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ここには花守様を探しに来たはずなんだけど。
こんな小さな仔狐を、放っておくわけにもいかない。
それに、花守様ならきっと、仔狐を先に、って言うだろうし。
花守様って、そういうヒトだからさ。
そういうわけで、にわかに、狐火教室が始まってしまった。
水を受ける器を作るように、両手を合わせます。
それから、大好きなヒトのことを思い浮かべます。
そうしたら、大好き、とか、有難う、とかいう気持ちを、手の器のなかに溜めていきます。
道場で習った、狐火の点け方。
まさか、誰か相手に、自分がやるはめになるとは思わなかった。
仔狐は、真剣な顔をして、あたしのやるのを真似している。
ううう。小さい仔のこの真面目さって、なんか、凶器だ。
「だいすきな、ひと、って?」
「ううん・・・お父さん、とか、お母さん、とか?」
「・・・うーんと・・・えーっと・・・」
四苦八苦している仔狐が可愛い。
そうなんだよねえ。
思い浮かべて気持ちを溜める、って、口で言うのは簡単だけど、なかなかコツが掴めないのよ。
「あたしたちの妖力ってのはさ、気持ちの力、なんだよ。」
「きもちのちから?」
「だからさ、大好き、ってのを溜めるの。」
「だいすき、は、たまる、ですか?」
・・・ですよねえ?
自分だって、仔狐のとき、なかなかできなかったし、今だにうまくできないもん。
「溜まる、らしいよ?」
あ。
やっぱ、あたしって、先生にはむいてないわ。
「とにかくね、自分のなかにある、綺麗な気持ち、ってのを溜めるの。
大好きだけじゃなくてね、有難うでも、嬉しいでも、楽しいでも、いいんだけどさ。
要は、汚れてない気持ち、ってのを、溜めるんだって。」
汚れてない気持ちって、なんだ?
そもそも、気持ちに、綺麗も汚いもあるんだろうか。
仔狐のころのあたしは、そういうこと考えだすと止まらない仔だった。
いや、いまだに、そこんとこ、よく分かってないんだけど。
「妖力ってのはさ、強い気持ちの力、なんだよ。
だからね、怒りとか悔しさとか憎しみとか、そういうのも妖力にはなるの。
上級のヒトだと、そういうのもうまく使いこなすんだけどさ。
そういう、負の感情の力、ってのは、使いこなすのが難しくて、暴走しやすいんだよね。
だからね、小さい仔はまず、ダイスキ、を溜めるの。」
こんなの小さい仔に、こんなこと話しちゃって、いいのかな。
だいたい、言われて分かるもんだろうか。
だけど、仔狐はあたしの話しに、大真面目に頷いた。
「ぼく、やってみます。」
「うんうん。
あとは練習あるのみだからね。」
狐火ってのは、ある程度妖力が溜まると勝手に発動するんだ。
だから、最初に習うんだけどね。
あれって、狐の妖力の具現化なんだよね。
それでも、うーん、うーんと唸りつつ、なかなか仔狐の手に火は灯らなかった。
「あ。難しかったら、無理しなくていいよ。
あたしもさあ、なかなかできなかったから。」
そうそう。
あたしみたいなのに教わっても、コツ、とか教えてあげられないからさ。
やっぱ、術は、上手なヒトに習うほうが、ずっといいと思う。
「ダイスキヲタメル・・・ダイスキヲタメル・・・ダイスキヲタメル・・・」
仔狐は呪文のように繰り返す。
まあ、呪文を淡々と繰り返すのも、余計なこと削ぎ落して集中するから、案外、効果はある。
「・・・ダイスキヲタメル・・・ダイスキヲタメル・・・」
だけど、あまりにもその呪文は効果がなくて、見ていて仔狐が可哀そうになってきた。
「大好きなんて、溜めるもんじゃないよなあ。
気付いたら、そこにあるもんじゃない?」
「え?・・・ソコニアル?」
はっと、仔狐は顔を上げる。
それから、にこっとして、もう一度、手の器を見た。
「ヤサシイオネエサンダイスキ。」
ぽっ。
それは、あまりに優しくて、綺麗な色の火だった。
仔狐の一番綺麗な気持ちが灯ったような。
生まれて初めて灯す火は、その狐の生涯で一番、綺麗な火だと言う。
あたし、うっかり、この仔狐の生涯で一番綺麗なものを、見せてもらっちゃった。
ただの通りすがりの分際で、なんか悪いことをした気持ちも、心の奥底にちょびっとあったけど。
そんな染みも掻き消すくらい、その火は清浄で、とっても綺麗だった。
「ヤサシイオネエサン、ぼく、できました。」
仔狐はあたしのほうに両手のなかの火を差し上げるようにして、嬉しそうに報告した。
あたしは、それに何も言えなくて、ただ、うんうんと何度も頷いた。
仔狐が、初めて灯す狐火を見られるのは、大抵、その家族。
親とか、きょうだいとか、親戚とか、たまに、近所のヒトとか。
仔狐が一番安心して傍にいられるヒトたちだ。
だから、いいとこ取っちゃったみたいで、とってもとっても申し訳ないんだけど。
この仔狐の家族や親戚、ご近所の皆さん、ごめんなさい。
それでも、この仔は、こんな綺麗な火を灯せる仔だから。
これからだって、きっときっと、素晴らしい術を使いこなすようになるだろう。
生まれて初めて狐火が灯ったら、その日は、盛大にお祝いをしてもらえる。
小豆を入れたもち米を炊いて、ご近所中にも配り歩く。
その嬉しさが、今やっと分かった。
あたしも今、お祝いを配り歩きたいもの。
狐火が灯るのは、妖狐として目覚めた証。
一人前になるには、まだまだ修行も必要だけど。
それでも、これは、この仔の最初の扉が開いた証だ。
おめでとう、おめでとう。
偉いね、よく、やった。
そう言って、抱きしめて、振り回してあげたいくらいだけど。
実際のあたしは、ぴくりとも動けずに、ただ、じっと立ち尽くしているだけだった。
にこにことあたしを見ていた仔狐は、ちょっと心配そうに、首を傾げた。
「ヤサシイオネエサン、どうして、ないてるの?」
「へ?」
言われて初めて気が付いた。
あたしの頬には、ぽろぽろぽろぽろと涙の玉が転がり落ちていた。
慌てて手で涙を払い落としながら、あたしは、へへへ、と情けなく笑った。
「ご、ごめん。
これはさ、嬉しくて、泣いてたんだ。
というか、自分でも知らないうちに、涙が零れてきた。」
へへへ、と笑うと、こっちをじっと見ていた仔狐と目が合った。
仔狐はもう、これ以上ないってくらい、極上の笑顔になった。
「そっか。うれしい、か。」
ぽっ、とまた、仔狐の手のなかに火が灯った。
うわ、なにこの仔。
コツ掴んだ途端に、いきなり上手じゃない。
仔狐はふたつになった火を不思議そうに見ていたけど、えへっ、と笑って、宙に放った。
うわうわうわ。
それって、まだ教えてないよ?
「ヤサシイオネエサン、ダイスキ。」
「ヤサシイオネエサン、アリガトウ。」
「ヤサシイオネエサン、ぼく、できたよ。」
「ヤサシイオネエサン、ぼく、もう、こわくない。」
「ヤサシイオネエサンのことも、まもってあげる。」
「だから、ヤサシイオネエサン、おおきくなったら、ぼくの、およめさんになってね。」
ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ!
うわ。
最後のだけ、ちょっと色が違う。
やるじゃないか、仔狐。
小さい仔の、およめさんになってね、攻撃は、あっちこっちで、さんざんやられてるけど。
かなわないねえ、これだけは。
もう、いいよいいよ、いくらでもなっちゃう、って即答しそうになるよ。
でもそれだと、優しいお姉さんが、いけないお姉さんになっちゃう。
灯るたびに、火を投げて、それが辺りの木に灯っていく。
少しも熱くない、ただ、光だけの狐火。
いつの間にやら、仔狐は、あたしよりずっと狐火がうまくなっていた。
狐火は次から次へと増えていって、辺りは、いつの間にか昼間のように明るくなった。
虫たちが、静かに、退散していくのが分かる。
闇に潜むモノたちは、もうこの仔狐の近くには寄ってこないだろう。
「ムイムイも、アリガトウ。」
「ムイムイが、いてくれてよかった。」
明るくなった森に、ムイムイがゆっくりと舞い降りてきた。
その後ろに見えた木に、あっ、と思った。
それは、あの山吹の木。
見慣れた姿より、少し小さい気もするけど、間違いない、あの年中花を降らせる山吹だ。
ということは、ここは、うちの森だったのか。
ムイムイは、眩しい金の色に全身が光っていた。
ああ、これから、ムイムイにも、何か起こるんだ、って分かった。
なにか。とてもいいことが。
「ムイムイ!」
仔狐がその名前を呼ぶ。
ムイムイは、応えるように、じぃっと、仔狐の目を見つめている。
その目に感情は見えないんだけど。
なんだか、有難う、って言っているように感じた。
そのとき、はっ、と気付いた。
辺りに灯る、無数の狐火。
そこから降り注ぐ、優しい、花の香。
さっきから、ずっと、なんだかほっとして、安心できるような気持ちになっていた。
それって、この香に包まれていたせいだ。
「花守様?」
あたしは、目の前の仔狐を、まじまじと見つめた。
仔狐は、こっちをくるっと振り返ると、にこっとした。
「ヤサシイオネエサン。
ぼく、おおきくなったら、きっと、ヤサシイオネエサンのこと、むかえにいくね。」
仔狐のからだも、金色に光り始めている。
はっとして見下ろした自分の手も、同じ金色に光っていた。
ぱかり、と、はるか上のほうで、音がした。
そこから眩しい光が差し込んできた。
ムイムイは、仔狐とあたしを両手に抱えると、光にむかって飛び始めた。




