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レンさんは虫の卵が孵る前に、自分を仮死状態にしていた。
結局は、それがよかったんだ。
仮死状態のレンさんの中で、虫の卵もまた仮死状態になっていたから。
「これが本当の、ムシの報せ、ってやつっすか?」
「うまいこと言ったつもりになってんじゃないよ!」
その間に、藤右衛門がアズさんと仔狐たちを引き受け、頭領も引き継いだ。
なんだかんだ言って、みんなレンさんが帰るのを信じて、待つためにしたことだった。
「いや、正直、アタシ自身、楓の世話にも疲れ果ててたのさ。
だから、アズが楓の世話を引き受けるって言ってくれたとき、助かったって思ってしまった。
ごめんね?楓?」
藤右衛門はそう言って謝ってくれたけど。
それって、記憶を書き換えたときに、あたしの罪を、藤右衛門のせいにしてしまったからだ。
そのこと自体、あたしのためだったわけで・・・
藤右衛門は本当はなにも、悪くない。
なのに、あんなに憎んでいた過去を思い出すと、むしろあたしが申し訳ない。
あたしがそう言うと、藤右衛門は、ふふっ、と笑った。
「あのとき、お前はまだ、仔狐だった。
仔狐は、オトナたちに護られてりゃいいんだよ。」
だけど、結局、アズさんにも、あたしの世話は無理だった。
あたしは、アズさんのことも、拒絶した。
それで、あたしは、道場の先生に預けられることになった。
「いや、仔狐の面倒をみることに関しては、先生は流石だよね?
あの道場は、アタシも仔狐のころ、通ってたんだ。
先生はそのころからちっとも変わってないし。
スズ姉もあのころからずっと、スズ姉なんだよ?」
へえ~。それはびっくりだ。
親仔二代でお世話になってたとは知らなかった。
先生やスズ姉って、いったいどのくらい生きてるんだろう。
もっとも、花守様みたいな狐もいるわけだし。
妖狐はオトナになるまでは割と早いけど、その後は、ゆっくり年を取る。
いや、全然取らないヒトもいる。
「けど、あの虫の呪いがアタシにかかったのは、ある意味、敵の狙い通りかもしれない。
頭領をつぶすってのが、敵の狙いならね。」
「いいえ。
残念ながら、敵のその狙いは、外れました。
現に藤殿はちゃんと生きておられる。
その呪いだって、じきに解いてみせます。
十年前だったら、もしかしたら、敵の思い通りになっていたのかもしれませんが。
蓮華殿が時間を稼ぎ、その間に、施療院の技も進歩したのです。」
花守様は、藤右衛門にむかってきっぱりと頷いてみせる。
藤右衛門は、あ、という顔をしてから、そうですね、と笑った。
「レンってば、昔から、妙なとこ、勘がいいというか、幸運というか、そういうとこあるんですよね。」
「おう!野生の狐並みっす!」
「だからそれ自慢するな、って。」
藤右衛門は、疲れたというようにため息を吐く。
この二人組、傍で見てたら、なかなか楽しい。
「アタシたち戦師も、ただ手をこまねいていたわけではありません。
あの虫に関しては、いろいろと、調べを進めてはいるんです。
ただねえ、いかんせん、後手後手に回ってしまっていて・・・」
「それは、施療院とて同じです。
でも、だからこそ、手を組む必要を感じたのです。」
ふむ、と藤右衛門は頷いた。
「もっともです。同じ郷の仲間に秘密にすることでもありませんし。
ただねえ、虫憑きが郷の狐に紛れているっていう懸念は、アタシにもあったんです。
けど、少なくとも、今この場にいる面々は、虫に憑かれている心配はありませんからね。」
「アッシはもう、取ってもらいやしたしね?」
「まったく、うまくいってよかったよ。
あれは、アタシにとっても、かなり分の悪い賭けだったんだよ。」
藤右衛門は、しみじみとレンさんのほうを見た。
「レンが、記憶を失くしていると聞いたときに、真っ先に、虫憑きを疑ったんです。
もっとも、こいつは十年、寝こけてたわけで、そのせいかもしれないとも思っていたんですが。
もしも、虫憑きの兆候が現れたら、そのときには、真っ先に虫を祓わないといけない。
その覚悟はしておりました。」
「施療院に預けておいたのは、その観察をさせるためですね?」
花守様の質問に、にやっと藤右衛門は笑った。
「ここだと、四六時中、誰かしら見ていてくれますからね?」
確かに。その通りだ。
「あの虫は、狐に憑いて、そのすべてを乗っ取るんです。
からだだけじゃない、記憶も、何もかも。
からだに産み付けられた卵が孵ると、一時的に、その狐は記憶喪失になります。
しかしそれは、一時的なことで、すぐに、元の自分を取り戻したように見えます。
けどそれは、虫がそいつの記憶を読み取り、そいつになりすましているだけ。
虫に憑かれている間、その当人の意識は眠らされています。
だからレンも、虫を祓ってからしばらくは、混乱していたはず。」
「確かに。
アッシは、施療院で目を覚ましたのは覚えてやしたけれど、その後の記憶がありませんでした。
アニキにあんな怪我をさせたのは自分だって聞いて、びっくりしやした。
また、なんてことをやらかしたんだろうって、落ち込みやした。
記憶を失くしていた、って聞かされたけど、その間のことを、何も覚えていなくて。」
「だから、あの暴れたのは、レンじゃなかったんだよ。
レンならあんな無様な戦い方、するものか。
真の本性まで晒すなんて、あのみっともないのは、レンじゃないから。
みんなどうか、忘れてやっておくれね。」
「ええっ?!
アッシ、みなさんに、そんなものまで、晒してしまったんっすか?」
レンさんは目を丸くして叫んだ。
藤右衛門との戦いの最後に変化したあの姿は、レンさんの真の本性だ。
尾の数は、生きてきた長さ、からだの大きさは、妖力の大きさ。
つまり、自分のなにもかもをさらけ出してしまう姿。
狐になった姿は、家族くらいになら、見られてしまうこともあるけど。
真の本性は、家族にも親にも見せない、これを晒すのは、本当に恥ずかしいことだった。
「これはどうも、お目汚しを・・・」
「まったくだよ。うちの娘の目が汚れてしまったじゃないか。」
「申し訳ありやせん、お嬢。
かくなる上は、生涯、お嬢にお仕えいたしやす。」
記憶を失くしていたときとまったく同じことを言う。
あの虫は、かなり上手に、レンさんになりすましていたらしい。
「虫のなりすましは、本当に徹底していて、親きょうだい、恋人や相棒ですら、見抜けない。
そうして、虫は、少しずつ、そのからだのなかで成長する。
そういう虫憑きになった狐が、戦師のなかにもいたんだ。」
藤右衛門はとある戦師の狐の話をした。
その狐は、知らないうちに、虫憑きになっていたらしい。
あるとき、戦場の肝心なところで、とんでもない失敗をやらかした。
そのせいで、大勢の仲間が傷ついたし、策そのものも、失敗してしまった。
味方にとっては、大打撃だ。
それでも、戦師の狐たちは、失敗は誰にでもあることだ、仕方ねえ、で納めてしまった。
それから何年も経って、皆、忘れたころに、また、その狐は、大きな失敗をした。
だけど、やっぱり誰も責めなかった。
こいつは、前にもやらかしたやつだ、仕方ねえ。
仲間を大事にするのは、狐の美徳だけど。
ときどきそれは、弱点にもなる。
だけど、三度目にやらかしたとき、とうとう堪忍袋の緒が切れた相棒が、その狐に斬りつけた。
そうしたら、その狐の背がぱっくりと開いて、そこから虫が逃げていった。
「もうずっと、やつは、やつじゃなかった。
虫憑きだった。
それを知ったその相棒は、戦師を辞め、郷も去りました。
皆が引き留めたけれど、聞き入れなかった。」
戦師にとって、相棒というのは、それほどに重い存在だ。
戦場で背中を預けられる、たったひとりの狐。
ずっとずっとそう信じた相手が、敵の手先にされていたなんて。
そうして、長い間、それに気付かなかったなんて。
それは、戦師として、絶望してしまったかもしれない。
他にも何匹も、虫憑きになった戦師はいた。
だけど、虫憑きだと気付いたときには、大抵、手遅れだった。
どこでどんなふうに虫を憑けられたのか、それすら分からない。
だから、防ぎようもなかった。
それに、それ以上に悪いこともあった。
逃げ出した虫は、どこかで妖狐になりすまし、悪事を繰り返した。
そんな妖狐が退治されたという話しは、この十年、何度もあった。
戦師たちは、その件についても、調べを進めた。
妖狐は最後には、真の本性を晒すという。
それこそは、それが本物の妖狐ではない証だった。
しかし、妖狐でないものにとって、それは、憎むべき怪物だ。
せっかく、人間たちに力を貸し、共存しようとしてきたのに。
それは、そんな郷の妖狐の思いをもぶち壊す所業だった。
「もし、レンがそんなことになったら・・・この手で葬ってやるつもりだった。」
そう呟いた藤右衛門の目は、酷く冷たく、清んでいた。
「だから、レンの虫をうまく祓えて、本当によかった。」
「あのとき、ぎりぎりのところで、レンさんは、目を覚ましていたように見えたけど。」
「ああ、そうだ。
だからね、あれはまだ、虫の乗っ取りが完成していなかったんだ。
だからこそ、レンは帰ってこられた。
どうしてそうなったのかは、これから調べないといけないけど。」
虫憑きの戦師のなかにも、一度だけ、不完全な状態の虫が、抜け出そうとしたことがあったらしい。
「そいつはまだ、見習い狐で。
おかしいと思った導師狐が、花守様からもらっといた、狐の秘薬を飲ませたんだそうです。
まあ、万能薬だからと言って、なんでもかんでも、あの薬を飲む戦師も、結構多くて。
けど、そのときには、それがよかったのかもしれない。
突然、そのからだから、虫が背中を割って逃げ出そうとして。」
「はて。そんな仔狐、いたでしょうか。」
花守様は首を傾げた。
それに藤右衛門は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ただの怪我人として、施療院には送ったはずです。
背中に刀傷を追うのは、戦師には珍しいことではありませんから。
花守様も、そう思われたのかもしれません。」
「どうしてそのとき、それが、虫のせいだと、教えてくださらなかったのですか?」
「それは本当に申し訳ない。
きちんと報告すべきでした。
戦師という輩は、手に入れた情報を出し惜しみする、悪い癖があって・・・」
まったくです、と怒ったように言う花守様に、藤右衛門はもう一度、すみません、と頭を下げた。
「それで、その仔狐は、今は?」
「立派に、戦師をやっております。」
「つまり、虫を祓えば、完全に元の通りになった、と?」
はい、と藤右衛門は頷いた。
「だから、虫を祓う時宜を、藤殿は心得ておられたのですね?」
「心得ていたとはとても言えません。
ただ、もしかしたら、と考えただけです。
うまくいったのは、本当に運がよかった。」
藤右衛門は恐れるようにぷるぷると首を振った。
「宿主の記憶が戻ったように見える、ちょうどそのとき。
それは、卵から孵った虫が、宿主を眠らせ、なりすましを始めたときです。
宿主の内側では、まだ、虫の殻は、完成されていない。
そのほんの短い間を逃せば、もはや、虫憑きを救う術はありません。」
「だからあのとき、あんなに急いで来たんだ。」
スギナの念話を聞いた途端、藤右衛門はすっ飛んできたんだ。
「あんな夜中に申し訳なかった。」
「いえいえ。施療院は夜中だろうとなんだろうと、関係ありませんから。」
にこにこと言う花守様に、藤右衛門はすまなさそうな顔になる。
「こちらもだいぶ、荒らしてしまって・・・」
「翌朝、戦師が大勢見えて、片付けてくださいましたしね。
それもこれも、藤殿は先回りして、手配していたのでしょう?」
花守様に言われて、藤右衛門は、はあ、ときまり悪げな顔をした。
「やはり、ばれてましたか。」
「そりゃあねえ。
そもそも最初から、ここでやるつもりだったのでしょう?
それは、虫を祓った蓮華殿の処置を、できるだけ早く行うため。
なんとしても、蓮華殿の命を救うため。
それに、ここの治療師は、元戦師が多い。
なにかあったとしても、対処できるでしょう。
そこまで全部、藤殿は計算されていたのでしょう?」
おみそれしました、と藤右衛門は頭を下げた。
「念には念を。
なんとしてでも、アタシはレンを取り戻したかった。
だから、可能な限り、できることはやっておかないとと、思っただけです。」
「それが功を奏しましたね。
それに、結果的には、それは、藤殿のお命を救うことにも繋がったのです。」
あのとき、藤右衛門は呪いを受けた。
それは藤右衛門にとっては、計算外のことだったのかもしれないけど。
もし、あれをここでない場所でやっていたら、きっと、藤右衛門の施術は間に合わなかった。
レンさんのために、ここでやってたからこそ、藤右衛門も命が助かったんだ。
「それにさ、みんなの目の前でレンさんに負けて、うまいこと頭領も押し付けたんでしょう?」
あたしがそう言うと、は?と藤右衛門は聞き返した。
「流石、働いたら負けのフジだよね?
花守様にまで、口裏合わさせるつもりだったし。」
ああ、あれは・・・と藤右衛門は目を逸らせる。
「アタシはもう、助からないと思ってたからさ・・・
けど、次の頭領をアタシが指名しないと、またあちこちから煩い輩がわいてくるし・・・」
なんのことです?と尋ねる花守様に、藤右衛門は、ああ、いえ、こっちのことです、と答える。
あれ?花守様への根回しは、してないのかな?
「それにしても、お前のなかのアタシの印象って、相当、腹黒いんだね?
よく分かったよ。」
藤右衛門はあたしを見てため息を吐いた。
「頭領、押し付ける気まんまんだったんじゃないの?」
「自分が生きてるって分かったときから、頭領は引き続き、やってますけどね?
しかし・・・ふむ・・・そうだねえ・・・」
藤右衛門は何か考えるように宙を見る。
「これはいい機会かもしんないね。
表向き、レンを頭領に据えておけば、アタシももっと自由に動ける。
どうかな?レン?」
レンさんは、ひょえ~と叫んで、手と頭を同時に振った。
「それは勘弁してくださいっす。
アッシより強い方は山のようにいるってのに。
それは次から次へと決闘申し込まれて、そのうち蹴落とされるのがオチっす。」
「そこはそうならないように、アタシから根回ししといてあげるよ?」
「勘弁してください。
アッシ、アニキのためなら、なんでもしますから。
頭領はやっぱりアニキでないと。
暗殺者だって、次から次へとやってくるし。」
「お前さん、アタシのところになら、暗殺者がやってきてもいいって思ってるわけ?」
「滅相もない。
そうじゃなくて、アニキくらいのおヒトでなければ、暗殺者の逆手は取れないってことっす。
うちにはまだ、小さい仔狐が二匹もいるんですし。
よろしくお願いしますよ。」
「・・・うちにも、娘、一匹いるんだけど。
まあ、いいか。
というわけだから、楓、アタシまだもう少し、頭領やることになりそうだわ。」
藤右衛門は肩をゆすって、くくっと笑った。
「楓。フジはお前様の思うほど、要領のいい狐ではないぞ?」
柊さんがぼそりと言う。
「うん。それはそうかなって、あたしも思いますけど。」
あたしがそう答えると、あらら、と藤右衛門が情けない顔になった。
「そうですか?藤殿という方は、必要なときに必要な行動を瞬時に取れる。
戦師の頭領の鏡のような方だと思っておりましたけれど。」
やっぱり花守様は騙されている。
「割と行き当たりばったりですよね?
それで、困ったときは、力技?
まあ、心配性だから、下準備は多めにしてあるみたいですけど。
それでぎりぎり、助かってる感じ?」
「ほう。
流石娘だ。
見事に見抜いている。」
「うるさいよ?お前さんたち。」
藤右衛門はこっちをじろっと睨んでから、はあ、とため息を吐いた。
「確かにねえ。
今思い返してみても、レンを助けられたのは、たまたまの幸運が重なった奇跡だと思うよ。」
しみじみと言う藤右衛門に、花守様はゆっくりと首を振った。
「いいえ。奇跡なんかじゃありません。
すべて、藤殿が、用意周到に準備をして、確実に起こした必然ですよ。」
「いやいや、あそこまでうまくいくのは、やはり、たまたまでしょう。
同じことをもう一度やっても、確実にできるという期待は、してはいけないと思います。」
「確かに、期待が慢心に繋がるのであれば、それはよいこととは言えません。
しかし、たまたまというのは、一度目はたまたまでも、二度目からは狙って起こせるものです。
もしたとえ、それが複数回必要だというのなら、複数回起こすまで。
どうしてそれが起きたのか、その条件を考慮に入れ、出来得る限りそれに状況を近づける。
そうすれば、それは、限りなく、偶然ではなく、必然となるでしょう。」
きっぱりと言い切る花守様を、藤右衛門は、へえ、と感心したように見た。
「アタシは、どうやら始祖様のことを、だいぶ、誤解していたようだ。
もっと軟弱な、弱々しい方かと思っておりました。」
「弱いですよ?わたしは。
戦師の方たちのように、郷の外に出てお役目を果たすなんて、到底できませんし。
生まれてこのかた一度も、この郷から出たこともありません。
外から来る脅威から、護っていただいている、弱い狐です。
ただ、この狭い洞窟にいて、二度とあの悲しみは繰り返すまいと。
それだけを念じて、日々自らの技を磨き続けているだけです。」
そう言う花守様を、藤右衛門は、心の底から信頼するように見つめた。
「これからも、施療院には、お世話になると思いますが、よろしくお願いします。」
「虫憑きの件は、まだ始まったばかりでしょう。
これから長くなるかもしれません。
どうか、戦師の方々にも、ご協力いただきますよう。」
花守様を真っ直ぐに見て、藤右衛門はしっかりと頷いた。




