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花守様に案内されて施療院のなかを見て回っていると、目の前に小さな虫が飛んできた。
「花守様、酷い怪我をした狐が、森に来ました。」
虫は花守様の目の前でそう告げた。
にこにこと穏やかな花守様は、すっと、真面目な顔になって言った。
「すぐに、治療台に運んでください。」
凛と通る声は、くすくす笑いのときより、ほんの少し低かった。
「了解。」
虫はそう言うとすっと姿を消した。
花守様は、あたしを振り返って言った。
「すみませんが、急な患者のようです。
しばらくひとりにしても?」
「あの、あたしに、なにかお手伝いできることはありませんか?」
急いで行こうとする花守様を引き止めて、あたしは言った。
これからここで見習い妖狐として働くんだったら、少しでも早く、お役目を覚えたい。
花守様は、あたしをちらっと見てから言った。
「では、治療をする間、患者の手を握っていてもらえますか?
傷ついた狐は、大抵、不安で怯えているものですから。」
「分かりました!」
手を握るだけでいいなんて、簡単。
あたしは力一杯頷いた。
衣を翻して急ぐ花守様を追いかける。
花守様は見かけによらず、足が早かったけど。
足には自信がある。置いて行かれるようなことはなかった。
花園の一画、少し開けた場所に、天幕が張り巡らしてあって、そこに治療台はあった。
天幕のなかには、何に使うのか分からない道具がたくさんある。
これは何だろうと思って眺めていたら、触らないでください、と短く注意された。
「来ますよ。」
突然、花守様がそう言った。
治療台の上の空間がびりびりとなったかと思ったら、そこに、変化姿の妖狐が現れた。
「え?」
すかさずその手を握ろうとしたあたしは、思わずその場から動けなくなった。
妖狐の怪我は、酷いなんてものじゃなかった。
片方の目に矢が突き立ち、真っ赤な血が溢れ出している。
両手はその矢を握って、赤く、血に染まっていた。
あの、手を、握る、の?
あの、血で、真っ赤な、手を?
手はぎゅっと力を込めて矢を握っていて、まずそれを離させるのからして、大変そうだ。
いやいや、とあたしは頭を振った。
こんなところで躊躇ってる場合じゃない。
今、一番、辛いのは、傷を負ったこの狐なんだから。
あたしがいろんなことぐるぐる考えている間にも、花守様は治療を始めていた。
花守様が患者に幻術をかけると、患者のからだからゆっくりと力が抜けて、静かに横たわった。
あたしは急いで駆け寄ると、血まみれのその手をぎゅっと握った。
こちらを見た花守様が小さく頷いてくれる。
それに勇気をもらったあたしは、花守様に、気合を入れて頷き返した。
ほんの一瞬、視線だけこちらにむけてから、花守様は、また治療に戻った。
矢傷を丁寧に調べて、小さくため息を吐く。
「毒にやられている。
仕方ない、か。」
え、なにが仕方ないの?
そう思ったあたしの目の前で、花守様は、いきなり、矢を掴んで引き抜いた。
矢の先端には、黒く腐った丸いものが刺さったままだった。
ずるずる、と丸いものの後ろに長く、糸のようなものがついてきた。
う・・・
突然込み上げてきたものを、あたしは必死で堪えた。
けど、熱くて酸っぱいものが、喉の奥から何度も何度も込み上げてくる。
思わず口元を抑えたあたしに、花守様は鋭く言った。
「外で吐きなさい。」
その言葉が合図になって、あたしは脱兎のように天幕を飛び出すと、草の上にげえげえ吐いた。
吐いて吐いて、食べたもの全部吐いてしまう。
お腹のなかはとっくのとうに空っぽになっても、まだ吐き気は収まらなかった。
涙はぽろぽろ溢れて、鼻水も糸を引く。
辛い、苦しい、悲しい。
こんなとこ、無理。
あたしには、無理。
先生の家に帰りたい。
さっきの光景が、忘れたいのに、何度も何度も脳裏に甦る。
そのたんびに、あたしはまた、げえげえ吐いて、吐くものもなくなって、とうとう赤い血が混じった。
そのとき。
優しい花の香がふわりと漂ったかと思ったら、すぅっと、吐き気は収まっていた。
はっと顔を上げて、あたりをきょろきょろと見回した。
けど、周りには誰もいなかった。
今のは、花守様の術だよね?
落ち着いたあたしは、とりあえず土を掘って、自分の吐いた物を丁寧に埋めた。
それからしょんぼりと、地面に膝を抱えて座った。
天幕のほうをちらっと見たけど、もう一度あそこに戻る勇気はなかった。
治療というものが、あんなに恐ろしいものだとは知らなかった。
ここで見習いをするのは、あたしには無理だ。
見習いは一人前になったとき、必ずしも導師と同じ類のお役目を請けるようになるとは限らない。
先生に導師をしてもらってた見習いさんたちだって、師範代にはならなかった狐のほうが多い。
見習い期間が明けたあと、どんなお役目を請けるかは、それぞれの自由だ。
だけど、見習いの間は少なくとも、導師のお役目のお手伝いをしないといけない。
つまり、あたしは、花守様の治療のお手伝いをするってこと。
けど、それは、やっぱり、あたしには無理だ。
いきなり初っ端からこんなことになるなんて、情けない。
花守様もさぞかしがっかりしただろう。
いったいあたしの何をどう、あんなに見込んでくれたのかは謎だけど。
予想を大きく外しただろうな、とは思う。
先生にも、残念だって思われるかも。
だけど、無理なものは、無理だ。
花守様には、きっと、先生のところに帰りなさい、って言われるだろう。
仕方ない。
導師に返品された狐なんて、聞いたことないけど。
何事にも、最初、ってのはあるもんだろうし。
あーあ、でもまた、前代未聞の返品狐とか、妙なあだなつけられて、からかわれるんだろうなあ・・・
ため息を吐いて、ちょっと遠くを見る。
この花園は嫌になるくらい長閑で平穏そうなところだけど。
ここに来る患者さんたちは、長閑どころじゃない状態なんだ。
だからこそ、せめて、ゆっくり休めるように、ここはこんなに長閑なのかもしれない。
そのあたしの目の前に、ふいに、花守様が現れた。
「さっきは、ごめんなさい、楓さん。」
いつの間にここに来たのか、花守様はあたしの前にしゃがんでいた。
花守様は悲しそうな顔をしてそう言ってから、あたしの横に並んで座った。
「わたしのこと、嫌になってしまいましたか?」
「あたしに、がっかりしてしまいましたよね?」
花守様とあたしは、ほとんど同時にそう言っていた。
「まさか!がっかりだなんて、そんなこと、あるはずありませんよ。」
すかさず答えたのは花守様だった。
「怪我に恐怖を感じるのは、自然なこと。
ここへ来たその日に、いきなりあんな荒療治を見せるなんて、わたしの失態です。
本当に、ごめんなさい。」
花守様はこっちをむいて、深々と頭を下げた。
あたしは慌てて、両手をばたばたと振った。
「手伝いたいって言ったのはあたしです。
なのに、邪魔にしかならなかった。
ごめんなさい、花守様。」
「いいえ。わたしの配慮が足りなくて、あなたにはいきなり辛い思いをさせてしまいました。
こんなの、導師失格と思われても仕方ない。」
しょんぼりと下をむいた花守様を見て、あたしははっとした。
あたし、自分のことばっかり考えてたけど。
あたしを返品すれば、花守様だって、非難を受けるんだ。
「ごめんなさい。花守様。
あたし、花守様の名に傷を・・・」
「傷?そんなものはつきません。
大体、わたしの名など、そんなにたいそうなものではない。」
花守様はきっぱりと言い切ってから、ちらりと上目遣いでこっちを見た。
「けどね、楓さん。」
花守様はあたしにむかって拝むように両手を合わせた。
「どうか、あともう少しだけ。
お試し期間だと思って、ここにいていただけませんか?」
あたしは困って、花守様の顔をじっと見つめ返した。
返品されるに決まってるって思い込んでたから、まさか引き止められるとは思わなかった。
そりゃあ、あたしだって、前代未聞の返品狐、は避けたいところだけど。
「でもあたし、ここにいても、何かのお役に立てるとは、とても思えません・・・」
「それは違います。」
花守様は身を乗り出すようにしてあたしの顔を覗き込んだ。
「治療の手伝いは二度とさせません。
あの天幕にはもう入らなくていい。」
「それじゃあ、あたしは、なんのために、ここに・・・?」
「あなたにここにいていただきたい理由は、それではありませんから。」
花守様は力を込めて言った。
「何をしろとも言いません。
ただ、ここにいてください。
どうか、お願いします。」
あたしはなんでそんなに花守様があたしを引き止めるのか分からなかった。
だけど、こんなに真剣な顔をしてお願いしますと言う花守様に、いいえとも言えなかった。
あたしは改めて花守様に真っ直ぐに向き直った。
それから、なるべく丁寧に両手をついて、頭を下げた。
「お師匠様、フトドキモノですけれど、どうぞ、スエナガク、オヒキマワシのほど、お願い致します。」
お師匠様への挨拶は、何度も何度も先生に練習させられた。
大事なところで恥をかかないように、って。
けど、こういうのって、いざその場面になってみると、すごく緊張する。
それでも、なんとか言い切って、ちょっとほっとした気持ちだった。
すると、花守様は、ちょっと目を丸くして、それから、何かを堪えるような妙な表情になった。
「???花守様?どうかしました?」
「い、いえ・・・くっ・・・」
苦し気に胸を抑えた花守様に、あたしはびっくりしてその両肩を支えようとした。
花守様は、そのまま顔を上げずに、ますます胸を抑えてうずくまる。
「大丈夫ですか?花守様?!」
あたしは力づくで花守様の顔を上げさせた。
すると花守様は、耐えかねたように、いきなり、あははと笑い出した。
「ごめんなさい。あなたの真剣さは、痛いほど伝わってきます。本当です。
なのに笑うなんて、不届き者はわたしのほうです。」
笑うだけ笑った花守様は、そう言うと、先に立ってわたしに手を差し出した。
「あなたのお部屋に案内しましょう。
どうぞ、来てください。」
掴んだ花守様の手は、思ったより温かかった。