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蛹はちょうどヒトくらいの大きさだったんだけど。
中に入ると、真っ暗くて広い場所がそこには広がっていた。
あたしが小さくなったのか、それとも、蛹の中が、どこか別の場所に繋がっているのか。
それはどっちか分からない。
柊さんに聞いてみようかとも思ったけど、あんまり話してると、柊さんも疲れるだろうし。
それに、きっと、聞いてみたところで、柊さんだって、分からないだろう。
そういうどうにもならない話しで、柊さんを消耗させるわけにもいかない。
あたしは、当初の目的を、先に果たすことにした。
この場所には、あの甘ったるい匂いが充満していた。
鼻がバカになりそうだ。
あたしは、少し、鼻の感度を鈍くした。
花守様を探すには不利だけど、この匂いを嗅ぎ続けるのはたまらない。
それに花守様の匂いなら、どんなにかすかでも嗅ぎ分けられる自信はある。
それにしても、真っ暗だった。
明かりを灯したいけど、狐火を使うのは怖い。
こんな場所で、助けてくれるヒトもいないのに、これ以上、厄介事を増やすわけにはいかない。
魂って、声を出すことはできるのかな。
むこうも魂同士だし、呼んだら聞こえるかもしれない。
そう思って、大声を張り上げてみた。
「おおお~い!は~な~も~り~さ~ま~~~!!」
普通に声は出るらしい。
何度も何度も、そう呼びかける。
あんまり大声を出し続けると、なんかちょっと、声がかすれてきた。
魂なのに、声がかすれたりするんだ。
これは無駄かな、と思いかけたそのときだった。
どこからともなく、途切れ途切れに、しくしくと誰かの泣く声が聞こえてきた。
幼いこどものような声だ。
聞いていると、胸のなかをぎゅっと絞られるような気持ちになる。
怖くて、悲しくて、心細くて、淋しくて・・・
幼い仔が、泣く他にどうしようもなくて、泣いているような・・・
いてもたってもいられなくなって、傍に行ってぎゅっと抱きしめてあげたくなるような、声だった。
あたしはもちろん、いてもたってもいられなくなって、その声のほうへ飛んだ。
なんにも見えないのに、壁にでもぶち当たったりしたら、危なかったなあ。
と、後で思ったけど、そのときには、そんなことにも気付かなかった。
幸い、壁にぶち当たることもなくて、あたしは、暗闇のなかでほんのり光る小さなこどもを見つけた。
うちの弟たちよりもっと幼い。
まだ道場にも入らないような、母親の胸のなかに抱かれていてもいいくらいの、幼い童だ。
ヒトの姿をしているけれど、人間かどうかは分からなかった。
こどもは膝を抱えてうずくまり、両膝のあいだに顔を埋めるようにして泣いていた。
両手を頭の後ろにしっかりと組んでいる。
まるで、何も見たくない、何も聞きたくないと、世界のすべてを拒絶するかのように。
こどもに近づくにつれて、あたしの胸のなかは、やけにざわざわし始めた。
ほんのり漂う、この匂い。
ふわりと柔らかな花の香は、確かに花守様の妖力の匂いだ。
けれど、花守様らしき姿は、近くには見えない。
あたしは用心しながら、そのこどもに近づくと、なるべく驚かせないように声をかけた。
「こんにちは。あ、いや・・・、こんばんは、か?」
いきなり挨拶でつまづく。
そんなのどっちでもいいじゃない、と心のなかの自分が言った。
「ここで、何をしているの?」
とりあえず、話しを続ける。
すると、こどもは、泣くのをやめて、うずくまったまま、か細い声で言った。
「・・・だれ?」
怯えたような声。
こっちを見るのは怖いのか、ぎゅっと組んだ腕はそのままだ。
「え、っと・・・、あたしは・・・」
もしもこの相手が妖物なら、真名を名乗るのはまずい。
そのくらいの知識はある。
「優しいお姉さん、です。」
なんかもうちょっと違う言い方なかったもんかなあ。
と、後になって、後悔した。
「ヤサシイオネエサン?」
こどもは恐る恐る聞き返す。
そうだよ、と、こどもはこっち見てないんだけど、あたしは、大きく頷いてみせた。
するとこどもは、続けて尋ねた。
「ヤサシイオネエサンは、なに?」
「は?なに?
何って、何?」
「むしじゃない?」
「ああ!虫じゃないよ。」
そうか。このこどもは、虫に怯えているのか、と思った。
ここにはどうやら、怖い虫がいるらしい。
「虫じゃないよ。大丈夫。
だから、ちょっと、顔、上げて、見せてくれないかな?」
なるべく安心させるように、言ってみる。
猫なで声、っていうんだっけ。こういう声。
自分でも、ぞぞっとするけど。
そういや、藤右衛門も、最初のころ、あたしにこんな声で話しかけてたっけ。
あれってもしかして、藤右衛門自身、あたしのことをどう扱っていいか困ってたからかもしれない。
「ほんとうに、むしじゃない?」
「虫じゃないよ、大丈夫。」
「ほんとう?」
「本当本当。」
「かおあげたら、ばあ、ってしない?」
「しないしない。」
このこどもは、いったい、どんな目に合ってたんだろう?
こどもは何度も何度も確認してから、恐る恐る、頭の後ろで組んだ腕をほどいた。
それから、びくびくと怯えるように、そっと、目だけ上げて、あたしを見た。
目と目が合う瞬間を待ち構えて、にっこりと微笑む。
こどもは、一瞬、びくっと、また顔を隠そうとしたけど、思い直したように、こっちを見上げた。
「ほんとうに、むしじゃなかった!」
「だから、言ったじゃない。」
まったく疑り深い、もとい、慎重なこどもだ。
いや?
そのとき、ふ、と思い付いて、思わず尋ねていた。
「君こそ、虫じゃないよね?」
するとこどもは怯え切った目をして、ふるふるふると首を振った。
「むしじゃないよ!
ぼくはきつね。」
狐?
なんだ、同族でしたか。
「あたしも狐。
仲間だね?」
「・・・なかま、なの?」
仔狐は恐る恐るあたしを見た。
「ぼく、なかま、にあったのは、はじめてだ。」
へえ。
はぐれ妖狐か。
珍しいな。
「お父さんかお母さんは?」
「いない。
ぼく、ここで、ずっと、まってるの。
おむかえに、きてくれるのを。」
そっか。
親とはぐれちゃったんだ。
それは、かわいそうに。
こんなに小っちゃいのに。
「ひとりで待ってるなんて、偉いね。」
あたしは仔狐の横にしゃがみこむと、手を伸ばして、よしよし、って頭を撫でた。
仔狐の髪は、柔らかくて、さらさらしてて、ちょっとあったかくて、優しい手触りだった。
そのときだった。
ふ、と、ほんのり光っていた仔狐の光が消えた。
その瞬間、絹を引き裂くような悲鳴が上がった。
目の前の仔狐が上げたものだった。
「い、いやだ・・・っく、くるな!
くるな!くるな!くるな!
あああああ!!!!!」
狂乱したように叫ぶ仔狐を、あたしは声を頼りに捕まえた。
あたしの腕のなかで、仔狐は、狂ったように暴れ続けた。
あたしはなんとか仔狐を落ち着かせようと声をかけた。
「だ、大丈夫だよ?
何も、いないから。」
「いる!
いるよ?
ほら、そこに・・・」
仔狐が怯えたようにすすり泣く。
仔狐の言うことを確かめようとあたしは目を凝らした。
すると、闇のなかに、闇よりもっと暗いなにかが、ぞわり、ぞわり、と立ち上がるのが見えた。




