46. 君はアンジェリーナ
新宿の雑居ビル6階にある居酒屋のこじんまりした個室で、エッチこと尾野悦子は五杯目のジョッキを飲み干して言う。
「ふ〜ん、ハナってそんな青春してたんだね」
うんうんと何かに納得してたみたいに頷いた。
エッチは、ある時期、恋人のようなそうじゃないような妙な関係だった女性だ。俺の一つ下、今年で二十八歳になる。
東京に来てから出会った人の中で、いちばん面白くて、いちばん刺激的で、いちばん気兼ねなく、いちばん好きな人だ。
恋人的な関係が終わってからも、それは少しも変わっていない。
こうしてたまに飲みに誘ったり誘われたりして、お互いのことを話す。
いつもはもっぱら俺が聞き役だけど、今日は俺が昔のことをずいぶんと話した。
ユッキーのことを中心に、中学から高校時代、東京に出てくるまでのこと。
ひとつの布石のように。
「要するに、ハナは中学生の時に出会った女の子がずっと忘れられなくて、今もその子が理想の女性像ということね」
俺が一時間くらいかけてしゃべった彼女についての話を、そんな一言でまとめてしまう。
まあ間違ってはいないけど。
「簡単に言ってしまえば、そうなるけど……。でも俺の中では、ただ憧れの女の子というだけじゃなくて、なんていうかなあ、なにかあるたびに俺の心を支えてくれたというか、俺の人生を決定づけたと言ってもいいくらいの大切な存在で……」
「うん、それはよく分かったよ。きっとハナの心の中の大きな部分を占めてるんだね、その子が」
俺は彼女の後ろ姿を思い出しながら、静かに頷く。
10年経った今でも、彼女の姿は少しも色褪せずにいることに、自分でもなにか感動のようなものが込み上げて来る。
「きっと、誰にでもそういうものがあるんだと思うよ。青春の曲がり角の道しるべようなものが。それをずっと忘れない、というか、昔の懐かしい思い出にしてしまわないでいるというのは素敵なことだし、ひとつの才能かも知れないね」
「エッチにも、なにかそういうのがある?」
「うん、あるよ。中二の時にね、ラジオから流れてきた『アンジェリーナ』っていう曲を聴いた時の衝撃。あれは絶対に忘れないし、忘れたくない。あれが、あの瞬間が、私の原点なんだって今でも思うよ。あの曲の中の女の子はまさに私で、私はあの子になるんだって決めたんだ。まあいろいろ間違っちゃったかも知れないけど、今でも、できることならあの子になりたいって思うもん」
「へ〜、その一曲が今のエッチを作ってるわけか。一度聞いてみたいな」
「じゃ今、聞いてみて!」
そう言ってスマホをちょこちょこと操作してワイヤレスイヤホンを差し出す。
「かなり昔の曲で、ハナが好きかどうか分かんないけどね」
エッチのスマホには、曲名『アンジェリーナ』、アーティスト名には『佐野元春』と表示されている。
プレイボタンを押すと軽快なイントロが流れ始めた。
ギターのカッティングにジェット機が飛び立つような音がかぶさり、ピアノの弾んだアクセントに続いてサキソフォンのリフが心をうねらせる。そして抑制の効いたボーカルが独特の声質で語りかけるように歌い始めた。
シャンデリアの街で眠れずに
トランジスターラジオでブガルー
今晩ひとり情熱だけ吠えて
ジェームスディーン気取りの
ティーンエイジ・ブルース
ネオンライトに誘われて
ささやく夜の小鳥たち
Brrr……エンジンうならせて
夜の闇の中消えてゆく
Oh アンジェリーナ
君はバレリーナ
ニューヨークから流れてきた
淋しげなエンジェル
今夜も愛をさがして
今夜も愛をさがして
今夜も愛をさがして
サーキットシティ駆けぬけて
星のささやきランデブー
車の窓から身をのりだし
街角の天使にグッドナイト・キス
プロムナードにたむろしてる
望みを失くしたポップコン・ガール
今晩誰かの車が来るまで
闇にくるまってるだけ
Oh アンジェリーナ
君はバレリーナ
ニューヨークから流れてきた
淋しげなエンジェル
今夜も愛をさがして
今夜も愛をさがして
今夜も愛をさがして
車のエンジンを止めて
シートに深く身をうずめ
曇ったガラスを指でぬぐい
お前の夜に話しかければ
街のため息も色褪せて
ひとりぼっち雨の中
ふっと迷ってしまいそうな時でも
二人でいれば大丈夫だぜ
Oh アンジェリーナ
君はバレリーナ
ニューヨークから流れてきた
淋しげなエンジェル
今夜も愛をさがして
今夜も愛をさがして
Oh 今夜も愛をさがして
かっこいい曲だ。素直にそう思った。
豪華絢爛な音の洪水のような最近の曲とは違ってすごくシンプルなのに、フレーズのひとつひとつが印象的で、ダイレクトに心に響く。ちょっとこもったつぶやくような声なのに、歌詞がはっきりと伝わってきて、目の前に情景を浮かばせる。それでいて疾走感に溢れていて、息をつかせる暇もなく畳みかけるようにシーンが移り変わって行く。そして、どこか切なくて哀しくて、ぎゅっと抱きしめたくなるような愛おしさが心に残る。
もう一度、もう一度とリピートして聞いた。
何度聞いても最初の鮮烈さは失われず、逆にどんどんイメージが明瞭になって行く。
もしかして俺もこんな夜を過ごしたことがあるんじゃないかと思うくらい、懐かしく身に沁みてくる。
そして、エッチが過ごして来た日々はまさにこれなんだなと思い至った。
「エッチが言ってた意味がよく分かったよ。この曲はエッチそのものだね」
イヤホンを返しながらそう告げる。
「ニューヨークから流れて来たバレリーナじゃなくて、淡路島から来たバンド崩れの元AV女優だけどね」
おどけたふりで肩をすくめ、自嘲気味にエッチが言う。
「この曲の女の子が二十八歳になったら、どんなふうだと思う?」
「え〜、どうだろう。う〜ん、結婚して幸せな家庭生活って感じじゃないだろうなあ。かといって、バリバリのキャリアウーマンでもないし、どこかの場末のキャバレーかなんかで踊ってる、とか?」
「そういうのも違うような気がするな。俺は、今でも泣いたり笑ったりを繰り返しながら、愛を探し続けてるんじゃないかと思うよ」
「で、仕事は何してるの?」
「行き当たりばったり、いろいろ、かな?」
「なんか今の私みたいじゃん」
「そう。だからエッチそのものなんだよ」
「そっか。今の私って、アンジェリーナの成れの果てなのか」
「成れの果てってことはないよ。この少女の時のままなんだと思うよ。この子ってさ、夜の街角を迷子みたいにうろつきながらも、何かを諦めてるわけじゃないと思うんだ」
「あ、そうだね。不安に震えながら愛を探してるよね。誰かが見つけてくれるのを待ってるよね」
「うん」
「でも、私は誰にも見つけてもらえなくて、結局諦めちゃったけどね」
「ほんとに諦めちゃった?」
「だってもう二十八だよ。今さらメジャーデビューなんて出来るわけないって」
「メジャーデビューしなくたって、やりたいことは変わんないんじゃない?」
「ただの趣味で音楽やってたってしょうがないよ」
「趣味じゃなく仕事にするっていうのはどう?」
「え? 仕事って?」
「実は、今日それを話したかったんだ」
「どういうこと?」
皿に残った刺身をつつく箸を止めて、エッチが丸い目をさらに丸くして俺を見つめた。




