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飴玉(3)

「岡崎さんは、どうして私を選んでくれたのですか? 」

 風の冷たくなった休日の昼下がり。美子は海沿いの洒落たカフェで、カメラマンの岡崎と静かな時間を過ごしていた。日焼け止めのコマーシャルの後も岡崎に何かと声をかけられるおかげで、プロモーションビデオやら雑誌やら美子のモデル業はとても充実したものになっていた。

「どうしてって、綺麗だったから。透けるように白い肌と、真っ直ぐに伸びた手足と、艶やかな髪の毛が。」

 あっけらかんと答える岡崎を前に、美子はナポレオンパイが刺さったフォークを落としかけた。

「お世辞には乗せられませんよ。ショーで活躍してきたサラブレッドのような方々が何人もいたというのに。その中で目立つなんて、ありえない。」

 顔を赤らめながら言う美子に、岡崎はぐっと視線を合わせた。

「あの時の人々がサラブレットの大群なのだとしたら、君はその中で一際まぶしく光を放つ一角獣だったのさ。なんてね、単純にボクの一目惚れだ。」

 照れているのを隠すようにフォークを口に運び続ける美子の手を軽く制し、目の奥に燃える炎を宿したまま岡崎は語った。

「一緒に仕事をしてきて思ったのだけれどね、君はもっと自信を持って生きて良いはずだよ。君が過ごした日々の一部分をもボクは知らないけれど、大学での勉強も慣れない仕事もできる限り極めようともがいている姿は、誰よりも近くで見てきているからね。必ず報われるなんて綺麗事は言わないけれど、人生で幸福を手に入れるには、長い時間と積み重なった努力が絶対条件なのだよ。それに早い段階から気付いて実行しているのだから、君の未来はきっと明るい。」

 美子は嬉しかった。長い時間、積み重なった何か。宏子は機嫌の読めない永子のことを恐れながらも、努力して良好な関係を保ち続け愛情と信頼を勝ち取った。大学で出会った人々も会話の節々から、衣食住の保証された環境下で日々を積み重ねて来たからこその余裕が垣間見えた。いつかの撮影現場に揃ったモデルたちの輝きも、今まで積み重ねた自信からくるものであったのだろう。誰しもが当たり前に重ねて来たであろうモノを、美子は最近積み重ね始めたばかりだ。受験勉強もほぼ付け焼刃で、ただやり過ごすだけの日々を過ごしていた自分が、昔から他の人々が煮詰め練り上げ固めてきたモノに匹敵するくらいの努力を重ねられるか? はっきり言って自信はない。それでも少し形になって自分の人生に繋げられれば良いかと、ナポレオンパイの残りをゆっくり噛みしめた。美子と岡崎が世間公認のカップルとして交際を始めたのはそれから間もなくのことだった。


 モデル業との両立は中々大変だったが美子は大学での勉強も励み、卒業するとともに薬剤師の免許を手に入れた。四年間地道に続けた勉学が資格という明確な形で評価されたことは、これまでに感じた経験のない歓喜を味わわせた。

「卒業おめでとう、そして国家試験の合格おめでとう。何が一番おめでたいかわからないけれど、とにかく今は君の新たな門出に乾杯。」

 行き慣れた岡崎の部屋で、美子たちは宵の香る風を浴びながらグラスを鳴らした。

「君はこれからどうするの? 薬剤師としてキャリアを充実させるとしたら、モデル業からは足を洗ってしまうのかな。恋人であることを辞めるつもりはないけれど、カメラマンとしてもう少し君の姿をカメラに閉じ込めたかったな。」

 寂しそうな表情で赤ワインを口に含む岡崎を見ながら、美子はトライフルをフォークの先でつついた。

「モデルを辞めるつもりはないし、これからはそちらを優先したいんだよね。親にも伝えたんだけど、話題のモデルが娘というのは何かと自慢になるみたいで、別に止められもしなかったな。でもこの仕事っていつまで続くかわからない。岡崎さんが私の姿をいつまで撮り続けたくても、需要がなければそこまでだしさ。私自身の輝きがなくなった時に、それでも人生を続けていくために、資格はしっかり取ったのよ。生半可な志だと批判されても仕方がないかもしれないけれどね。」

 岡崎は口元に怪しげな笑みを浮かべた。

「君は随分と用意周到に未来を予想しているのだね、若いのに感心するよ。……ところでその計画を遂行する君の隣に、ボクは存在しても良いのかな? 」

 いきなり何を言い出すのかと目を丸くした美子の足元に岡崎はひざまずき、ポケットから小さな箱を取り出して開いた。

「あの眩しい撮影現場で出会った日、ボクは君に一目惚れをしました。輝く君の傍を一緒に歩んでいきたいと思いました。ボクと結婚してくれませんか? 」

 臭いセリフ、と美子は冷めた目で岡崎を見た。自分も端役で出演したような、ありきたりの恋愛ドラマで見るシーン。使い古されたシチュエーション。それでも一世一代の告白に悪い気はしなかった。子供を連れて実家を訪れる宏子の顔が浮かんだ。ここらのタイミングで一度結婚というものを経験しても良いかもしれない。

小さな箱に収められた、普段使いには向かない青いダイヤの指輪をうやうやしく美子は受け取った。こうして美子は世間に名の通ったカメラマン、岡崎慎一の妻としての座を手に入れた。


 お互いのキャリアを尊重しながら過ごし、忙しくすれ違いも多い生活であった。美子が新たな命を岡崎との間に授かったのは、結婚して四年の歳月が過ぎた暑い夏のことだった。

「この中に私と血の繋がった生命体が存在して、すでに成長を始めているのか。」

 美子は薄く白いワンピースの上からわずかな膨らみを擦りながら、雑誌を眺めた。職業柄なのか、身ごもってしばらく経っても平均的な女性よりは体が重くなることもなく、言われなければ分からないほど服の下の体型も変化していなかった。

「本当に子育てなんてできるのかな。」

 机の上にあったハッカ飴を口にポイと放り込んだ。清涼感あふれる透明な気配をゆっくり楽しむ。長い時間をかけて溶けていく飴の味。長い時間を掛けなければ手に入れられなかったモノの尊さ。

 母親としてどのように生まれてくる子供と接するべきか迷い、迷えば迷うほど自分が両親と良好な関係を築くことができなかったことに美子は苦しんだ。慎一と相談した上で、出産は一回と決めていた。

「私たちの唯一の子供だからね、可能な限り全力で愛情を注いであげよう、多くの時間を一緒に過ごしてあげよう。いつか広い世界に出る日が来ても胸を張って歩くことができるように早いうちから沢山の経験をさせて、どんなことがあっても受け入れて、いつでも頼りになるような母親でいてあげよう。」

 そうすればきっとこの子は長く続く人生を、安定して過ごすことができるだろう。絶対幸せにしてあげる、だから安心して生まれておいで。頭に浮かぶ不安を振り飛ばして美子は飴の欠片を噛み潰し、外に視線を移した。雑誌の文字が読めなくなるくらいに、とっぷり夏の日は暮れていた。

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