64
物入れかと思う襖を開いたら、細くて急な階段があった。
箱を積み上げたみたいな階段を、びくびくしながら上がっていく。
先に上るスギナの足元で、箱がきぃきぃと音を立てて、いつ踏み抜くかと本気で怖かった。
二階は思ったよりも明るくて広かった。
藤右衛門はこっちをむいて、あたしたちが上がってくるのを眺めていた。
ぽんっ、といい音をさせて、煙管の灰を煙草盆に打ち付けると、にっこり不気味に微笑んだ。
「久しぶりだねえ、楓。
さあ、父様の胸においで?」
もちろん、行くわけない。
あたしは、なるべく藤右衛門から離れたところに座った。
スギナは戸惑ったように藤右衛門とあたしとを見比べてから、そのちょうど間くらいに座った。
藤右衛門は手をうちわのようにしてあおぎながら、スギナにむかって鷹揚に言った。
「有難う、スギナ。
お前さんならうまくやってくれると思ったよ。」
藤右衛門は至極満足そうだ。
反対にあたしは不満の極地。
・・・・・・。
見習い明けのお祝いじゃなかったの?
こんなの騙し打ちだよ。
藤右衛門はゆったりした浴衣の前をはだけて、しどけない姿で座っていた。
その浴衣、よく見ると一面に般若の面を散らした柄だ。
湯上りなのか、片方に流した長い髪は、まだ濡れている。
目の奥が絶対に笑わない細い目を、さらに細くして、値踏みでもするように、こっちを見ていた。
「アタシの贈った衣は、着てくれなかったんだって?」
開口一番、責めるように言う。
あたしは、むっつりと返した。
「あんなきんきらきん、着られませんよ。」
「郷の匠に、特別に頼んで作ってもらったのに。」
「あれって、あなたが考えたんですか?
道理で悪趣味だと思った。」
あたしたちの会話に、スギナはびっくりしたように、きょろきょろとあたしたちを見回している。
そうだよ。あたしたち父娘、実は、ものすごく、仲が悪い。
藤右衛門は、ふっ、と鼻で嗤って、あたしをもう一度じろじろ見た。
「それにしても、地味な格好だね?
どれ、アタシのを一枚あげるから、ついておいで。」
「結構です。」
きっぱりと手のひらを立てて拒絶する。
藤右衛門の衣なんて、もらった瞬間、燃やしたくなるに違いない。
「それより、病気だ、って聞いたんですけど。」
そう。
それがなかったら、あんな木の戸くらい蹴破ってでも外に逃げてた。
けど、この間、奥方から、そんな話しを聞いていたから。
それだけは確かめておこうと思ったんだ。
藤右衛門は、くくくくくっ、と嗤った。
「べつに。どこも悪くないよ?」
「そうですかそれはよかったじゃああたしはこれで。」
一息に言って座を立った。
あーもう、帰りたい帰りたい帰りたい。
スギナのバカ野郎。
もうあんたのことなんか信用しないからね。
「お待ち。」
藤右衛門はそう言うと、あたしのほうに向かって手のひらを立てた。
途端にあたしは金縛りにあったように身動きができなくなった。
「・・・くっ・・・」
娘にこんな術をかけるとか、やっぱこいつ、あたしの父親なんかじゃない。
藤右衛門は、ふぅ、と悲し気なため息をひとつ吐くと、脇に置いてあった陶器の置物に話しかけた。
「ごめんね、紅葉。アタシだって、こんなことしたくないんだよ?
けど、こうでもしないと、話しもできないじゃないか。
アタシたちの愛娘は、どうしてこんなに、アタシのことを嫌ってんだろう?」
それから藤右衛門は、置物に耳を近づけて、ふんふん、と何やら頷いた。
まるで、誰かと会話をしているように。
げ。
病み狐。
その意味が分かった気がした。
「誰に、聞いたんだい?」
「は?」
突然尋ねられて、なんのことか分からなかった。
藤右衛門は、物分かりの悪いヤツを蔑むようなため息を吐いた。
「アタシが病気だ、って。」
「ああ、奥方様に。」
「小豆殿?
そうか。
あちらの母仔は、ご健勝であらせられるかい?」
藤右衛門は、余所のヒトの消息を、お愛想で尋ねるように訊いた。
「お元気です。
あなたには、感謝してる、っておっしゃってました。」
「ふふふ。
感謝ねえ?
相変わらずの嘘つき姫だ。」
冷たい嗤いを浮かべる。
あたしはむっとして藤右衛門を睨んだ。
「あなたに誰かを嘘つき呼ばわりする資格なんてないと思いますけど?」
「そうかな?
妖狐はみんな、嘘つきだろ?
もちろん、アタシも、それから、お前だってね。
嘘をつかないのは、紅葉だけ。
愛しい愛しい、アタシの紅葉だけだよ。」
藤右衛門はそう言って、小脇に抱えた陶器の置物を撫でる。
つるりとしたそれは、真っ白い、狐の人形だった。
本物の狐と同じくらいの大きさがある。
紅葉、の名の由来の、耳の先だけ、ほんのり紅い。
そんなところまで母さんにそっくりな、陶器の人形だった。
「あの娘とアタシの婚姻は、互いの利益のため。
まあ、持ちつ持たれつ、ってことだね。」
藤右衛門はつまらなさそうにそう言った。
「あの娘は、いろはの持ち物が欲しかった。
それから、先代の要求に応える婿君が欲しかった。
その両方を叶えるのに、ちょうどよかったのが、アタシだった、ってわけだよ。」
「母さんの、持ち物?」
あたしは酷く動揺して、そう尋ねた。
ああ、そうだよ、と藤右衛門は頷いた。
「あの蔵は見たかい?
あれはねえ、スズ姉のからくりに、妖術を組み合わせた、最強の保管場所なのさ。
戦師の頭領の財と権力のすべてを注ぎ込んだと言ってもいいくらいだよ。
中に保管されているものは、どれだけ時間が経っても、まったく、これっぽっちも、劣化しない。
あの娘はあの蔵で、いろはの思い出を護ってるんだ。」
確かに、弟たちも、そんなようなことを言ってた気もするけど・・・
「アタシもね、紅葉の使っていたものを、そうそう無下にもできなかったからね。
その点、あそこまで財をつぎ込んで護ってくれるんだったら、願ったりだ。
あの娘は、本当にいろはのことが好きだった。
その一点においては、曇りのない事実だけどね。
アタシと婚姻したのだって、アタシがいろはの夫だったからだよ。
いろはの物は、何もかも、いろはのいたころのまま、とっておきたいんだ。」
まあ、考えようによっちゃ、有難いヒトだよねえ、と藤右衛門は陶器の狐を撫でた。
「アタシの親はさ、まあ、頭の固いやつらで、紅葉のことをいつまで経っても認めようとはしなかった。
アタシはとっくに家を捨てていたから、どう言われようと知ったこっちゃなかったけどね。
それが、紅葉の姿が見えなくなった途端に、今度こそ、妖狐の嫁をもらえと張り切りだして。
まあ、うるさいったらありゃしない。
紅葉はいなくなったりしてないってのにさ。
だからさあ、ちょうどよかったんだよね、先代の頭領のひとり娘、ってのはさ。」
藤右衛門はつまらなさそうに言った。
「むこうもね、ちょうど困ってたのさ。
なにせ、お腹の仔の父親が、突然、行方を断ってしまったのだから。
先代はその婿君のことは気に入らなくてね。
あまりに反対するもんだから、まだ祝言も挙げてなかったんだ。
それがちょうど、行方不明になったもんだから、ほら言わんこっちゃない、ってね。
そんなこんなで、アタシたちは、互いの利益のために、形だけの婚姻をしたんだよ。」
ほらね、嘘つきだろ?と藤右衛門は尋ねるように呟いた。
「けど、そんな話しまで聞いてくるってことは・・・
お前、あちらとは和解したんだね?」
「あたしの誤解で、奥方様にはずいぶん悪いことをしたな、って思ってます。
あんなに、いいヒトなのに・・・」
あたしは殊勝に頭を下げた。
奥方には関しては、今でも申し訳なかったと思っている。
「ふうん。
なら、アタシとも仲直りしてくれてもいいんじゃないの?」
藤右衛門は不満そうに口を尖らせた。
「お前が気に入らなかったのは、アタシが心変わりしたと思ったからなんだろう?
ふふ、バカだね、そんなこと、あるわけないのに。」
ねえ?と藤右衛門は陶器の人形に凭れかかる。
そのまま斜めにあたしを見上げた。
「でもね、あのときお前にちゃんと説明しなかったのは、わざとなんだ。
先代は、自分の娘をなかなか信用しなくてね。
ちゃんとみんなの前で祝言も挙げたし、頭領もアタシが引き継いだんだけど。
それでも、小豆殿は、本当はレンを待っているんじゃないか、って。
まあ、実際、その通りなんだけどさ。
そんな疑り深いヒトの前で、お前の口から、この婚礼は形ばかりだ、なんて言われたらさ。
それこそ、アタシたちのたくらみも、水の泡じゃないか。」
何が楽しいのか、ふふっ、と藤右衛門は嗤った。
「アタシはさあ、とにかく、誰にも邪魔されずに紅葉と暮らせればよかった。
小豆殿は、無事に仔を産んで、その父親を待っていられればよかった。
お前はさ、そんなアタシたちのハザマにいて、犠牲になったんだよ。」
ごめんねえ、と少しも悪びれずに藤右衛門はまた嗤った。
くそ。
なんて嫌なやつ。
そんなこと、昔から知ってたけど。
こうして改めて思い知って、ますます嫌いになる。
こんなところ一刻も早く出て行きたいけど。
くそ。動け。あたしの足。
忘れていた感覚があたしのなかで甦る。
むずむずと、暴れだしたい力が、蠢き始める。
あたしはなんとかしてそれを抑え込もうとする。
こんなところで暴走したら、大惨事になる。
それは間違いないから。
母さんの悲劇を繰り返させるわけにはいかない。
藤右衛門やスギナなら、多少のことじゃ傷つくことはないだろうけど。
ここは街中だ。
近所には大勢、人間がいる。
人間は、所詮相いれない異種族ではあるけれど、それでも、むやみに傷つけていいわけじゃない。
来る途中、若夫婦とからかった声が甦る。
門のところで、スギナから何か受け取った人間の浮かべた、いやらしい笑いが甦る。
やだやだやだ。
あたしは、なんとかそれを追い払おうと頭を振る。
罪のない人間だって大勢いる。
いやたとえ、罪があったとしても、罰を与えるのはあたしの役目じゃない。
嫌いってのは、傷つけていい理由にはならない。
くそ。暴れださないで、あたしの力・・・
必死の思いで、あたしは強く強く願った。
楓さん。
ふいに、花守様に呼ばれた気がして、はっとした。
懐のなかになにか光るものがあった。
これは・・・もうずいぶん前に、花守様に持たされた手鏡だった。
使ったことは一回もなかったけど、何故かずっと、懐に突っ込んであった。
手鏡は、淡い山吹色の光を放っていた。
あたしはからだは動かせなかったけれど、その光に意識を集中させた。
たまきはる
いのちのはなの
あなとうと
こおろこおろに
かきならし
花守様の歌声が聞こえた気がした。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
呪文のようにそう繰り返す。
すると、少しずつ少しずつ、息ができるようになってきた。
「・・・あの双子の父親はね、蓮華といって、ああ、あたしはいつもレンって呼んでたんだけどね?
レンはアタシの相棒だった。
紅葉は、お前を身籠ったときに戦師を辞めたから。
その後釜に就いたんだよ。」
気が付くと、藤右衛門はいつの間にかそんな話しを始めていた。
「たしか、そのヒトも、母さんの贔屓だった、って聞きましたけど?」
話しに興味をひかれて、あたしは尋ねていた。
確か、いろはの会の、会員番号二番、だっけっか?
奥方がそういうようなことを言っていた気がする。
それがふたりの縁だった、って。
けど、そのヒトが藤右衛門の相棒だったってのは、初耳だった。
「ああ、そうだよ。
いろは隊のレンは二号。ちなみに、アズが一号だ。」
「いろは隊?」
あれ?そんな名前だったっけ?
「いろは隊ってのは、いろは同好会の急進的な会員が作った別動隊でね。
一号から、九号までいる。
こっちは、全身全霊、いろはに捧げますって、ちょっと危ないヒトたちだよ。」
???
いや、危ないとか、他のヒトに言う権利、藤右衛門にだけはないと思うけど。
「蓮華は、レン。小豆殿は、アズ、と名乗ってた。
ふふふ。名乗りからして、危ないヒトたちっぽくないか?」
いや、あんたほどじゃないって。
「ちなみに、あなたは入ってないんですか?その会には?」
「アタシ?アタシはいろはの夫だもの。なんで、そんなザコと一緒にやらないといけないの?
もっとも、名誉会員になってくれって言われて、それは仕方ないから引き受けてあげたよ。
会員番号は零番さ。」
・・・やっぱ、一番危ない感じするのはあんただよ。
「レンはねえ、本気でいろはに惚れてたんだ。
岡惚れってやつだよ。
何をとち狂ったか、アタシから奪おうと、本気で戦いを挑んできてさ。
もちろん、瞬殺。返り討ちにしたけどね?」
ふふふふふ。藤右衛門は楽しそうに嗤う。
「その後も、何度も何度も挑んできてさ。
ふふふ、いいよねえ、恋敵って。」
え?それがなんで相棒になるんだ?
「あんまりしつこいから、とうとうその根性に免じて、アタシの相棒にしてあげたんだよ。
そうすれば、少しはいろはと直接話す機会もあるだろうからね。
レンは泣いて喜んでたよ。」
・・・やっぱり、このヒトの考えてることはよく分からない。
「なにより、一番危険な敵は、一番近くに置いて監視するのが、一番いい。
このアタシにそんなことを思わせたのは、後にも先にも、レンだけだ。」
あたしが目を丸くすると、藤右衛門は、心底楽しそうに、あははと嗤った。
「仕方ないさ。いろははそのくらい魅力的なんだもの。
あの純真さも、素直さも、どこまでも、真っ直ぐ、正直なところも。
すべての妖狐は、いろはに惹かれる。
そういうふうになっているんだよ。」
藤右衛門はうっとりと陶器の人形に話しかけた。
「ねえ、そうだろう?紅葉。
けど、アタシは、紅葉を誰かに譲ったりはしない。
絶対に。
たとえ、死神にだって。運命にだって。
抗って抗って、きっと、護ってみせるよ。」
そう囁く目は、完全に狂気の色に染まっていた。
「ねえ、楓?」
藤右衛門は狂った目をあたしに向けて言った。
「紅葉はね、お前のことを責めたりはしていないよ。
もちろん、アタシだって、お前のこと、責める気持ちなんて、これっぽっちもない。」
そう言いながら、陶器の狐を膝に抱き上げる。
そのまま覆いかぶさるようにして、愛おしそうに抱きしめた。
「けどさあ、紅葉は、何もかも捨てても、お前を守ろうとした。
お前は生涯、そのことだけは、忘れちゃいけない。
幸せな暮らしも、命も、このアタシも。
お前の命と引き換えなら、紅葉は捨てられたんだ。
そのくらい、紅葉にとって、お前は至高の存在だった。」
ちらり、とこっちを見上げた藤右衛門の目が光る。
その光に、ぞくっとする。
なんだろう、これ。
なんかあたし、脅されてるのかな?
「だからね、お前は幸せにならなくちゃならない。
それが紅葉に対してお前のできる償いなんだ。
全身全霊を懸けて、幸せにおなり。
そうしてこそ、紅葉のしたことも、報われるんだから。」
藤右衛門は言うだけ言うと、追い払うようにひらひらと手を振った。
途端に、あたしはからだを自由に動かせるようになった。
「下にご飯を用意してある。
気がむいたら食べてお行き。
心配しなくても、毒は仕込んじゃいないよ。」
何がおかしいのか、くくく、と喉を鳴らして嗤う。
「アタシはこれからお役目があるからね。
もうそろそろ、支度をしなくっちゃ。
じゃあね、スギナ。悪かったね。」
スギナにむかってだけ、軽く微笑むと、さっと立って衣を翻すように後ろをむいた。
はらり、と般若柄の浴衣が下に落ちる。
そのむこうには、藤右衛門の姿も、あの陶器の人形も、かき消すようになくなっていた。




