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騒ぎを聞きつけて、ヒトが駆け付けてきたときには、もうムイムイは立ち去った後だった。
そのくらい、それは、短い間に過ぎた出来事だった。
あたしは、駆け付けたヒトたちに事情を話した。
みんなは寄ってたかってアザミさんをどこかへ連れて行ってしまった。
それから、あたしのことも、静かに休める場所に連れて行ってくれた。
急いでやってきた花守様に、あたしは焦る気持ちを抑えて尋ねた。
「ムイムイは?」
花守様は、ほんの一瞬、悲しそうな顔をしたけれど、すぐに、微かな微笑みと共に首を振った。
「あの仔は、あの仔の行くべきところに行きました。」
「行くべきところ、って?」
「さて。
それは、あの仔自身にしか、分かりません。」
花守様はゆっくりと首を振る。
花守様の穏やかな仕草は、ムイムイにそっくりだ。
いや、ムイムイのほうが、花守様にそっくりなんだけど。
「たくさん怪我をしていたんです。
けど、治療もしないまま・・・」
あたしはムイムイのからだじゅうから噴き出していた薬液を思い出して、口を覆った。
花守様は、あたしを落ち着かせるように、背中をそっと撫でてくれた。
「それは、おそらく大丈夫。
あの仔には、その程度なら即座に癒せるだけの能力もありますし。
それに、本来ならあの仔は、焼き物の欠片程度に傷つけられるようなモノではないのです。
だからそれは、あえて、傷ついたのか・・・
それとももしかしたら、傷ついたように見せかけたか・・・」
「ムイムイは、幻術も使えるんですか?」
「わたしのすることは、なんでも、できますよ。
まるで、わたしのすべてを、そのまま写し取ったとでもいうように。」
ちっとも知らなかった。
治癒術は使えるとは聞いていたけど。
ムイムイは何故か、あたしといるときには、治癒術を使ったりしなかったから。
「それより、あなたは?
楓さんには、怪我はありませんか?」
「・・・あたしは・・・ムイムイに庇ってもらったので・・・」
あのときのことを思い出すと、また、涙が溢れてきた。
からだじゅう傷つきながら、あたしの鼻にちょんと指を触れて。
そうして、去って行ったムイムイ。
花守様は優しく髪を撫でてくれた。
「あの仔は自分にあるだけの力で、あなたを護りたかったのでしょう。」
「ムイムイは・・・笑いました。
確かに。
あたしを見て、笑ったんです。」
「あなたを傷つけずに済んで、誇らしかったのです。
嬉しくて、思わず笑ったんだと思いますよ。」
ムイムイは、とても綺麗な顔立ちをしていた。
けど、その顔はいつも無表情で、なんの感情も示さない。
冷たい絵姿のようだった。
だけど、あの笑顔は本当にあったかくて、優しい気持ちの伝わるような笑顔だった。
「最後の最後に、あなたの心に、そんなものを刻みつけていくなんて。
ずるいヒトです。」
花守様はわざと責めるように言って、ため息を吐いてみせた。
「そんなの、もう何をしたって、消せないじゃないですか。」
「消したほうが、いいんですか?」
「いいえ。」
花守様は、ゆっくりと微笑んだ。
「消さないであげてください。
どうかずっと。
ずっと、覚えていてあげてください。」
その言い方が優しくて、あたしはまた、ぽろぽろと泣いてしまった。
「あたしより、花守様のほうが、もっと、悲しい、ですよね?
ずっと、ムイムイと、一緒だったんだから。」
泣きながら言うあたしに、花守様は、ええ、そうですね、と静かに頷いた。
「けれど、この森に来るヒトは、必ずいつかは去って行くもの。
ムイムイも、自分の行くべきところを思い出して、そこへ行ったのでしょうから。
それを引き留めることは、わたしにはできないのですよ。」
花守様は、そんなふうに思っていたんだ、って思った。
施療院に来るヒトを、花守様は、決して拒まない。
けれど、施療院から去って行くヒトを、引き留めることもしない。
そんな花守様を、もしかしたら、冷たいヒトかと思ったこともあるけれど。
きっと違う。
花守様は、いつもいつも、相手の意志を、自分の気持ちよりも大事にするんだ。
「わたしは、ただここにいて、来るモノを迎え、去るモノを送る。
ずっと長い間、そういうモノなのです。」
「花守様は、淋しくないんですか?」
花守様はゆったりと微笑んだ。
その笑みに、ムイムイの笑顔が重なった。
「淋しい、ですとも。もちろん。
けれど、わたしの淋しさなど、それほど重要ではないのですよ。」
あたしはたまらなくなって、花守様の胸に縋りついた。
花守様は、避けることはしなくて、ただ、ゆったりと受け止めてくれた。
「ムイムイは、いつか、帰ってくるでしょうか?」
「どうでしょうね。
それが、ムイムイにとって必要なら、帰ってくるでしょう。」
あくまで、相手がどう思うか。
それをとことん、尊重する。
それは、簡単なようで、実際にやろうとすると、とても難しいことだと思う。
自分の気持ちは一切、押し付けないんだから。
去ることも、戻ることも、花守様はどちらも拒まない。
たとえどちらかを望んだとしても、それを伝えることもしない。
それが、どんなに辛くても。
「・・・あたしは、行きません。」
花守様の胸に顔を埋めたままで、あたしは言った。
声が少しくぐもって、自分のからだに響いた。
「あたしは、決して、どこにも行きませんから。」
あたしは決意を込めて、そう告げた。
花守様は、一瞬、ほんの一瞬だけ、からだを固くした。
けど、すぐに、また優しくあたしの髪を撫でてくれた。
「・・・有難う、楓さん。」
花守様はそう言って、しばらく躊躇ってから、続けた。
「でも、いつか、気持ちが変わったら・・・
どこか、行かなければならないところを見つけてしまったら。
そのときは、どうか、行ってください。」
はっとした。
からだが固くなった。
息するのも、忘れていた。
「・・・行きたく、ない、です。」
応えた声が震えていた。
「ここに、ずっと、いたい、です。
いいえ、ずっと、います。」
「いたい間は、ずっと、いてくださっていいんですよ。」
花守様のその応えは、けれど、ひどく突き放されたような気持ちにさせた。
「いたくなくなってもいます。
いや違う。
いたくなくなるなんてこと、ありません。
だって、あたしは、花守様のこと!」
しぃっ。
花守様は突然そう言って、あたしの顔を自分の胸に押し付けた。
その先は、言ってはなりません。
声を潜めた花守様の言葉は、あたしのからだに響いた。
花守様の腕には、珍しいくらい、強い力がこめられていた。
あたしの顔は、息苦しいくらい、ぎゅっと、押し付けられていた。
それでも、あたしは、必死に暴れて、その腕を振り解いた。
それから、花守様の目を、真っ直ぐに見上げて言った。
「分不相応だって、自覚はあります。
でも、あたしは、花守様のこと、好きです。
ずっと、ずっと、前から、もうずっと、変わらない。」
それを聞いた花守様の顔は、まるでムイムイのような無表情だった。
嬉しいとも、困ったとも、その表情からは伺えなかった。
すぐに応えてくれるとは、流石に思ってなかった。
あたしよりずっとオトナなヒトたちが、大勢、断られたのも見てきた。
だけど、まったく望みがないとも思ってなかった。
だって、あたしは初恋のヒトだったんだ、って言ってたもの。
仔狐のときだけど、あんなにはっきり、お嫁さんになってね、って言ったんだもの。
迎えに行くって言って、本当に、迎えに来てくれたんだもの。
花守様の瞳から涙が溢れた。
それは、どう見ても、嬉しくて泣いた顔じゃなかった。
そのまま、花守様は、あたしから目を逸らせた。
「・・・ごめんなさい、楓さん。
わたしには、そのあなたの気持ちに応えることは、できません。」
震える声を絞り出すように。
花守様は、そう言った。




