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花恋物語  作者: 村野夜市
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虫憑きの一件が落ち着いたころ。

あたしは施療院に来てから、もう何度目かの春だった。


羽化してからというもの、ムイムイはどこへ行くにも、花守様についてまわっていた。

まるで忠実な影のようだ。

そうして何を教えられなくても、その治癒術を真似してやるようになっていた。


ムイムイの治癒術は、まるっきり花守様にそっくりだった。

施術ですら、よほど複雑なものでなければ、こなせるらしい。

あたしよりよっぽどよく出来た見習いだ。


ムイムイのからだの内側には、薬液と妖力だけ詰まっている。

ムイムイは作られた妖物だけれど、図らずも、治癒術を使うために作られた妖物のようだった。

治癒術を使うとき、ムイムイの全身はほんのりと金色に光り輝いて、いっそ神々しくさえ見える。

その治癒の効力は、花守様にも匹敵するほどのものだった。


口はきかないけれど、慣れてくると、その瞳は意外によく感情を映しているのに気付く。

もっとも、その穏やかさも花守様譲りで、滅多にというか、一度も、怒ったことはない。

意に沿わぬことに出会うと、静かに逃げて、決して誰かを攻撃したりはしない。

少しばかり臆病で、慣れない相手には人見知りをする。

けれど、慣れたヒトには、相手の心を読んで先回りするように尽くしてくれた。


それでも、まだ、ムイムイのことはどうしても受け容れられないってヒトはそれなりにいた。

そのヒトたちの治療に行くときには、花守様は、ムイムイには待っているように言う。

すると、ムイムイはおとなしく、じっと待っている。

ムイムイは花守様の言うことなら、なんでも聞いた。


朝の散歩にも、毎日ムイムイはついてきた。

そうして、山吹の木の傍に行っては、いつも不思議そうに見上げていた。

あの夢のなかにも、この木はあったけど。

あれと同じ木だって、思っていたのかな。


ムイムイの後にも、何体か、蛹にまで成長した卵があった。

ただ、羽化には至らなかった。

羽化させるには、あのときの花守様のように、誰かが魂を同調させなければならないらしい。

けれど、あえてそれに志願するヒトはいなかった。

花守様だけ、もう一度、と言ったけど、それは、周りが一斉に引き留めた。

結局、蛹のまま、虫たちは、花守様の貯蔵庫で眠らせておくことになった。

その後、卵を憑けられることもなくなったので、それ以上は蛹の増えることもなかった。


呪いの解呪のほうは、なかなか進捗がなかった。

アザミさんは手を使えないまま、術や足をその代わりにする練習を始めた。

藤右衛門は、箸も刃物も、器用に術で動かしていたけど。

あれって、かなり、器用な部類だったんだ、って、今更ながら思った。

熟練の戦師のアザミさんは、妖術も体術も、並の狐には到底及ばないほどの上手なはずだ。

それでも、術で箸を使いこなすのは、かなり苦労していた。


施療院の患者さんたちは、少しずつ少しずつからだを治して去っていく。

患者さんは次から次へとまたやってくるけど。

そのヒトたちもまた、からだを治しては去って行く。


他の患者さんたちがそうやって去って行くのを、アザミさんはどこか辛そうに眺めるようになった。

それを気の毒には思っていたけれど、だからといって、何かしてあげられることもなかった。


それは、突然、起こった。


がしゃん、という器の割れる音と、激しい怒声。

あまりにそれは激しすぎて、何を言っているのか言葉は聞き取れなかった。


驚いて駆け付けると、地面に膝をついたムイムイと、その前に仁王立ちになったアザミさんがいた。


ムイムイの周りには、いくつもの割れた食器の欠片が飛び散っていた。

食器に入っていたのか、食べ物も、欠片にのなかにたくさん混じっていた。


アザミさんは怒りに燃える目をして、ただ無言で、ムイムイを見据えていた。

ムイムイは飛び散った欠片を、丁寧に拾い集めようとしていた。


「どうしたんです?」


アザミさんをこれ以上怒らせないように、あたしはなるべく静かに声をかけた。

けれど、声が小さすぎたのか、アザミさんには聞こえなかったみたいだった。


ただ、ムイムイは、あたしの声に、こっちをむいた。

顔を上げたムイムイは、額が切れて、そこから薬液らしい透明な液体が流れ出していた。

驚いたあたしは、何も考えずに、ただ、ムイムイに駆け寄っていた。


「どうしたの?怪我、してるよ?」


ムイムイはそのあたしをいきなりぐいと押し退けた。

あ、と思ったその次の瞬間、あたしのいた場所を、鋭い破片が行き過ぎて行った。


「・・・アザミさん?」


あたしは慌てて振り向いた。

アザミさんは涙の溢れる目を見開いて、けれど、その目には何も映していなかった。

ただ、怒りだけに支配されて、アザミさんは、落ちた破片を操った。


無数の破片が、鋭い切っ先をこちらに向けて、一斉に、飛んできた。

あ。と思った。

その次の瞬間、あたしの目の前には、細くて華奢な背中が立っていた。


「ムイムイ!」


ムイムイの全身には、無数の欠片が突き刺さっていた。

その傷のひとつひとつから、薬液があふれだす。

あたしは、咄嗟にどうしていいか分からなくて、ただ立ちすくんでいた。


治癒術を、かけるべき?

いやでも、あたしには、こんなたくさんの傷を治すなんて、無理だし。

だいたい、ムイムイに、狐の治癒術は効くの?


頭のなかを、言葉だけぐるぐると空回りする。

そのなかに、意味のある思考は、ひとつもなかった。


ムイムイは、そんなあたしを振り返った。

額から流れる薬液が、目のところを伝って流れていた。

それは、ムイムイが涙を流しているようにも見えた。


大きくて潤んだ目が光を宿す。

それから、確かに、ムイムイは微笑んだ。


はっと息を呑んだあたしにむかって、ムイムイは、ゆっくりと手を伸ばした。

その手をそっと、あたしの鼻先に触れる。

かすかに、ちょん、とだけ触れて、そして、もう一度微笑んだ。


その次の瞬間、ムイムイの全身は、眩い金色に輝いた。

光のなか、抜け落ちた破片が、ぱらぱらと地面に落ちる。

それからムイムイはゆっくりと羽ばたいた。


ムイムイが飛ぶのを見たのは、あの、蛹から脱出したとき以来だった。

それはとても綺麗な姿だった。

そうしてムイムイはそのまま洞窟の天井をすり抜けて、どこかへ去ってしまった。


かさり、と音がして、仁王立ちになっていたアザミさんが地面に膝をついていた。

慌てて、あたしはアザミさんに駆け寄った。

アザミさんは、滂沱の涙を流しながら、激しく嗚咽していた。


「すまねえ、お嬢。すまねえ。」


何度も何度も、すまねえ、と繰り返しながら、アザミさんは、いつまでも泣いていた。



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