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きゃあ、というとてつもない悲鳴が聞こえた。
それから、これは、なんだい?とちょっと裏返った声が尋ねた。
なに?って、ネズミだけど?
当然と言うように、のんびりした声が答える。
すると、うひぃー、とまた悲鳴が上がった。
赤ん坊にこんなもの食べさせちゃ、お腹壊すだろう?
そう?
わたしは子どものころ、大好物だったけど?
この仔は普通の狐じゃないから。
妖狐の仔だから。
普通の狐よりは、お腹、弱いから。
ぶつぶつ言う声が近づいてきて、白い顔がこっちを見下ろして微笑んだ。
おや?今日は笑っておいでかい?
ふふふ、可愛いねえ。
よしよし、おいで。
木の実のお粥を食べようねえ。
だけど、あたしは、にっこり笑うその細い目が恐ろしくて、火のついたように泣きだした。
って、ちょっ、なんでお前は、いつもいつも、わたしの顔を見て、泣くんだい。
むぅ、と口を尖らせたその顔が、あたしにはますます恐ろしくて、泣き叫ぶ。
はいはい。いい仔だから、泣くんじゃないよ?
あやしながら白い顔のヒトはあたしを抱き上げる。
背中のひんやり冷たくて固い手の感触に、あたしはさらに泣く。
自分の息にむせてせき込んで、せきが止まったらまた泣いて。
とうとう、声がかれるまで泣く。
あらあら、いったいどうしたの?
のんびりそう言う声がして、温かくて柔らかい手があたしを抱きとる。
ふわふわして温かい胸に抱かれて、ようやくほっとして、あたしは目を開く。
涙で霞む視界に映るのは、こっちを見下ろすふたつの顔。
細くて、白くて、長い顔と、まるくて、少し赤みがかった日焼けした顔。
眉をひそめた白い顔はちょっと怖いけど。
日焼けした顔はにこにこと笑っていて、それにつられるようにあたしも笑った。
おや、泣き止んだ。
まったく、お前様は不思議だねえ。
それにしても、べそをかいていても、可愛らしい仔だ。
ほうれほれ。
長く鋭い爪のついた指がこっちに伸びてきて、あたしの鼻をつついた。
その爪が恐ろしくて、あたしはまた、泣き出した。
あ、ちょっ、なんで泣く?
父さんがあんまり綺麗だから、恥ずかしくて泣くんでしょうよ。
勝手にそんなこと答えられるけど。
違います。怖くて泣いてるんです。
恥ずかしくて、泣くかね?
まったく、お前様の言うことは、よく分からないよ。
そう言いつつも、とりあえず、指は引っ込めてくれてよかった。
その間に、あたしはあったかい膝の上に座らされていた。
自分ではまだうまく座れないんだけど、柔らかい胸に背中を支えられて心地いい。
さあ、ご飯をいただきましょうね?
父さんの作ってくれた木の実のお粥ですよ?
そう言う声がして、目の前に小さな匙が差し出された。
ほんのり黄色いとろりとしたお粥を口に入れると、ふわりと甘くて、幸せな気持ちになった。
おや、笑った。
そうかい、美味しいかい?
白いヒトは満足そうにこっちを見る。
一度煮た木の実を滑らかにすり潰して、それをまた穀物に混ぜて柔らかく炊くんだ。
手間暇、かかってんだよ?
ちょっと自慢げに説明している。
あたしはお粥を食べるのに夢中になってて、話しはあんまり聞いてないけど。
はぐはぐと食べるあたしに、白いヒトは何故か嬉しそうだ。
どれ、その匙をわたしにも貸しておくれ。
わたしも食べさせてみよう。
また余計なことを思いついて、長い爪のついた指が、あたしの前に匙を差し出した。
ほれほれ、お食べ?
猫なで声でそう言いながら、ゆらゆらと匙を動かす。
あたしは、ふえ、とちょっと泣きそうになる。
あ、ちょっ、だから、なんで泣くの?
そう言いながらも、匙は返してくれた。
匙を持つ手が元に戻ると、あたしはまた、はぐはぐとお粥をほおばり始めた。
・・・・・・
変な夢を見た気がする。
目が覚めた途端に、全部忘れてたけど。
なんか、藤右衛門と母さんが出てきたかも。
起きて着替えていると、花守様が迎えにくる。
いつもの朝。
日の出を拝んだら、今日も忙しい一日が始まる。
朝餉をとったら、花守様と患者さんを回って。
薬作って、ついでに、今あるやつを整理しておく。
昼から、少し時間があったから、もう一甕、仕込むとしよう。
スギナの売る分も、少し余裕がほしいしね。
泉で水汲みをしていたら、スギナがやってきた。
「おかえり。」
「おう、ただいま。」
スギナはわりとしょっちゅう帰ってくる。
スギナのお客さんは全国津々浦々にいるらしいけど。
行李にいっぱいにした薬も、すぐに売り切れてしまって、そのたびに補充に戻ってくる。
転送すればいいんじゃない?、って前に聞いたこともある。
けど、郷の外は妖力の場が安定してなくて、転送の座標も狂いがちらしい。
折角送った薬も、池にぽちゃん、とかなっては、使い物にならないし。
それなら自分が取りにくるほうが早いって、いつも言う。
高速移動とか、転移とか、スギナは術も得意だし。
こっちから送るにしても、あたしにはそんな高度な術は無理だ。
花守様に頼もうにも、花守様も忙しいし。
柊さんに頼んだら、余計な仕事を増やすな、と叱られる。
よっぽどのっぴきならない事情のあるときは別だけど。
そうでないときには、結局、スギナが取りに戻ることになっている。
スギナはあたしがいっぱいにした甕をひょいと抱えて聞いた。
「これ、運ぶのか?」
「あ、待って。
仕込むから。」
薬を仕込むのって、本当はどこでもできるんだけど。
初めて、自分で作るのを習った場所がここだったから。
それ以来、あたしはいつもここで、仕込みまでやってから戻ることにしていた。
スギナは甕を戻してから、心配そうに尋ねた。
「俺、見ててもいいのかな?」
「ああ、構わないよ。」
別に見られて困ることもない。
花守様は薬作りを見られるのは苦手で、いつも誰もいないところでやってるけど。
どうして見られたくないのか尋ねたら、歌を聞かれるのが嫌なんだ、って言ってた。
別に、下手じゃないと思うけどなあ。
あたしは花と水を丁寧にかき混ぜながら、歌う。
たまきはる
いのちのはなの
あなとうと
こおろこおろに
かきならし
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
丁寧に。丁寧に。
ゆっくりと。ゆっくりと。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
妖力を送り込むと、水が淡く光りだす。
急がない急がないと自分に言い聞かせる。
あんまり一度に妖力を送ると、ぱんっ、て甕が割れることもある。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
花と水を混ぜて、光を均一にならしていく。
この作業が、とても好きだ。
こおろこおろ・・・
こおろこおろ・・・
詞の響きと甕のなかの水の音。
ぐるぐると渦を巻く光。
踊るように揺れる花の色。
そしてどこまでも清らかな水。
そのすべての調和は、とても心地いい。
こうしていると、自分自身も清められていく気がする。
「さてと。
こんなもんかなあ。」
仕上げにそう呟くのは、花守様の癖だけど。
すっかりそこまで伝授されてしまっている。
ふと、顔を上げたら、スギナは、凍り付いたみたいに固まって、あたしのほうをじっと見ていた。
「・・・うん?どうした?」
首を傾げるのも、花守様の癖、うつったなあ。
あたしが尋ねると、スギナはいきなりがばっと手で鼻と口元を隠した。
「やべ。俺、やべ。」
???
なにやらぶつぶつ呟きながら、あたしも甕も放り出して、一目散にどこかへ走っていってしまった。
あれ?
運んでくれるつもりじゃなかったの?
まあ、いいけどさ。




