまでも美味しい血を味わえるし、一緒にいる幸せな時間も続く。
身勝手過ぎだ。あいつはとっくに成人しているし、多くの人間にそう見做されているほど考えなしの馬鹿でもない。俺の元に縛りつけているも同然の状態から、一刻も早く解放してやるべきじゃないのか? 血液製剤のパックの味も、慣れれば耐えられるはず。それなのに、近頃は俺に血を吸われている時のはるひの微かな息遣いや脈拍に、妙な疼きを下半身に覚えてしまっている。
血を飲んでいる時のはるひがどんな顔をしているのか、今日に至るまで一度も見たことはない。見てしまったら、きっと俺は――。
可愛いとか美少年とかイケメンとか、子どもの頃から星の数くらいは言われてる。身長は少し低め。ムキムキマッチョには程遠いけど、たまに仕事で肌を見せると、意外と筋肉あるんだねーって驚かれる。高校は卒業できたけど、勉強は全部苦手。運動は割と得意。趣味は特にない。今の職業は俳優。高校を出て地元の会社に就職して、いろいろあってすぐ辞めて、その後はアルバイトを点々としてた。二十二の時、頼まれて渋々芸能事務所のオーディションを受けたら受かってしまい、成り行きで始めた仕事はやってみたら楽しかった。二年前に出た舞台の評判がとても良くて、今では「人気上昇中の若手イケメン舞台俳優」のひとり、らしい。
世間的には俺――青野はるひは「非凡」なんだろう。けど、結局はただの人間だ。
ひとつ年上の幼なじみの千晃ちゃんは、初めて出会った頃から特別だ。俺は子どもの頃からずーっと千晃ちゃんが好きだけど、彼が俺のことを俺と同じようには好きじゃないのはわかってる。一緒にいてくれるのは、俺の血のため。
難しいことは忘れてしまったけど、千晃ちゃんはドラキュラ……じゃなくて「ヒトの血を食料にする種族」なんだとか。
初めて血を飲まれた時は、もちろんびっくりした。同時に、俺の手に口をつけて血を啜る姿はいつもの穏やかな千晃ちゃんじゃないみたいで、なんだか背筋がぞくぞくした。嫌悪でも恐怖でもなく、興奮で。会えない時には飲用の血液製剤で我慢してると言ってたけど、正直に言うと、それすらちょっと嫌だ。千晃ちゃんには、俺以外の他の誰の血も飲んで欲しくない。
仕事が忙し過ぎて疲れていたのか、血を飲み終えた後、千晃ちゃんはその場でうとうとして、ベッドに上半身だけ預けたまま眠ってしまった。トラブルはひと段落したと聞いていたので「お疲れ様」と耳元で小さく囁く。
血を吸われる時、痛みはほとんど感じない。「吸うときに、同時に麻酔みたいな物質が唾液から出て、吸われる側の痛覚を麻痺させてる」から、らしい。一度に飲まれる血の量は献血と同じくらいなので、明らかにそれが原因で体調を崩したことはない。今回は、俺がちゃんとご飯を食べなかったのがいけなかっただけだし。さっき歯を立てられた箇所を見ると、結構強く噛まれていたはずなのに、傷口はもうほとんど見えないくらい小さい。
自分は平凡だとかつまんない男だとかしょっちゅう言ってるけど、千晃ちゃんはどんなに俺がアホでも馬鹿にしないし、見捨てずに付き合ってくれる。怒られた事はあっても怒鳴られたり暴力を振るわれたりは一度もないし、なんだかんだ優しい。事務所のオーディションも、千晃ちゃんの先輩という人からしつこく頼まれて何度も断ったけど「バイト、またクビになったんだろ。せっかくだし本気で受けてみたら? 今度こそ向いてるかも知んないし」と千晃ちゃんが言うから受けることにした。そして、それは本当だった。そんなひとだから、血をあげたいと思った。
俺が血を飲ませてあげられるうちは、千晃ちゃんはずっと側にいてくれる。だから、今後は不摂生で倒れるようなヘマは避けないと。
「元気になったら、自炊教えて」
微かな寝息を立てて眠る大好きな彼に、あと数ミリでキスできる距離まで顔を近づける。微かな血の匂いは少し前まで俺の体を流れていたもののはずなのに、なぜかとても甘く感じられた。
自称「平凡な男」の千晃は首都圏で暮らすサラリーマンを想定しましたが、それは書き手の私にとっての「平凡」であり、どういう人間を平凡(普通)とするのかという部分に、書く人の考え方(或いは思い込み、偏見)がダイレクトに反映されるんだなあ、と改めて思いました。書き始めた時は千晃×はるひのつもりでしたが、書いてるうちに逆でもリバでもいい気がしてきたので、その辺りはご想像にお任せいたします。