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寝ている花守様の隣に横になる。
花守様の寝顔がすぐそこにあって、ちょっとどきっとする。
目を閉じたまま、花守様は、ほろほろと涙を零し続けている。
あたしは手を伸ばして、指でその涙をぬぐった。
「花守様、悲しい夢を見ているのかな・・・」
「夢を見ているのじゃない。
夢というのは、魂がそのからだのなかにちゃんとあって、抜け出したりはしていない。
けど、今の花守様の状態は、抜け出した魂が、どこかで悲しい思いをしているんだ。
からだはその魂の思いに引きずられて、反応しているに過ぎない。」
「夢じゃない?」
「夢なら、わたしがどうにかして差し上げられる。」
柊さんはため息を吐く。
そうだった。
柊さんは、とびっきりの夢使いだ。
「むき出しになった魂は、たった今も、どこかで危険な目に合っているかもしれない。
魂が傷つけば、それを癒すことはとても難しい。
早く、連れ戻して差し上げないと。」
そっか。
「大丈夫ですよ。花守様。
今、お迎えに行きますからね。」
あたしは手を伸ばして、寝ている花守様の髪をそっと撫でた。
いつも花守様があたしにしてくれているように。
初めてふれた花守様の髪は、ほんのり温かくて、とても柔らかかった。
細くてすべすべしていて、いつまでも触っていたいくらい、心地いい手触りだった。
「そろそろ、いいか?」
掌のなかに妖力を貯めていた柊さんが、あたしに尋ねた。
魂の離脱には、とてもたくさんの妖力が必要らしい。
そしてそれは、柊さんほどの術師にとっても、かなり気を遣う、難しい技だそうだ。
あたしは、花守様の手を、両手でぎゅっと握った。
「お願いします、柊さん。」
柊さんは、あたしの枕元に膝をついて、あたしの顔を覗き込んだ。
あたしは目だけ動かしてそっちを見た。
柊さんの冬の森みたいな色の瞳と目と目が合う。
柊さんの目は、氷みたいな冷たい色だけど、今は不思議に冷たさを感じなかった。
「・・・おい。目を閉じろ。
やりにくい。」
「あ、はい。すみません。」
あたしは慌てて目を瞑った。
「心配するな。
失敗はしない。」
ちょっと苦笑するように柊さんが言う。
「いや、そんなこと、心配してませんよ?」
だって、柊さんだもの。
そして、あたしも、大丈夫。
花守様の気配なら、どんなにかすかでも、きっと見つけられる。
自分を励ますように心のなかでそう呟いた。
疲れ果てたときに、寝床に入った途端、すとん、と眠りに落ちるような。
そんな感じがして、気が付くと、あたしはあたしを見下ろしていた。
花守様に寄り添って眠っている自分が、目の下に見える。
うわー、あれ、ちょっと恥ずかしかったかな。
ちょっとだけ、後悔する。
柊さんは、あたしたちを護るように、周囲に結界を張ってくれている。
魂の抜けたからだを、不用意に動かしてはいけないらしい。
そうしてから、あたしたちの枕元に胡坐をかいた。
「おい、物珍しい気持ちは分かるが、いつまでそうしている?
あまり長くからだから離れていると、魂がすり減って、消滅してしまうぞ?」
え?そうなんですか?
そんなこと、聞いてませんよ?
「言ってもどうせ、行くのは諦めなかっただろう?
どのみち、もう、お前様をからだに戻すことはできない。
戻りたければ、なんとしても、花守様を連れて帰ってこい。」
花守様もときどき容赦ないけど、柊さんも、なかなかに容赦しない。
それって、施療院の伝統ですかね。
「どうかな。フジもレンも、その必要のあるときには、容赦しないからな。
どちらかと言うと、妖狐の性質なんじゃないか。」
なるほどね。
って、あれ?柊さん、あたしと普通に会話してます?
それに、姿も、見えてるんですか?
「お前様の魂に、わたしの意識を紐づけてある。
これで、少なくとも、お前様が、明後日の方向へ行ってしまうことは避けられる。
ただ、これを繋ぎ続けるのは、わたしも消耗する。
だから、何か用があるときには、強く念じてこい。
そうすれば、応えられるようにしておく。
魂状態のお前様の姿は、わたしには見えないし、もちろん、声も聞こえない。
今、わたしに見えているのは、この幸せそうな寝顔だけだよ。」
柊さんはそう言うと、花守様のほうをむいて寝ていたあたしの顔を、わざわざ仰向けにしてみせた。
う、わー・・・
それにしても、だらしない顔して寝てるわ、あたし。
「お前様が戻るまで、わたしは延々、この顔を見ている。
この顔が、わたしの脳裏に焼きついて、消えなくなる前に、早く帰ってこい。」
是非とも、そういたします。
自分の間抜けな寝顔を、延々見られているなんて、到底耐えられない。
ましてやそれを、覚えておかれるなんて。
後から柊さんに、何を言われるか分からない。
あたしは、ふわり、と蛹のほうに近づいていった。
魂のまま移動するのは、飛行術に少し似ている。
あれよりもっと、ふわふわしてて、軽い感じ。
そぉっと、蛹に指を触れる。
すると、するっ、とその指は蛹のなかに突き通ってしまった。
「魂の状態なら、中に入れるということだな?」
みたいです。
花守様もこんなふうにして、この中に入ってしまったんだろうか。
思い切って飛び込もうとした直前、あたしの背中を引き留めるように、柊さんは言った。
「蛹のなかに入ったお前様と、意識を繋ぎ続けられるかどうかは分からん。
もしかしたら、一時的に、繋がらなくなるかもしれん。
だから、今のうちに、言っておく。」
柊さんはすごく早口だった。
「わたしは、お前様の勇気を、賞賛する。
しかし、それ以上に、お前様を失いたくない。
だから、どうか、頼む。無事に帰ってきてくれ。」
承知!
あたしはちょっと格好つけて、戦師みたいな返事をすると、思い切って蛹のなかに飛び込んだ。




