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ムイムイは夢で会ったあの姿のまま、全身がほんのりと金色に輝くようになっていた。
蠱毒、という、恐ろしい禁術で作られた妖物だというけれど。
とてもそうは見えない。
姿形も、仕草も、どこかおっとりして、優雅とさえ言っていいくらいで、優し気な雰囲気を持っていた。
ムイムイは、柊さんの妖力で作られた虫籠に閉じ込められていた。
けれど、花守様は、すぐにそこから出してしまった。
危険じゃないのかと、眉をひそめるヒトたちもいたけど。
ムイムイは、何も悪いことなどせず、とてもおとなしかった。
透明の羽根をふるふると震わせて、いつも花守様の後についていく。
ヒトに触られるのは苦手みたいで、手を伸ばすと、すっと逃げる。
ただ、花守様だけは、手を出すと、すっと寄ってくる。
食べ物はなにも食べないけれど、ときどき、薬液を、葦の茎を使って吸った。
言葉は話さないけれど、こちらの言うことは分かるみたいだ。
話しを聞くときには、大きくてうるうるした目で、こっちをじっと見つめている。
感情がなくて不気味だと言うヒトもいるけど、感情はないわけじゃないと思う。
表情を変えることはしないけれど、好きなところへは自分から近づくし、嫌なことからは逃げる。
花守様は好きだけど、柊さんはちょっと苦手。
見ていたら、なんとなく、そういうことも分かった。
花守様ほどじゃないけど、あたしにも、ムイムイは少しだけ、懐いてくれているみたいだった。
手を出すと、おずおずと、指先を、ちょん、と触れてくる。
花守様と違って、それ以上は無理だけど。
あと、薬液は、花守様かあたしの差し出したものしか飲まなかった。
ムイムイは、見習いのころのあたしみたいに、四六時中、花守様について回るようになった。
施術のときにも、一緒に天幕に入るから、あたしよりもっとずっと一緒かも。
花守様はあいた時間があれば、あれこれとムイムイのことを調べていた。
それから、ムイムイの脱いだ蛹のことも調べていた。
ムイムイが脱け出した後の蛹は、ぱっくりと背中が割れた以外は、前のままだった。
固くなったり、色が変わったりもしていない。
花守様は、この蛹を消滅させる方法を、もうずっと探していた。
虫憑きの体内にできた蛹を消滅させられれば、憑いている虫も、羽化するか消滅するしかない。
けど、不完全な蛹からでは、ほぼ、羽化は成功しない。
軽く攻撃を当てれば、虫は消滅し、虫憑きは救える。
花守様はそう考えていた。
物理的な力や、術の類で蛹に傷をつけられないことは、もう分かっている。
そこで、今度は少し趣向を変えてみることにしたらしい。
来る日も来る日も、花守様は、蛹にいろいろなものをかけていた。
いろんな温度の水。
調合を変えた薬液。
お酒や味噌や醤油まで。
思い付く限り、さんざん試していた。
それでも、蛹には、やっぱり、傷ひとつつけることはできなかった。
もうありとあらゆるものは全て試してしまった、と毎日、夕方には疲れ果てていた。
けれども、翌朝になると、花守様は、また試すものを思い付いていた。
その特効薬が見つかったのは、偶然の賜物だった。
レンさんはあれからも、定期的にアザミさんのお見舞いに来てくれていた。
その帰りにムイムイの様子を眺めていくのも、いつもの習いだった。
アザミさんは、ムイムイのことだけは、どうしても受け付けられないようだった。
だから、ムイムイを見にきたこともない。
それも仕方ないと思う。
アザミさんの大事な大事な相棒は、ムイムイと同じ虫に殺されてしまったのだから。
花守様も、アザミさんのところに行くときだけは、ムイムイを置いて行くようにしていた。
そのとき、花守様は、ムイムイと一緒に、蛹にいろいろなものをかける実験をしていた。
あたしも手伝おうと思ってそこにいたんだけど、あまりやることはなくて、ただ見ていただけだった。
ムイムイは、今やもう、立派な花守様の助手だ。
花守様になにか言われる前に、すぅっ、とその手元に必要なものを差し出す。
受け取った花守様は、ムイムイににこっと微笑みかける。
花守様をじぃっと見つめているムイムイの顔に表情は浮かばないんだけど。
なんとなく、その瞳が、きらっ、と光るような気もする。
ふたりの間に、言葉を交わす必要もない。
なんだかちょっと、嫉妬しそうになるくらいの、連携のよさだ。
「やあやあ、花守様。いつもご精が出られますなあ。」
にこにこと賑やかに現れたレンさんを、ムイムイはじぃっと見つめる。
まるで、この相手は花守様にとって害を成すものかどうか見極める護衛かなんかみたいだ。
いつもだと、その後、すっと目を逸らして、そのまま帰るまで知らん顔なんだけど。
今日は、なんの気まぐれか、すぃーっと、レンさんに近づいて行った。
それから、ふんふんふん、とその袖口の辺りに鼻を近づけてしきりに匂いを嗅いだ。
「ああっ、これ。こんなところにも、ついてやしたか。
これはこれは、このまま帰ったら、また衣を汚してと、アズに叱られるところでした。」
レンさんの袖口には、小さな赤い染みがついていた。
なんだか、血の染みのようにも見える。
「どうしたんです?それ?」
「いやあ、さっき、アザミ師のところで、つい手を滑らせて、湯呑を割ってしまって。
破片を拾おうとして、手をちょっと切ったんっす。
いや、大した怪我じゃないんっすよ?」
レンさんは掌をこっちに見せたけど、治癒術をかけたのか、傷はもうどこにもなかった。
「しかし、まさかこんなところに、血、つけちまってたとは。
ちょっと、水場をお借りして、洗ってきてもいいっすか?」
行こうとしたレンさんの袂を、ぐい、とムイムイが掴んだ。
花守様とあたし以外に手を触れるなんて珍しい。
え?とその場の全員が驚いた。
けど、もっと驚いたことに、ムイムイは、レンさんに向かって、水の入った湯呑を差し出した。
「ええっ?ムイムイさん、アッシに、お茶、淹れてくれたんっすか?」
レンさんは感激したようにムイムイを見た。
ムイムイは、何を考えているのか分からない顔のまま、レンさんの方へぐいと湯呑を突き出した。
「これはこれは、心していただきやす!」
レンさんは有難そうに、両手を差し出して、湯呑を受け取ろうとした。
けど、ムイムイの手を離すのが一瞬早すぎて、湯呑はレンさんの手から滑り落ちた。
盛大に湯呑の割れる音と、ああっ!というレンさんの悲鳴が、同時に響いた。
「なんということ!
ムイムイさんの大事な初めてのお茶を零してしまうとは!
アッシ、一世一代の大失敗っす!!」
いや、そこまでじゃないと思うけどね。
だいたい、湯呑に入ってたのって、お茶じゃなくて、ただの水です。
レンさんは慌てて割れた湯呑を拾おうとして、あちっ、と手を振った。
「う。う。う。
アッシってば、どうしてこう、粗忽なんだろう。
また、切っちまいやした。」
いちち、と言いながら治癒術をかけようとしたレンさんを、ムイムイはいきなり突き飛ばした。
おっとっと、とたたらを踏んだレンさんは、ちょうど近くにあった蛹に手をついて転ばずに済んだ。
「う、わっ!
って、ムイムイさん?
怒ってるんっすか?
確かに、申し訳ないことをしやしたが、なにもそう乱暴なさらなくとも・・・」
涙目になってぶつぶつ言うレンさんの手を、ぎゅっと握ったのは、花守様だった。
「蓮華殿!
ちょっと、この手をお借りします。」
「は?」
振り返ったレンさんは、自分の手を握って、目を見開いている花守様にぎょっとした。
花守様の目は、きらきらを通り越して、ぎらぎらしていた。
「へ?は?花守様?」
花守様は、レンさんのその手を握ったまま、ぎゅっ、と蛹に押し付けた。
じゅっ、という音がして、蛹から、かすかに煙のようなものが上がった。
「げげげっ?」
驚いたレンさんが奇妙な声を上げる。
あたしたち全員、見開いた目を、互いに見交わしていた。




