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綿菓子(2)

とにかく椎子は本を読んだ。

「その場限りで楽しむよりも、後々役立つ趣味を見つけなさいね。」

口癖のようにつぶやいていた美子は、突然始まった習慣を大いに喜んだ。分厚い本を一日に五冊以上は読み込んだ。スタンダールから芥川龍之介、果てはニーチェやアインシュタインにまで手を伸ばし、ジャンルの壁をすり抜けて暇さえあれば文字を追った。それらは柔らかく広い脳内の引き出しへ無限に収納され、ランドセルを倉庫に仕舞いこむ頃には校内の本を椎子は頭にすっかり入れてしまった。


 中学生になっても椎子は本の虫だった。図書室には用がなくなってしまったため公共の図書館を利用するようになったが、それでも読んだことのない書物は出版されてから日の浅いモノのみとなってきた。成績はいつもトップで、本ばかり読み漁る恐ろしく賢い孫を永子は気味悪がってますます避けた。一方で従姉の義美は洒落た今時風の典型的な女性となり、幾度となく永子を連れ出しデパートで買い物をした。永子は義美の欲しがるままに全てを買い与えた。宏子夫婦も交えて国内海外問わず何回か旅行もしていたようだが、興味がなかった椎子は気にも留めなかった。美子は内孫であるにも関わらず冷遇され続ける椎子を不憫に思い、今まで以上に永子のことを嫌っていった。

 椎子が中学二年になったある日、美子はとある女子高の入学案内パンフレットを見せて来た。今椎子が通っている中学校の付属高校も名の通ったところではあったが、更に上を目指すことのできる成績を修める姿を見た美子のちょっとした思い付きであった。

「仲の良い子はいないけれど、人間関係が一新されるのって嫌だ。女子高って初めての環境だしな。」

「そう言わずにさ、行きたくても行けない子だっているのに椎子は頭が良いのだから。偏差値も高いし、将来の可能性だってきっと広がるわよ。」

 アドバイスという形を崩さず美子が更に強く勧めたところで、椎子は首を縦に振った。

「そんなに言うなら今度の入学模擬試験を受けてみるよ。でも多分そこを受けるヒトはもっと勉強ができると思うけれどね。箸にも棒にも引っかからないようであれば、受験しないよ。」

パンフレットを読む振りをしながら、椎子の脳内では美子の言葉の一部分がグルグルと変化を遂げて回っていた。頭が良い、頭は良い。顔はともかく頭は良い。

「手足も顔もぷくぷくとたくましくなって、可愛い子ブタちゃんみたい。」

「美子には全然似ていないわね。鼻は低いし目も小さいし手足も短い。」

 昔投げられた言葉が急に現れ、頭の中で回る言葉のループに加担する。膨大な知識も多様な物語も、永子の呪いを消し去ることはできなかった。

「お姫様になれない女の子の武器は頭しかないものね、使いこなして見せますよ。」

 人生は面倒くさい。そして自分の性分も面倒くさい。全部ぜんぶ面倒くさい。その日勉強は敢えてせず、模擬試験の申込用紙だけ書いて椎子はベッドの中に潜り込んだ。


 一週間後の試験は手ごたえがあるかも分からなかった。周囲から終わらなかったと悲鳴が聞こえたが、試験時間の三分の一を見直しとして使うくらいには余裕があった。理解できなかったいくつかの問題についてぼんやり考えながら、椎子は珍しく若者が多く集まり最新のトレンドを発信する、有名な通りに足を向けた。会場が偶然にも近くであり、折角ならと立ち寄ったのだ。

「この人だかりと眩しい色彩。化粧せずに、パーカーとジーンズで来る場所じゃなかったか。」

 一歩踏み出した瞬間に、場へのそぐわなさに椎子は身を屈めた。後ろから迫って来る人々、前からすれ違う人々。至るところに個性が爆発していた。ファッション誌でも見かけない奇抜な蛍光色に髪を染めた、ダメージ加工の服を着こなすヒト。ふんだんにあしらわれたフリルの美しい、日傘を手にしたロリータファッションのヒト。流行を敏感にキャッチし取り入れているのか、彼ら自身が流行を作り出しているのか。逃げるように通りを歩き切ろうとする直前で、椎子は黒いスーツの男性に声をかけられた。

「そこのお姉さん。テレビに出ることに興味はない? 」

 冗談だろう、と椎子は思った。見回しただけでも、代わりに声を掛けるべきであろう同年代の女性は二桁に達するほどいた。

「何で? 」

 この後予定があるからと、小ぶりな紙切れを押し付けてくる男性を振り切って、椎子は近くの駅まで走るように足を進めた。タイミング良くやって来た電車に乗っても鼓動は落ち着かなかった。モデルとして活躍していた母はともかく、両親の繕うような言葉以外で外見を褒められたのはおそらく初めてだった。

「化粧もせずにあの通りを歩いていたから、何も知らないお上りさんとして浮いていたのかな。あのまま付いて行ったら変な商売に誘われるとか、高額な商品を押し付けられるとかきっと危ない目にあっていたかな。都会は怖いね。」

 鼓動が治まるのを待って本を開き、分からなかった問題の謎解きを開始した。一瞬でも顔を上げて、トンネルに入った電車の窓に写る姿を見たら椎子は気づいたかもしれない。

父親譲りの爽やかな口元と強い炎を秘めた目を、母親譲りの長い手足と透けるように白い肌を持った彼女は、ぷくぷく育つ子豚からしなやかに歩く猫へと変化を遂げていた。


模擬試験の結果は美子の予想通りであった。その後椎子は、読書の代わりと言わんばかりの熱量で勉強に取り組み、提案された女子高に合格した。脳内に仕舞ってあったあらゆる知識は、ほぼ全てが試験のテクニックに置き換わり消えてしまった。いくら賢く抜群に良い記憶力を持っていたところで、雑多に放り込んだ情報の断片は椎子の人生を煮詰め練り上げ固めていくものにはならなかったのだ。

椎子本人も失ったモノに執着を示さなかった。

「また覚え直せばよいか、環境も変わったことだし。一回仕切り直したつもりで生きてみよう。」

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