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目は覚ましたものの、藤右衛門はまだ、からだを自由には動かせないようだった。
翌日、朝餉をとっていると、珍しく早起きの柊さんがやってきた。
「楓。ちょっと後で、フジのところに来てもらえないかな。」
こんな朝っぱらから何かを頼まれるのも珍しい。
これはよっぽどのことかと思って、朝餉もそこそこに、他の仕事は後回しにして行ってみた。
藤右衛門もちょうど朝餉をとっているところだった。
いや、正確には、朝餉をとろうとして、食べられないようだった。
膳に置いてある匙を、なんとか取ろうとするのだけど、手が思うように動かせないらしい。
何度か失敗して、悔しそうな苛立ったようなため息を吐く。
物陰に隠れてそれを見ていると、後ろに、ヒトの立つ気配があった。
「朝からもうずっとあれをやってるんだ。
けど、手を貸そうとしても、いらないと言い張るから。」
柊さんはため息と一緒にそう言った。
「あたし、やりますよ。」
あたしがそう言うと、柊さんはちょっとほっとしたように、頼む、と言った。
「おはよう、藤右衛門。よく眠れた?」
なるべく明るくさりげなく。
そう心がけながら近づいていくと、藤右衛門は、ぎょっとしたようにこっちを見た。
「な、なんだい?
今日は外は雪かい?」
ご丁寧に、ぶるっとからだをふるわせてみせる。
・・・ちなみに、今は真夏だ。
「雪なんか降るわけないでしょう?
それよりさ、ちょっと、お手伝い、しようか?」
患者さんのお世話は慣れていた。
施療院には、手や肩を怪我して、自分では食事をとれない患者さんもたくさんいる。
食べさせてあげるのに、特に術も必要ないし、あたしにもできる仕事のひとつだ。
横に座って匙を取ろうとすると、藤右衛門は、背中であたしを押しのけるようにして邪魔した。
「いいから。
お前は、仕事があるんだろ?
そっちへお行き。」
「患者さんのお世話はあたしの仕事のうちだよ。」
何気なく言ったら、藤右衛門は、思い切り渋い顔をした。
「アタシは患者じゃないよ。
もう治った。
こうしてちゃんと目も覚めたんだから。」
いやいや、自分じゃご飯も食べられないんだから、立派な患者だよ。
というようなことは言わない。
患者さんのなかには、こんなふうに世話されるのをひどく嫌がるヒトも多い。
自分でも分かってはいるんだろうけど。
自由に動けず、普段、当たり前と思っていることができないってのは、ひどく苦痛なんだ。
「まあまあ、そんなこと言わないで。
目を覚ましてすぐのヒトには、みんなこうするんだよ。」
あたしはひょいとお椀と匙を取ると、お粥を少し掬って、藤右衛門の口元に差し出した。
けれど、藤右衛門は頑として口を開かなかった。
「赤ん坊扱いはよしておくれ。」
赤ん坊なら素直に口を開けるから、もっと扱いやすいよ、とは言わない。
「自分でやらなけりゃ、いつまで経ってもできるようにならないだろ?
いいから、アタシのことは、放っておいておくれ。」
ぷい、と横をむく。なかなかに手強い。
たしかに藤右衛門の言うことはもっともで、お世話もいつまでもやってるのもよくない。
だけど、今の藤右衛門は流石に、手伝ってもらわずに療養するのは無理だろう。
「ちゃんと食べないと、回復も遅くなるよ?」
「ちゃんと食べるよ。
お前がさっさとあっち行けばね。」
真面目な説得も通じない。
さて、困った、なあ。
「父さん?」
仕方ない。とっときのをやるか。
そっぽをむいたまま、藤右衛門がびくっとするのが分かった。
必死に平静を装っているけど、背中がちょっと固くなっている。
「はい。あーん。」
ほらほら、やってるほうだって、恥ずかしいんだから。
早く、口、開けんかい!
「・・・・・・。」
そのまましばらくの沈黙。
ちぇっ、これも無理か、と思ったときだった。
藤右衛門は無言のまま素早くこっちむくと、いきなりぱくっと匙を咥え、すぐにまたあっちをむいた。
うっかり瞬きでもしていたら、見逃すほどの早業だった。
あんたは、初めて餌もらった、野生の狐か?
「・・・っこ、殺し文句言ったって、だ、ダメなものは、ダメなんだからね?」
あっちむいたまま、そんなこと言うんだけど。
お粥もぐもぐしながら言ったって、説得力皆無だよ?
「よかった。
父さんが食べてくれて、嬉しいよ。」
あたしさあ。
藤右衛門のこと、嘘つきだ、ってよく言ってるけど。
あたしもなかなかの、嘘つきだったらしい。
ちらっ、と藤右衛門がこっちを伺う。
垂れた髪に顔を隠すようにしてるけど、見ているのはばればれだ。
「・・・アタシのは食べなかったのに。」
「は?」
「お前は、赤ん坊のころ、アタシが食べさせても、絶対に食べなかったんだよ。」
「へえ~・・・?」
そんな、赤ん坊のころのことを今言われても、ねえ?
恨みがましく、藤右衛門は続けた。
「折角、毎日、心を込めて、お粥、炊いたのにさ。」
「へえ?」
「木の実を入れてね?少し甘くするんだよ?」
「へえ?」
「こないだも、あれだけは食べてくれたじゃないか。」
・・・・・・。あ。あれか。
見習い明けのお祝いの料理。
ほとんど全部、スギナが食べちゃったんだけどさ。
たったひとつだけ、箸をつけた、あのお粥。
食べた途端に、どうしてか、涙が止まらなくなった、あれか。
「美味しかったよ、あれ。」
ぽろっと素直な言葉が出た。
「有難う。」
それも、嘘でもお世辞でもなかった。
藤右衛門は、いきなり下をむいた。
それから、ずずっ、と盛大に鼻をすすった。
「風邪?」
「違うよ、バカ。」
思うように手が動かないんだろう。
無理やり肩のところに顔を持って行って、衣で顔を拭く。
あたしは手拭を差し出しかけたけど、放っておくことにした。
しばらくして、落ち着いたのか、藤右衛門はこっちをむいた。
「あれ、作ってくれないか?」
「え?」
「木の実のお粥。
あれなら、食べる。」
そりゃまた、いきなり贅沢、言うねえ。
「・・・作り方、分からないから・・・」
「教えてあげる。」
・・・まあ、それなら文句言わずに食べるってんなら、そのくらい作ってやるか。
「分かった。
今日の夕餉に作るよ。」
あたしがそう言うと、藤右衛門は、にっこり笑った。
それから、目、つぶって、ぱっくりと口を開けた。
「そうと決まったら、たくさん食べて、早く治らなくちゃ。
お粥炊く間、お腹がすいて立ってられなくなったら、大変だもんね。」
そうかいそうかい。
言い訳なんかなんでもいいや。
食べてくれるならさ。
それからは藤右衛門も素直にお粥を食べてくれるようになった。




