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あたしたちの周囲は、ひととき、清涼な気に満たされた。
あの甘ったるい匂いが消えて、ふわり、と花守様の香が強く香った。
あ、と思った。
またすぐにあの甘ったるい匂いが押し寄せてきて、花守様の香は打ち消されてしまったけど。
確かに、花守様は、この近くにいる。
そう確信した。
仔狐のからだは、最初会ったときみたいに、ほんのりと光を帯びていた。
あたしの妖力に反応したのかもしれない。
こどものうちは、こんなふうに、誰かの妖力に反応してしまったりしやすいんだ。
ちょっとだけ、しまった、と思った。
逃げるために貯めていた妖力を、うっかり、使ってしまったから。
だけど、すぐに、それでよかったんだと思った。
この気は、あたしたちにとっては心地よくても、ムカデにとっては、嫌なものらしい。
あたしたちの周囲から、一斉に逃げ出していく。
そのとき、ぼんやりした明かりに照らされて、ヒトの影が見えた。
そのヒトは、背中に羽が生えていて、素晴らしい速さで飛び回っていた。
どうやら、あたしたちのほうへ来ようとするムカデを、追い返してくれているらしい。
少し見ていて、それに気付いた。
「あ。ムイムイ。」
仔狐が思わずそう呟いた。
「あのヒト、ムイムイっていうの?」
あたしが尋ねると、仔狐はこくりと頷いた。
「ムイムイはね、つよいんだ。
もう、だいじょうぶだよ。」
確かに、ムイムイは強かった。
みるみるうちに、ムカデを撃退していく。
さっき、頭の上を行き過ぎた風は、ムイムイの羽の起こした風かもしれないと気付いた。
もうずっと前から、あたしたちのこと、護ってくれていたんだ。
追い払われたムカデは、けれど、暗闇のなかに、またじっと潜んでいるようだった。
そうして、光が消えるのを待っている。
ほんのりと淡く光る仔狐の光。
これが消えたら、また、襲い掛かってくるに違いない。
光。
光、かぁ・・・
あたしは自分の掌を見つめた。
いや、ここはためらってる場合じゃないよね。
仔狐のからだはあたしの妖力に反応して光っているだけ。
この光のある間は、ムカデは寄ってこないだろうけど。
いつまたさっきみたいに、突然、消えてしまうか分からない。
大丈夫。何回も何回も、練習、したじゃない。
あたしは意を決して、狐火を灯した。
ちょっと、あちっ、となって、取り落としたら、焚火くらいの大きさになってしまったけど。
う。
思ったのより大きかったけど、まあ、いいっか。
大は小を兼ねる、よね、うん。
狐火の光は、周囲を明るく照らし出した。
すると、ムカデたちは、今度は自ら、大急ぎで光の届くところから逃げていった。
やっぱり光が苦手なんだ。
よし。
それさえ分かってれば、もう、怖くないぞ。
「あ。触らないでね。熱さは加減できないから。」
物珍しそうに狐火のほうへ近寄っていく仔狐に、あたしは慌てて注意した。
同族だと、狐火なんて、平気で触っちゃうから。
いや、普通は、触っても、熱くないんだけど。
「・・・これは、なぁに?」
仔狐は狐火を指さしながら、あたしを振り返って尋ねた。
「え?狐火、知らない?
お家で、お父さんかお母さん・・・」
言いかけて、あたしは、あ、と口を押えた。
仔狐はみるみる下をむいた。
あたしは慌てて言い直した。
「え、っと。狐火、だよ?
君も、もうちょっと、大きくなったら、使えるようになる、かな?」
早い仔だと、このくらいで、もう使える仔もいるけど。
まあ、あたしくらいになっても、まだまともに使えない妖狐もいるしね!
「ぼくにも、できる?」
仔狐はぱあっと音でもしそうなくらい嬉しそうにこっちをむいた。
明るいところで見ると、目も鼻も真っ赤になっていたし、ほっぺたには涙の跡が黒くなっている。
それでも、その明るい笑顔は、はっとするくらい可愛らしかった。
「うん。きっと、できるよ。」
というか、できないほうが珍しいから・・・ね?
いや、珍しい側の見本が、ここにひとりいますけれども。
「じゃあ、ヤサシイオネエサン、ぼくにそれ、おしえてくれる?」
「ええっ?
あたしが?
あ、ああ・・・」
誤魔化し笑いは無垢な仔狐には通じない。
仕方なしにあたしは曖昧に頷いた。
ま、まあ、この仔の親とか、他の妖狐に会えたら、そっちに押し付・・・お願いすればいいっか。
ここで暮らしていくには、狐火は絶対に必須だろう。
あのムカデは、光のなかにはやってこない。
それにしても、こんな小さい仔ひとり残して、この仔の親はいったいどうしたんだろう。
そうこうしている間に、ムカデを追い払ったムイムイが、こっちに戻ってきた。
こうして光のなかで見ると、すごく綺麗だ。
雌?いや、雄か?
背はあたしよりも少し大きいくらい。
青白い肌をして、背中に透明な虫の羽がある。
額には細い触覚も二本。
手足は、すんなりと、細くて長い。
からだも、びっくりするくらい細くて華奢だ。
これで、あのムカデと戦っていたのかと、ちょっと心配になるくらいだ。
ムイムイは、大きくて艶やかな瞳で、あたしたちを見た。
「あ。あの。助けてくれて、どうも有難うございます。
えぇっと、あの、怪我、とかありませんか?」
聞いてもあたしには、治癒術は使えないし、ここには薬もないけど。
森なら薬草くらいは見つけられるかもしれないし、傷を洗って手当くらいはできる。
ところが、ムイムイは、まったく、なんの反応も見せなかった。
ただそのままじっと、大きなうるうるした目で、あたしを見ているだけだ。
あたしはもう一度、同じことを尋ねようとした。
そのあたしを、仔狐は、くいくいと引っ張った。
「あのね、ムイムイは、おはなし、しないんだ。」
「え?あ、そうなの?」
そういう種族なら仕方ない。
でも、にっこりするとか、頷くとか、そういう反応もしないのかな。
そんなことを思っているうちに、ムイムイは、ふいっ、といきなり高く飛んだ。
そうしてそのまま背中の羽で、どこかへ飛んでいってしまった。




