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綿菓子(3)


 高校に入ってからの生活は、椎子自身が一変させた。読書に充てていた時間で、思い切り青春らしいことをしてみることにした。初めて部活動に所属したのだ。

バレーボールという王道な運動部にスポーツ経験のない椎子が入部するのは無謀であるかのように思えたが、どうやら運動神経は良い方らしく初心者にしては早く上達することができた。背が高く体格も良く、いつも日に焼け無造作な短髪をそよがせながら歩く椎子には、学年を問わず多くのファンがついた。気の合うヒトとも出会い、その内の数人とは友だちになることができた。顔立ちも整っているせいか、ふとした瞬間に見せる凛とした表情がクールだと評判だった。バレンタインには机やロッカー、靴箱からあふれ出る甘いお菓子に埋もれた。

巷の女子高生と同じように、授業が終わった後は仲間たちとときめく時間を過ごし、試験前になったら騒ぎながら一緒に勉強し乗り越えるという生活をおくった。

椎子は自分の手を離れたからと今まで以上に美子は仕事に励み、娘よりも更に家に寄りつかなくなった。永子とは言葉を交わすことさえなくなっていた。

「どんなに安定した生活を過ごしていたとしても、女として扱われる瞬間がないと嫌になるモノなのよ。」

 ある日の夜珍しくキッチンで遭遇した美子に椎子は驚いた。以前は可憐な印象が強かった母が、しばらく見ない間に妖艶な女性に変化していたからだ。真っ赤なルージュが塗られた唇によって放たれた言葉は、椎子をどことなく不安にさせた。暗闇の中出かけて行った美子の後ろには、まとわりつくように甘いインスタントココアの匂いが残っていた。


 椎子は高校を中の上くらいの成績で卒業し、かつて美子の憧れた大学に入学した。高校時代と同じくバレーボール部に所属し、以前より少しブランドにこだわったジャージを着用してキャンバス内を歩いた。この恰好でいれば自分が女であるということから解放され、コンプレックスである容姿を気にしなくて済むと思ったのだ。

模擬試験帰りに出会ったようなスカウトを、彼女はその後も何回か受けた。ある時は美容院の建ち並ぶオシャレな街角で、ある時は高速道路のインターチェンジが近い靄のかかった歩道で。全てが全て詐欺ではないのだろうなと流石の椎子も悟ったが、それでもやっぱり彼女は勧誘を最後まで拒絶した。

 椎子が二十歳を迎えた春に、義男はあの世へ旅立った。

「寒いせいか、ここのところ息がしにくくてね。」

 成人式を迎えるにあたって祝いの席の打ち合わせをしようと久々に帰省した美子は、頬がこけ腹の膨れた父親を見てすぐ病院へ引っ張っていった。検査の結果は最悪だった。どのくらい前からなのか義男の身体には大腸癌が巣食っており、今や魔の手は肝臓にも肺にも伸びていた。衰弱しきった義男は救いようのない状態だった。

「これからは誰を頼りに生きていけば良いのだろう、あたしは一人で生活なんてしていけないよ。」

 火葬場の炉の前でぽつりとつぶやいた永子の言葉は、集まった者皆を呆れさせ、そして哀れに思わせた。


「美子は慎一さんを婿に迎え入れたのだから、実質家を継いだも同じでしょう? 大学にも出してもらって随分と手間をかけてもらったのだから、母さんを引き取るとしたら美子でしょう。こっちは無理よ、義美が出産を控えているし。」

 何が何でも上手く生きようとする宏子によって、永子は美子たちの家に引き取られることとなった。お互いを気に入らない者同士だ。永子はまさか宏子にこの期に及んで遠ざけられるとは思っていなかったし、美子も今更母親と生活することに狼狽した。美子は続けていた二つの仕事を両方辞め、母親の介護を始めねばならなかった。化粧気のない顔と普段着で家を駆けまわる姿は決して華やかではなかったが、それでも彼女は可憐でとても美しかった。


 椎子は大学卒業と同時に家を出た。社会で多くの経験をして酸いも甘いも味わいつくした。ヒトを信じヒトに裏切られ、そしてヒトに信じられヒトを裏切った。決して深められることのない人間関係は、いつも秋の空のように移り変わった。

人生を三十年余り過ごしたある日、浮遊するかのような生き方に危機感を覚えた椎子は、これから歩む道の同行者を探し始めるようになった。時には誠実に、時にはあざとく、そして闇雲に行動した。

幸いなことに素晴らしい男性を、結婚相手として得ることができた。自分より年下の彼を言葉巧みに誘い出し深い仲へと引き込んだ椎子は、自分を蜘蛛のようだと感じた。相手は椎子を気に入ってくれているようなので、傍から見れば酷いことをしたわけではないのかもしれないのが。


「そろそろ堂々生きなきゃね。生まれてくる子の、唯一の母になるのだから。」

 ある晴れた日曜日の朝、夫が起きてくる前に椎子は、窓際の椅子に座ってぼうっと外を眺めた。ゆっくり流れる時間の中、流れゆく雲を見ていると、急に虚しさが胸に迫って来た。

「人生を末永く楽しむためには、早いうちからじっくりと努力を重ねて自身をつけていくことが大切なのよ。」

「その場限りで楽しむ趣味よりも、後々にも役に立つ趣味を見つけなさいね。」

 小さい頃から聞かされていた母の言葉。実際どうだっただろうか? 

良い環境であったはずの小学校で深い人間関係を構築することはできなかったし、早くから身につけた知識も結局身にならなかった。

母も今は父と平和に暮らしているがその人生は波乱万丈だ。

祖母に至っては祖父を失ってから男性には誰でも手を出すようになり、通っている施設の職員にまで被害は及んだ。まさにカオスな生き方だ。

「どんなに後々のことを考えて準備をしていたとしても、人生なんてつかみどころのないものだから。末永く楽しく生きるなんて不可能よ。時間をかけて培ってきたモノたちが儚く消えていくのを見守るよりは、今欲するモノへ考えなしに噛みついて、一瞬で消えたとしてもそれを楽しむ方が賢いのかもしれない。きっと貴方も予想できないような人生をおくるのだろうし、そこにワタシが干渉する資格もない。でも、いつでもどこにいてもどんな形でも、ワタシは貴方の幸せを祈っているからね。」

 微かにお腹へ振動が走った。夫の起きる気配がした。

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