飴玉(1)
人生は、飴玉のようにあるべきだ。末永く甘さを楽しむために、じっくりと煮詰め練り上げ固めていかなくてはならない。それなりに長い人生を過ごした美子はそう考えた。
永子の二番目の子供として生まれた美子は、自分を望まれなかった子であると考えていた。母と喧嘩する度に聞かされたエピソードが原因だ。
「お前は男として生まれるはずだった、お腹の形が姉さんの時と違ったからね。なのにお前は大事なものをあたしの中に置いてきてしまったのだよ。父さんはお前が女児と知った瞬間顔も見ずに、仕事に戻っていったよ。」
最初は悲しく思ったものだ。しかし週一回同じ話を聞き続けた結果、何も感じなくなってしまった。
「ああ。確かにあの日父さんはすぐ仕事に戻ったが、それはお前が女だったからではなくて緊急のトラブルが発生したからだよ。」
事実確認をするべく美子が義男に尋ねると、そんな答えが返って来た。
「それでも永子さんは僕のことを良く思わなかったのだろうから仕方がないね。そんなエピソードを語らせるほど怒らせるなんて、お前は一体どんな態度を母親にとっているんだ? もっと自分の行動を省みなさい。」
義男はいつでも永子の味方で、娘たち、特に美子をかばうことは極めて稀であった。実際永子を怒らせなければ平穏に過ごすことができそうなものだが、それは簡単そうに思えてとても難しいことであったのだ。この家に生まれてから、おそらく仕事に出ている義男と比べても長い時間を娘たちは永子と過ごしてきたが、折り合いの悪い美子は勿論のことお気に入りである姉の宏子さえ母親の怒りの引き金を分析することは不可能であった。何も落ち度のない日を過ごすことができたと思っても、いつもは指摘しないことで永子は娘たちを責め立て、感情の高ぶりが収まらない時には手を上げることもあった。
「母さん、さっき言っていたことだけれど。」
ひと段落した時、叱られた理由がいまいちわからない娘たちが顔色をうかがいながら近づいていくと、すっかり落ち着いた永子は不思議そうな顔をした。
「そんなことを言った覚えはない。ついに頭がおかしくなったのかい? 」」
話にならないと宏子が引き下がる一方で、更に腹を立てた美子がしつこく永子にしがみつき、再度熱戦が繰り広げられた。
宏子が中学生になり帰りが遅くなる頃、永子もまた趣味やらアルバイトやらを始めたと言い家を空けるようになった。美子としては、一人平穏な時間を過ごすことができてありがたかった。しかし小学生という立場で、その日の食事も準備されなかったのはきつかった。買いに行く代金も渡されず小遣いも少なかったため、常備されたウィンナーソーセージと米は美子の頼みの綱だった。一度だけ冷蔵庫で古くなったステーキ肉を無理矢理焼いて食べようとしたが、コンロの上で肉は炎上し、なぜか生焼けのまま美子の胃に収まった。
ステーキ肉が無くなったこともコンロに焦げ跡が付いたことも美子が三日三晩血便と嘔吐で苦しんでいたことも、永子にはバレぬままだった。
「もっと上手に生きなさいよ。」
いつものように喧嘩をした日の夜、顔を腫らして壁に文句を呟く美子に、宏子は声をかけた。
「姉さんは母さんと仲が良いから、私の気持ちなんてわからないでしょう。」
キッと睨みつけてくる美子に、宏子は苦笑した。確かに宏子は美子に比べて永子に優遇されていた。経済面の心配が全くない永子の稼ぐ給料は、秘密のお出かけで消費されていた。美子には内緒、を合言葉にデパート屋上のお好み食堂で何度も味わった季節ごとのフルーツパフェ。その全てを美子が一つも気づかない、というのは無理があるだろう。
「なぜ母さんと仲良くできないのかな? 感情的だし矛盾だらけだし、まともに話はできないけれど。この家にいる限り、いや、この家で生まれた子供である限り良い関係でいるべきなのはわかるでしょう? ひたすらご機嫌取りをしておくのよ。」
要領よく生きられる性格だったらと美子は思った。しかし永子の顔色を窺いながら生きていくのに、宏子も限界を感じていた。
「大学には行かないよ。これ以上勉強を続ける必要ないもの。」
ある日の食卓で義男から将来について聞かれた十八歳の宏子は、珍しく戦いの鐘を鳴らした。
「一体なぜ? 聞き分けも良くて賢い宏子に、父さんも母さんも期待していたのよ。」
「母さんの言う通りだ。どんな大学に行っても良いように、金なら用意してあるから心配するな。」
思い通りにならない宏子を前に泣き出す永子とそれに同調する義男を、宏子は冷ややかな目で見つめた。夕食の鶏肉が冷えていくのを美子はもったいなく思ったが、この雰囲気では箸をつける気になれなかった。
「父さん母さんにとっては扱いやすい子供だったかもしれないけれど、小さな頃から顔色を見て都合の良いお人形を演じていただけ。成績は美子の方が上よ、娘たちの成績表なんて興味がなくて見たこともないだろうけれど。」
話はこれで終了と部屋に戻った宏子を後目に、すっかり冷めきったおかずを美子は口いっぱいに頬張った。一般的な大学の入学試験申し込み期間ぎりぎりまで永子と義男は時に声を荒げながらも説得を試みたが、就職活動へ舵を切った宏子は全く耳を貸さなかった。
そして周囲からの評判の下落を恐れた永子は、驚くべき行動に出た。
「宏子は諦めた。お前で良いから大学に行って頂戴。どこにある、どんな大学でもよいから。お願い。」
年の瀬が迫って来た日の風呂上り。髪を拭きながら美子が部屋に戻ろうとしたところを永子は後ろから急に抱きすくめ、耳元に涙声で囁いてきた。
「うん。わかった。」
適当に生返事をする美子にお願いね、と念押しをすると永子は台所へ戻っていった。何となく机の前に腰かけた美子は、重大な問題に気づいた。
「目標を持って勉強したことって一度もないな。」
学校で習った事柄を丸暗記し試験で駆使して問題を解いていくのは楽しかったが、成績なんて誰にも見せないから前もって準備をした経験はない。言い換えれば継続的に勉強をする習慣がない。でも今回は望まれない子供であるはずの自分が期待に応えられるかもしれないチャンスだ。
「やってみるか。どんな大学でも、とは言わずにできるだけ良い大学を目指して。」
その日から約三年間、美子は憑かれたように勉強に没頭した。