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な、なに、あれ?
暗闇のなか、あたしはその正体を確かめようと、必死に目を凝らした。
それ、は、あたしたちの背丈よりずっと大きかった。
先端に二本の角のような触覚がある。
からだは、ぼこぼことした節でできていて、その節ごとに、もじゃもじゃと動く足がついていた。
いやこれ、虫、とか、言う大きさじゃないよね?
それは、ヒトよりも大きな、巨大なムカデだった。
ムカデは数えきれないくらい何匹もいた。
そうして、互いに争い始めた。
同族同士が、噛みつき、引き裂き、食いちぎる。
壮絶な闘争だった。
声を出さないムカデの、断末魔の叫びが、そっちこっちで上がるようだった。
恐ろしくて、あたしは身動きもできなかった。
仔狐を抱えて、じっとしているしかできなかった。
ムカデは、あたしたちにはまだ気付いていなかった。
この暗闇のなかで、動かず息を潜めていれば、もしかしたら気付かれずに済むかもしれない。
一抹の希望が胸のなかに湧き上がった。
けどすぐに、その希望は打ち砕かれた。
反対側をむいていた一匹のムカデが、くるっ、とこっちに振り向いた。
その、何を考えているのか分からない目と、一瞬、目が合った気がした。
慌てて目を逸らせたけど。
今の、絶対、気付かれたよね?
あいつ、なんであんなに、からだ、柔らかいの?
あぁんな、ごつごつ、ふしふし、してるのに。
頭のなかに、どうでもいい言葉が浮かぶ。
いやいやいや。そんなこと、考えてる場合じゃない、って。
あたしは、すすり泣く仔狐を、ぎゅっと自分の胸に押し付けた。
しぃ、っと小さく、仔狐に言う。
じっと隠れて、やり過ごそう?
だって、やっぱり、それしかないもの。
仔狐は、こくこくと、頷いてみせる。
あたしはせめて、仔狐を護れるように、腕と背中を使って、できるだけ覆いかぶさる。
そうして、こっちに来ませんように、こっちに来ませんように、と祈り続ける。
それ以外にできることはなかった。
あたしだって、狩くらいはやったことあるけど。
あんなやつら相手に、戦えるとは思えない。
それにムカデには毒がある。
普通の大きさのムカデだって、なるべく、触らないで避けて通るのに。
あーんな、でっかいの相手に、戦うなんて、絶対に無理。
だけど、このままじゃまずいとは思う。
まずいとは思うんだけど、どうしたらいいのか分からない。
逃げるなんて、到底、無理。
飛んだって、ムカデが跳ねて、追いつかれそうだし。
あんなにたくさんのムカデに囲まれているのに、それを突破できる気がしない。
無理・・・ムリ・・・むり・・・
焦った頭のなかは、同じことを、ぐるぐると考えるばかりで、何もいい考えが浮かばない。
とさっ、と妙に軽い音がして、つい、そっちを見てしまった。
なにか、丸いもの?が落ちている。
と、思った瞬間、そいつは、かっかっかっ、と鋭い歯のある口を何度も開いた。
それは、食いちぎられた頭だった。
頭だけになっているのに、まだ生きている。
あたしは悲鳴を上げそうになって、なんとか寸前に堪えた。
すっぱいものが、喉に込み上げてきた。
むりむりむりむり・・・もうぜったい、ムリムリムリムリ・・・
仔狐も、あの頭は見てしまったに違いない。
なのに、ぎゅっとあたしにしがみついたまま、声も出さずに、じっとしている。
さっきあたしが言った、しぃ、っていうのを、健気に守ろうとしている。
こんなに小っちゃいのに、なんて偉いんだ。
なのに、ごめんね、あたし、なんにもしてあげられなくて。
今はむしろ、仔狐が一緒にいてくれてよかったって思ってるのはあたしのほうだ。
あたしは、腕のなかにいる小さな命に、しがみつくように抱きしめた。
ひゅん。
うずくまるあたしの背中のすぐ近くを、何かが薙ぎ払うように過ぎた。
う。今の、なんだろう?
急いでからだじゅうの感覚を探ってみるけど、とりあえず、どこも痛くはない。
仔狐のからだも急いであっちこっち触ったけど、とりあえず、怪我はしてなさそうだ。
ちょっとほっとすると同時に、新たな恐怖も湧き上がる。
ムカデの闘争は、すぐ近くにまで迫ってきているらしかった。
このままじゃ、まずい。
絶対にまずい。
まずいまずいまずいまずい・・・マズイマズイマズイマズイ・・・
ひゅん。
ひゅ、ひゅん。
何度も何度も、風が行き過ぎる。
とさっ、とさっ、とムカデの倒れる音がする。
それから、かさかさ、と、何かが何かを齧るような音。
同族同士、食べているんだ。
ううう。
今きっと、あたしたちの周り、ムカデだらけだよ。
あれが、いつ、自分たちの上に降ってくるか、分からない。
今、無事なのは、たまたまで、このままずっと無事でいられるわけもない。
こんなところにいてはいけないと思う。
思うんだけど、動けない。
ひゅん。
ひゅん。ひゅん。
頭の上すれすれを、何度も何度も風が行き過ぎる。
ううう。
もうダメ。
むりムリ無理!
もう、無理!!
こんなとこには、いられない。
あたしは、もう一度、腕のなかの仔狐をぎゅっと抱きしめた。
仔狐もあたしにぎゅっとしがみつく。
怖いけど、泣きたいのも我慢して、じっとしている。
じっとしていればきっと助かるって、あたしの言ったこと、信じて。
こんな、小っちゃい仔が、こんなに頑張ってるのに。
あたしが、無理とか言ってる場合じゃないよ。
逃げる。
とにかく、逃げる。
逃げる逃げる逃げるにげるにげるニゲル・・・
逃げる好機は、多分、一度しかない。
身動きすれば、気付かれるだろうし、あれが一斉に襲い掛かってきたら、防ぐ術もない。
囲い込まれる前に、高く高く飛ぶ。
それしかない。
誰かを抱えて飛んだことなんてないけど。
きっと、やれば、できる、はず!
花守様だって、あたしに何回もやってくれたじゃない。
「あたしに、しっかりつかまってね?」
あたしは、仔狐にそう声をかけた。
なるべく、怖がらせないように、優しい声を出したけど。
緊張してるの、誤魔化しきることはできなかった。
仔狐は、小さく震えながらも、こくこく、と頷いた。
なんて健気なんだろう。
仔狐の涙と鼻水でくちゃくちゃになった顔を、あたしは、自分の胸にぎゅっと押し付けた。
「大丈夫だよ。君は、あたしが、ちゃんと護る。」
そうだよ。
この仔の命は、あたしにかかってるんだから。
ここは、絶対に、やり遂げないといけない。
からだの内側に、妖力を貯める。
いつもは、むしろ、貯め過ぎないように、抑えているんだけど。
今は、一瞬の瞬発力の勝負だ。
いっそ限界まで高めていく。
妖力がからだのなかに溜まっていくに連れて、恐怖心が薄れていく。
不思議なくらい気持ちが高ぶって、胸の内側には、なんともいえない万能感が満ちていった。
ふふ・・・
気付くと、あたしは、小さな笑みさえ浮かべていた。
こんな状況なのに、わくわくする気持ちのようなものが浮かび上がってきた。
え?
あ、いや、これって、まずくない?
そのときだった。
頭のなかに、突然、花守様の声が聞こえた。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
歌うようにそう繰り返す。
その声を聞いているうちに、心は、しん、と静まりだした。
高ぶっていた神経から熱が去り、意識は冷たく研ぎ澄まされていく。
根拠のない万能感は、大丈夫、やれる、という自信へと変わっていった。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
気が付くと、あたしも小さな声でそう唱えていた。
音の響きの心地よさに、気持ちを乗せる。
ふわり、と妖力が、自分の境界を越えていく。
やわらかく渦を巻くようにして、それは、あたしたちを中心に拡がっていった。




