72
ぼよん。
固い決意のもとに、固く固く拳を握りしめて。
妖力全開の速さに乗せて殴りつけた、はずだったんだけど。
その感触は、一言で言うと、そんな感じだった。
「やれやれ、まあまあ・・・
これはいったい、何事です?」
仔狐の悪戯でも見つけたみたいな声をあげながら、こっちにやってくるのは花守様だった。
けど、のんびりした声とは裏腹に、花守様は刀印を掲げてて、ふぅ、と息を吐いた。
あ。これって、花守様の術だ。
前に飛行術の練習をしてたとき、木に激突しそうになったのを助けてくれた、あれだった。
「拳骨で殴ったら、殴った方も、怪我を・・・
って、お説教は後です。」
ぶつぶつ言いかけた花守様は、はあ、とため息を吐いてから、振り返った。
「柊殿、蕗殿、患者さんたちを避難させてください。」
それを聞いて、何人かの治療師さんたちが、駆けていく。
けど、その後ろからもまだ続々と、大勢の治療師さんたちがこっちにむかって走ってきていた。
「結。」
何人かの治療師さんたちが、力を合わせて、妖狐を結界のなかに閉じ込める。
柔らかくて不定形な結界は、妖狐が暴れても形を変えるだけで、破られることはなかった。
そっか。ここの治療師さんって、元戦師のヒトが多かったっけ。
その連携は見事だった。
戦師って、もっとひとりひとりばらばらで動くのかと思ってたんだけど。
その間に、何人かの治療師さんたちが、一斉に、藤右衛門の傷を癒す。
血まみれのお化けのような姿をした藤右衛門が、ゆらぁり、と立ち上がった。
「やれやれ。
もうちょっと、休ませてもらえないのかねえ。
せぇっかく、娘の雄姿にうっとり見惚れていたのに。」
恨みがましい声でぶつぶつ言いながら、首を左右にこきこきと鳴らす。
それから、こっちをむいて、にたぁっと嗤った。
「いやあ、さっきの決め台詞には痺れたよ。
これが済んだら、是非、もう一度言っておくれね?」
や、やなこった!
あたしのとびっきりの弱みを握ったようなほくほく顔の藤右衛門に、あたしは青ざめた。
「じゃあ、今度は父さんの番だ。
楓。そこで、見ておいで。
ここはいっちょ、愛娘にいいところを見せないとね?」
そう言って、流し目をしてみせる。
げげげーーーっ。
いらない、って。
思わず両腕で防御した。
藤右衛門は、ふふっと嗤ってから、すっと真剣な顔になると、はっ、と気を発した。
その途端、結界のなかで暴れていた妖狐が、ぴたりと動きを止めた。
「ふっふっふ。
お前さんならよくご存知だったはずなのに。
バカだねえ・・・」
嘲笑うように藤右衛門が呟く。
「アタシの血を口にしたら最後、すべての動きはアタシに操られるんだよ?」
うわー、おっそろしぃ・・・
間違っても、藤右衛門の怪我舐めるとか、しないようにしないと。
「まあ、そのデカブツ操るにゃ、少々、時間かかっちまったけどねぇ。」
藤右衛門は疲れたというように、また、こきこきと首を動かした。
「見事に策にはまってくれて、助かった。」
そう言って、鮮やかに、嗤ってみせた。
うわー・・・、なんて立派な悪役顔・・・
まさか、まさかとは思うけどさあ。
藤右衛門って、わざと噛みつかせたんじゃないよね?
いや、そのくらいやりかねない?
「封。」
淡々と、藤右衛門は呟く。
それで、妖狐の動きは完全に封じられた。
ずるずると力尽きて妖狐は倒れこむ。
二次被害が出ないように、治療師さんたちはそれを結界に押し込める。
「なんだぁ、もうちょっと抵抗おしよ?つまんないだろ?」
藤右衛門は、むぅ、と口を尖らせる。
いやあんた、そんな血まみれの姿して、よくもまあ、そんなこと言えたもんだ。
倒れこんだ巨大な妖狐に近づくと、藤右衛門は、つんつん、と爪先でつついた。
そのときだった。
妖狐の背中が光ったかと思うと、ぱっくりと開く。
そこから、眩しい光が差した。
光はゆっくりと形をとる。
それは、羽のある虫のようにも見えた。
「いけない。羽化させては!」
花守様の叫びが聞こえた次の瞬間、鈴音を鳴らして飛んだ矢が、見事に光る虫を貫いていた。
スギナの投矢だった。
矢に貫かれた虫は、即座に、粉々に砕け散った。
ぎりぎり、羽化するのは防げたらしい。
けれど、虫が抜け出ようとしていたところはぱっくりと開き、そこからどくどくと血が流れだしていた。
「すぐに天幕に運びましょう。」
花守様の命に動き出そうとした治療師さんたちを、藤右衛門が制止した。
「その前に。
よ、っと・・・」
藤右衛門が妖狐にむかってひらひらと手を振ると、ふらふらとその姿が揺れて、小さく縮みだした。
再び、その姿が固定したとき、それは変化姿のレンさんになっていた。
「あんまり相棒のみっともない姿、晒したくなくてね。」
藤右衛門はそう言って不敵に嗤った。
けど、その次の瞬間、自身も、ふらりとその場に座り込んだ。
「藤殿!」
叫ぶように名前を呼ぶ花守様に、藤右衛門は、あぁ、と手をひらひらさせた。
「流石のアタシも、ちょっと疲れました。
ここで休ませてもらいますから、うちの相棒のこと、よろしくお頼申します。」
片手を上げて花守様を拝むようにする。
花守様は、何も言わずに、ひとつだけ頷いた。
座り込んだ藤右衛門の前に、スギナが駆け寄ってきて、いきなり地面に這いつくばった。
「藤右衛門様、さっきは、申し訳ありません!」
地面に額をこすりつけるようにして謝るスギナに、藤右衛門は、ふっ、と嗤った。
「・・・まったくだよ。」
ぼそり、と呟くと、スギナはますます額をこすりつけた。
「ちょっと!
あれは、妖狐の注意をあんたから逸らせようとしてやったんでしょ?
スギナはあんたを助けようとしたんじゃないの!」
黙ってられなくて、あたしは藤右衛門にくってかかった。
藤右衛門は、へえ、とあたしを見上げた。
「よく分かったねえ。偉い偉い。」
幼い仔狐に言うみたいに言うから、余計腹が立って、いっそ呆然としてしまった。
言葉が出てこなくて口をぱくぱくさせるあたしに、藤右衛門は、にやりと嗤った。
「妖狐の結界に気づかなかったのは、まあ、経験もないことだし、仕方ないとしよう。
注意を引きつけるために、鈴の鳴る矢を使ったのは、よかったよ。
ただね、スギナ、お前さんは決定的な過ちを犯した。」
ちらり、と冷たい目をスギナにむける。
スギナは顔を上げて、食い入るようにその藤右衛門の顔を見つめた。
「あのとき、お前さんの傍には、この娘がいた。
アタシはお前さんに言ったはずだ。
楓を護れ、ってね。
お前さんはその命に背いた。
そうして、この娘を危険に晒した。
いいかい?戦師ってのは、頭領の命には背いちゃならない。
それが絶対の掟。
どんな状況だろうと、お前さんは何より、この娘を護ることを優先すべきだったんだ。」
はい、と短く頷いて、スギナはもう一度、額を地面に打ち付けた。
その後ろ頭を、藤右衛門は、手を伸ばして、よしよし、と撫でた。
「スギナは戦師じゃないんだから。
あんたの命令を聞く義務なんてないじゃない。
それなのに、スギナを責めるなんて、やっぱり変だよ。」
あたしがぶつぶつ言うと、藤右衛門はこっちを見上げて、その通りだねえ、と言った。
「アタシも、あの状況をどう動かすか、咄嗟に迷ってたからね。
だから、本当はスギナは悪くない。
これはね、アタシの八つ当たりだ。
久しぶりに、心臓が止まるほど、びっくりさせられたもんだから。
ごめんね、スギナ?」
藤右衛門はスギナの顔を上げさせると、赤くなった額をそっと指先で撫でた。
すると、するするとその傷は癒されていった。
藤右衛門のくせに、治癒術もちゃんとできるのかと思った。
「それにさあ、スギナのおかげで、いい思いもできたよ。
この娘のあんな姿を見られるなんて。」
藤右衛門はこっちを見て、にっこりと嗤った。
あたしの背筋に悪寒が走った。
「ねえ、もういっぺん、言っておくれよ。
なんだっけ、ほら、あの、父さんはあたしが・・・」
にんまり、斜め下から上目遣いに見る藤右衛門に、あたしは、大声を上げて遮った。
「あああああああ!!!!!
なんも聞こえない聞こえないいいいいいい!!!!!」
両手で両耳を塞いで大声を上げる。
何事かと、むこうからこっちを見てるヒトたちもいるけど。
藤右衛門は舌打ちをして、そっぽをむいた。
「なんだい。ケチ。減るもんでもなし。」
減るんです。
あたしのなかの気力体力精神力。
いろんなものがすり減るんですよ。
けど、藤右衛門はすぐにこっちをむいて、にたり、と嗤った。
「まあ、いいっか。
十年ぶりに父さんって呼んでくれたからさ?」
なんであのとき咄嗟に、そう呼んでしまったんだろう。
まったくもって、分からない。
藤右衛門は、ねだるような視線でもう一度あたしを見る。
「ねえ、これからはさ、そう呼んでおくれよ?
父さん、って、さ?」
「遠慮しておきます。」
「遠慮なんていらないよ?
正真正銘、れっきとした、親仔なんだから。」
「冗談じゃない。
あんたの娘だなんて、あたしの一生の不覚だよ。」
むっとして言ったら、藤右衛門は、あはははは、と嗤った。
「ねえ紅葉。楓が冷たいんだよ。
お前様からも、なんか言っておくれよ?」
藤右衛門はそんなことを言いながら、懐から小さな陶器の狐を取り出した。
ひょい、と傍らに置くと、それは、ひょん、と大きくなった。
あたしは思わず一歩、後退った。
「げ。
持ち歩いてんの?それ?」
「当然だろ?
紅葉とアタシは一心同体。
いついかなるときも一緒だよ?」
藤右衛門は愛おしそうに人形に頬を寄せると、すりすり、と頬ずりした。
「ああ、冷たい。たまんないねえ、この肌触り。
楓の視線とどっちが冷たいだろう。
ふふふ、そんな目で見られると、ぞくぞく寒気がしてくるよ?」
あんたのその姿見てるこっちのほうが寒いよ。
「そんなことしてるから、病み狐って呼ばれるんだよ。」
「構わないよ。言いたいやつには言わせておけば。
それにもう、アタシは、頭領もお役御免だしさ。」
「は?
なんで?」
突然そんなことを言う藤右衛門にあたしも驚いた。
藤右衛門は、にんまりほくそ笑んで言った。
「そりゃあ、そうだろうよ。
戦師の頭領ってのは、誰より強くないといけないんだ。
それなのに、こぉんな大勢の前で、倒されたんだから。」
「倒された、って・・・」
あれって、あたしを庇ったせいだよね?
「次の頭領はレンだよ。
ああ、よかった。
これでアタシもようやく肩の荷が下りた。」
首をこきこきと動かす藤右衛門に、あたしは尋ねた。
「けど、あのおかげで、レンさんの動きを封じられたんでしょう?
あれって、そのためにわざとやったんじゃないの?」
「わざとなもんかね。
まあ、どうにかして、血は飲ませないと、とは考えてたけどさ。
普段ならもうちょっと、華麗に、そつなく、やってるよ。
あーんな、無様なザマ、晒しておいて、頭領でございなんて、ふんぞり返ってらんないよ。」
藤右衛門は楽しそうに嗤った。
「それもこれも、お前のおかげさね、楓。
そうだねえ、でも、せっかくだから、こうしよう。
レンはさ、アタシに一対一の勝負を挑んだんだ。
妻子と頭領の座を懸けて、さ?
そうして見事に勝ち取った。
うん。なかなかな美談じゃないかい?」
い、いやいやいや。
そんな話しじゃなかったよね?
だいたい、あれ、どう見たって、レンさんのほうが負けだよ?
「そういうことにしといておくれ。
あ、花守様には、こっちから話しを通しておくよ。」
「花守様だって、そんなこと頼まれても困るよ。」
「大丈夫だよ。花守様は。
あのヒトがそう言ってくれれば、ここの連中だって、話しは合わせてくれるだろうし。
あ、スギナ、お前さんもいいよね?」
藤右衛門に見つめられて、スギナは、うんうんと頷く。
こいつはもうすっかり、手懐けられた犬みたいだ。
それから藤右衛門はあたしを見て、思いっきりため息を吐いた。
「お前もさあ、妖狐なんだから、そろそろ方便ってものを覚えなきゃ。」
はあ?
それって、親として、教育的にどうなの?
「いいんだよ、それで丸く収まるなら。
小豆殿にも、そろそろレンを返してやらなくちゃ。
レンは、自分の仔が生まれていたことすら知らなかったんだ。
双子だって、本当の父親が帰ってきたら嬉しいだろうよ。」
あたしは昼間一緒に踊っていたレンさんと双子の姿を思い出した。
なんか、初対面だってのに、すぐに気が合って、仲良くなって。
あれって、本当の親仔だったんだ。
藤右衛門はにやりと嗤って付け足した。
「頭領はまあ、おまけだよ。
さんざん心配させられたんだから、このくらいやってもらっても罰はあたらないだろ。
アタシもそろそろ楽したいし。
もともと、頭領なんて、柄じゃないんだから。」
へえ。
藤右衛門自身がそんなふうに思ってたなんてちょっと意外だ。
「頭領、やりたくてやってるのかと思ってた。」
あたしがそう言うと、藤右衛門は、心底うんざりした顔をした。
「そんなわけないだろう?
こぉんなしち面倒くさいお役目。
もう、真っ平ごめんだよ。」
「まあ、それは本音でしょう。
働いたら負け、の、フジ、ですからね。」
ぼそりと低い声がして、ふりむくと、柊さんが立っていた。
「ああ。いろは隊九号、夢使いのラギじゃないかい。」
藤右衛門が楽しそうに言う。
は?夢使い?ラギ?
そう言われた柊さんは、鼻のところにしわを寄せて、思い切り嫌そうな顔をした。
「若い頃のいろいろを知ってる者同士ってのは、やりにくいもんですね。」
「お互い様だよ。ラギ。」
ふふふふふ、嗤いあうふたりは、どっちも目が笑ってなかった。
「ところで、あんたの具合を診るよう、花守様に言われたんだが?」
むっつりと柊さんは藤右衛門に言った。
それに藤右衛門は顔をしかめて言った。
「お前さんに診られるのは、なぁんか、妙なもの仕込まれそうで怖いんだが。」
「生憎、それは花守様に禁じられているので。」
ふっふっふ。嗤うふたりの間に、不穏なものが漂っている。
柊さんは藤右衛門をじっと見ていたけど、何も言わず、いきなりその肩をぐいとつかんだ。
そこは、あの妖狐に噛まれたところだった。
一応、治療師さんたちに治してもらったはずだったんだけど。
藤右衛門は、くっ、と声を漏らすと、そのままうずくまった。
その額から、ぽたぽたと汗がしたたり落ちた。
「呪いか。」
柊さんがぼそっと言った。
「くっそ・・・このくらい・・・」
藤右衛門は強がってみせたけれど、かなり苦しそうだった。
「花守様に施術していただきましょう。」
「申し訳ないけど、そうしていただくかな。」
柊さんの申し出に、珍しく、藤右衛門は素直に頷いた。
「辛かったら、幻術で眠らせてさしあげますが?」
けど、そっちには首を振った。
「結構だ。
せっかくこうして、娘と話せるというのに。
いいから、お前さん、あっち行ってておくれ?」
にやりと嗤う藤右衛門に、柊さんは、ああそうですか、とだけ言って、どこかへ行ってしまった。




