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施療院に帰り着いたのは、予定よりだいぶ早い時刻だった。
花守様はちょうど患者さんをまわり終えて、薬の仕込みをしている最中だった。
花守様は逆さ井戸のところでいつも薬を仕込んでいる。
ここの水は、森の泉と同じ水だ。
あの泉は底が抜けていて、そこから滴る水がここに溜まる。
洞窟の地面に大きな池を掘ってあって、滴り落ちた水はそこに溜まるようになっている。
飲み水や料理に使う水は、池の水を汲んで使っている。
けど、薬を作るときには、滴り落ちる水を、直接、甕に受けて使う。
水が滴るのはとてもゆっくりで、甕いっぱいに溜まるには時間もかかる。
あたしは、その時間待ってられないから、上の泉に行くんだけど。
花守様は、ぼんやりとその水を見ているのが好きらしい。
休憩する暇とか、ほとんどないから、その間くらい、少し休憩になっていいかもとも思う。
逆さ井戸に行くと、花守様は、いつもみたいに、ぼんやり滴る水を眺めていた。
こっちを振り返って、にっこりする。
おかえりなさい、と言う声は、ちょっと嬉しそうに聞こえた。
「あ。花守様・・・」
花守様の顔を見て思い出した。
あたし、わざわざ都に行ってきたのに、花守様にお土産とか、何も買ってこなかった。
「すいません。
お土産、忘れました。」
「はい?」
花守様はのんびりと首を傾げた。
あたしはあわてて説明しようとした。
「あ。あの、あたし、都へ、行ってきて。
あ、都だ、ってのは、行ってから、その、気づいたんですけど・・・」
「お父上は、お変わりなかったですか?」
花守様はとっくにあたしの行先を知っていたらしかった。
「あ。はい。
相変わらず、最悪でした。」
「えっ?最悪?」
あたしの言ったことの意味を違う風に取った花守様は、心配そうに眉をひそめた。
「あ。健康状態じゃありません。
からだはいたって元気そうでした。」
あたしがそう付け足すと、ちょっと困ったような笑いを浮かべた。
ちなみに、藤右衛門とあたしのことは、花守様も知っている。
「藤殿から、直々に書状をいただきまして。
あなたの導師を務めたことに対する礼を、それはそれはご丁寧に、おっしゃってくださって。」
書状?
そりゃまた、回りくどい上に、しち面倒臭い真似を。
そんなもん、念話ですませりゃいいのに。
「藤殿の手を久しぶりに拝見いたしました。
それはそれは、よい字をお書きになる。」
そう。
実はあのヒト、字が上手い。
書師にだってなれるくらいだ、ってどっかで聞いたことがある。
いらない特技だろうけど。
「書いた文字にはねえ、そのヒトのおヒト柄が表れるものですよ。」
なんだろうねえ。
花守様は、藤右衛門よりずっと長く生きているはずだし、騙されたりしないだろうって思うんだけど。
その評価は、やっぱりなんか、騙されてるんじゃないかって思う。
藤右衛門の話しなんて少しも面白くないから、あたしは急いで話を変えた。
「花守様、今日は忙しかったんですか?」
「ああ。いいえ。今日はそれほどでも。
急な施術もありませんでしたし。
薬も、朝のうちに一度仕込んで、今日はこれ、二回目です。」
「朝も薬、仕込んだんですか?」
「ええ。
薬を仕込みながら、今頃あなたはどうしていらっしゃるかなあ、なんて考えてました。」
花守様は肩を竦めてくすっと笑った。
「そうしたら、ちらり、とあなたの幻が見えた気がして。
まったく、恋煩いの乙女でもないでしょうに。
わたしも相当、重症ですね?」
「幻?」
「ええ。この甕の水のなかにね?
けど、にっこり笑顔ではなくて、あなたは何か、思いつめたような目をしていて。
わたしはとても不安になって、あなたを慰めて差し上げたくなったんですよ?」
花守様はくすくすと楽しそうに笑った。
「導師を引き受けた仔は、とても可愛いものだと、前に薺殿がおっしゃっていたことがあって。
なるほど、このことかと、実感いたしました。
寝ても覚めても、あなたのことが、頭から離れなくなっているようです。
けれど、いつまで経っても仔離れできないのは、よいこととは言えませんから。
わたしも、大概にしないと、と、少し反省したのです。」
・・・そんな反省、してくれなくてもいいんだけどな、とちょっと思った。
「それって、もしかしたら、本当に、花守様があたしのこと、助けてくれたのかもしれません。
あたし、藤右衛門の話しを聞いてて、突然暴走しそうになって・・・」
「あら、まあ。」
思い切って正直に打ち明けると、花守様は目を丸くした。
「すごく、怖かった、です。
なにもかも、ぶち壊してしまいたくなって。」
思い出すと、今のほうがもっと怖くなった。
あたしは、下唇をぎゅっと噛んだ。
花守様は、よっこいしょ、と腰を上げると、あたしの傍にゆっくりと近づいてきた。
「大丈夫。
それでも、あなたは、なにも壊さなかったのでしょう?」
そう言って、ゆっくりとあたしの唇に指を置いた。
そうして、噛みしめる歯の下から、そっと唇を救出した。
「大丈夫。
あなたはもう、力を暴走させたりはしませんよ。」
ふわりと花の匂いがして、唇から痛みが消える。
花守様は、にっこりと微笑んだ。
「よく頑張りました。偉かったですね?」
よしよし、と頭を撫でる。
仔狐扱いされるの、あんまり好きじゃないんだけど。
あたしはじっとして、されるがままになっている。
花守様に頭を撫でられるのは、どうしてかそんなに嫌じゃなかった。




