59
藤右衛門の屋敷は郷の奥まった辺り、ヒト通りの少ない閑静な場所にある。
いや、そう言うと聞こえはいいけど、実際には、郷の外れの不便な淋しいところだ。
仔らが道場に通うにも、ちょっとした用足しに行くにも、かなり歩かないといけない。
もうちょっと便利なところに棲むことだって、できないこともないだろうに。
どうしてあんな不便なところに棲んでいるのかは、謎だ。
ちなみに隠居した先代は、夫婦ふたりで、さらに離れたところの草庵に棲んでいる。
そこは、郷とは名ばかりの、はっきり言って、山のなかだ。
不便とかもう、そういう段階の話しじゃない。
小さいころ、一度だけ挨拶に行ったけど、鬱蒼とした藪のなかで、子ども心にも驚いたもんだ。
狐狸妖怪の棲む山の中、って、ああいうのを言うんだろうな。
まあ、あたしたちだって、妖狐なんだけどさ。
先代は、ひとり娘を藤右衛門の奥方にして、頭領も譲り、あとは悠々自適。
ほとんどヒトと関わらず、自給自足の暮らしをしているらしい。
あたしにとっては、義理の祖父母にあたるヒトたちなんだけど、ほとんど会ったこともない。
今の藤右衛門の屋敷は、その先代がまだ頭領をしていたときに棲んでいた家だ。
奥方にとっては、自分の生家になる。
藤右衛門は婿入りしたような感じかな。
もっとも、その家に藤右衛門はほとんど棲んでないんだけど。
あたしは髪につけてきた母さんの簪に、そっと手を触れた。
なんだかちょっと、母さんに励まされた気がする。
今朝はわざわざ柊さんにお願いして、髪を結ってもらった。
柊さんはぶつぶつ言いながらも、綺麗に髪を結って、簪もつけてくれた。
ちょっと昔風の、母さんの若い頃に流行っていたような髪型に、古びた簪がよく似合う。
柊さんって、こういう細かいところによく気のつくヒトだよな。
高速移動の術は使えるんだけど、あたしはわざわざてくてく歩いて行くことにした。
折角結ってもらったのに、髪が崩れるのも嫌だったし。
というのは言い訳で、本当のところは、やっぱり、なんとなく気が重かったんだ。
暴れて、反抗して、何回も家出して、とうとう、先生に預けられた。
あの家にいたころのあたしは、怪物だった。
どうしてあんなに荒れていたのか、今となっては自分でもよく分からないんだけど。
荒れてた、という記憶は間違いなくはっきり残ってるから、どうしたって、敷居が高い。
けど、一度きちんと挨拶をしたいと思ったのは自分自身なんだし。
みんな快く、送り出してくれたんだから。
そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか、屋敷の前にたどり着いていた。
仔狐のころも、ずいぶん、ボロ、いや、質素なお家だと思ったものだけど。
こうして成長した目で見ても、やっぱり、なかなかな、あばら家、もとい、簡素なお家だ。
もっとも、手入れが不十分で、荒れ果てている、というわけではない。
ただ、余分なものを一切省いた、必要なものだけある家という感じ。
余計な装飾がないのは、質実剛健な戦師に相応しい佇まいと言ってもいいかもしれない。
この家は先代の趣味なんだろうか。
一応、前庭らしきものはあるんだけど、庭なんだかのっぱらなんだか分かりゃしない。
庭石?のようなものがあるから、庭なんだろう、って程度のものだ。
いやそれももしかしたら、家を建てたときに、どかすのも面倒でそのままにしただけかもしれない。
塀も門もなくて、しるしばかりの竹垣と枝折戸だけある。
けど、この垣も、ちょっと行ったらすぐに途切れてしまうから、ほとんど意味はなしていない。
ただ、離れには、たいそう立派な蔵があった。
こちらは、べったりと真っ白い土壁に囲まれた、厳重な作りだ。
昔、一度だけ中に入ったこともあるけど、昼間も真っ暗で、気味が悪かったのだけ覚えている。
今思えば、あの蔵のなかに保管されてたのが、母さんの持ち物だったのかもしれないな。
あたしはもう一度、簪に手を触れた。
それから、深呼吸をして、枝折戸に手をかけた。
そのときだった。
高らかに鳴り響いたのは、ほら貝?
それから、まるでお祭りのような、鉦と太鼓の音が響き渡る。
え?ちょ、なに?もしかして、これって、呼び鈴?
驚いて腰を抜かしそうなあたしの前に、ぴゅ~っとつむじ風の如く現れたのは、弟たちだった。
「姉上様、ようこそお帰りくださいました。」
「我ら母仔、首を長く長くしてお待ちしておりました。」
「首を伸ばし過ぎて、ろくろ首になってしまいました。」
「ほら、この通り。」
ふたりしてにょ~んと首を伸ばして、けけけけけっ、と笑う。
あたしはまたびっくりして尻もちをついてしまった。
「おっと、姉上様!」
「嬉しくて、巫山戯が過ぎてしまいました。」
ふたりは慌てて首を戻すと、あたしを助け起こしてくれた。
妖狐のくせにろくろ首に驚くなんて、とは思うけどね。
びっくりするでしょうよ、いきなり、あれは。
けど、ふたりのにこにこ顔は、この間以上だった。
そんなに喜んでもらえるなんて、ね。
いやもう、ふたりして、にこにこにこにこと、しじゅう笑っている。
なんか、来るのに気が重かったのも忘れてしまいそうだ。
両方の手を取られて案内されたのは、屋敷の表玄関だった。
前に立つと、いきなり、さっ、と左右に戸が開いた。
「おかえりなさいませ。」
正面の上がり框に背筋を伸ばして座っていたのは奥方だった。
奥方は、ぴたりと三つ指をついて、丁寧に頭を下げた。
「あ。
いや。
これは・・・
っそ、その・・・」
次の言葉が出てこない。
思わず逃げ出しそうになって、後ろを振り返ったら、ぴしゃり、と音を立てて、戸が勝手に閉まった。
奥方は手をついたそのままの姿勢で、朗々と言った。
「楓様のおかえりを、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました。
ようやくその念願叶い、帰っていらっしゃるとの報を受け。
昨日から一睡もせずに、首を長う長うして、ほれ、この通り。」
にょにょにょにょにょ~・・・
目の前の奥方様の首が突然伸びる。
すると、あたしの後ろにいた双子も、同じように、にょ~んと首を伸ばした。
なに?この母仔?
流石に今度は、びっくりするというより、ちょっと呆れた。
いや、奥方がこんなことをするということには驚いたけど。
「あの・・・奥方、様?」
「母と呼んでくださいませ。楓様。
それで、どっちにいたします?
どちらもそこそこ出来のよい仔でございますよ?」
いやそんな市場で売ってる魚じゃないんだから。
妙な売り込みはよしましょうよ。
「僕にしましょう、姉上様!」
「いいえ、僕ですよね、姉上様!」
うんうん。どっちもないです。
だからその、にょにょにょ~、は、いい加減、やめましょうね。
弟たちを生暖かい目で見比べてから、あたしは、そうだった、と思い出した。
「ただいま、戻りましてございます。
奥方様には、長い間ご無沙汰いたしまして、大変申し訳ございませんでした。」
「まあ!
なんとまあ!
ご立派になられて・・・」
あたしが挨拶をすると奥方はいきなり懐紙を取り出して目元をぬぐい始めた。
「それでも、まだ、母とは呼んでくださいませんのね?」
それは・・・
いや、あたしも、今日こそは、そう呼ばなくちゃ、と来る道々、思ってたんですけども。
いきなりあのろくろ首見せられちゃ・・・潮時を逃したというか、なんというか・・・
「それは、あの、これから先、長いお付き合いになりましょうから・・・」
にこにこにこ。
ちょっとばかし花守様風に首を傾げて笑ってみたら、奥方は、まあ、とまた歓声を上げた。
「長いお付き合い?
なんて素敵な響きかしら。
そうね、楽しみは先にとっておくほうが、より大きくなりましてよ。」
そう言って、目をきらきらさせた。
「母上、姉上様に、上がっていただきましょう。」
「我らのご用意した歓迎の宴を御覧に入れとうございます。」
双子があたしの後ろからそう声をかける。
すると、奥方は、まあまあ、そうでしたわ、と急いで立ち上がった。
「このような玄関先で長々と、申し訳ありません。
どうぞおあがりくださいまし。
なにもございませんが、心ばかりの歓迎の宴を用意してございますのよ。」
そう言ってあたしを促す。
双子も両方から手を取って、あたしを奥の座敷に引っ張っていった。
お屋敷は、襖も障子も開けっ放しで、ものすごく風通しがよかった。
けど、柱は立派で、よく磨かれて黒光りしている。
板張りの廊下も、ぴかぴかに磨き上げられていた。
「毎朝、僕ら、お掃除を頑張っています。」
「姉上様がいつ来られてもいいようにと、母上はいつも言います。」
双子は自慢げに代わる代わる話す。
確かに、調度の類は何にもないけど、手入れはすごく行き届いている。
あばら家呼ばわりして悪かったな、とちょっと思った。
奥の座敷には箱膳が並べてあって、その上に並びきらないお皿が床にまで溢れていた。
「うわ。すご。」
これはまた、標本かなにか、ですか?
お皿の上に少しずつ乗っているのは、木の実や草の実。根っこに蕾。木の皮や種もある。
「いろは様のお得意だったお料理を、当時のまま、そのまま再現してみましたの。」
うふふ、と指先で口元を隠しながら、奥方は伏し目がちに頬を赤らめた。
え?これ、お料理?
なんか、施療院に行ったばかりの頃のご飯を思い出すんですけど。
「母さんって、お料理、できなかったんだ・・・」
「いいえ。
いろは様は、大切なお仔様のことを、それはそれはよく考えていらっしゃいましたわ。
毎日、山に分け入り、森を走り、いろいろな食べ物を集めていらっしゃいましたの。」
確かに、種類だけは、いっぱいある。
あたしはちょっとだけ咳払いして、とりあえず、あたしのために用意された席に座った。
「あの。
花守様から、これを言付かってまいりました。」
そうそう、ちゃんと手土産は渡さないとね。
あたしは花守様に作ってもらった札を出して、教わった通りに解呪した。
すると、ぽんっ、と軽い煙が立って、その場につづらが出現した。
花守様の用意してくれた、施療院の薬の詰め合わせだ。
背負って行ってもいい、って言ったんだけどさ。
花守様は、この間の双子の術を見て、あたしもこのくらいしなきゃ、なんて言って。
けど、練習してもなかなか上手くならなかったもんだから。
わざわざこんな札、用意してくれたんだよね。
「あらあら、これはまあ、なんてたくさん。」
奥方は目を丸くする。
「用法はひとつひとつ、袋に書いてあります。
よかったらお使いください。」
「これは貴重な品を、有難うございます。
花守様にも、よろしくお伝えくださいませ。」
とりあえず、喜んでもらえたみたいで、よかったです。
母さんゆかりのご馳走、のほうは、ちょっとあれだったんだけど。
飲み物として用意してくれた野葡萄の汁は、すっごく美味しかった。
これって、母さんもよく作ってくれてたらしい。
母さんの記憶は封じられていたのに、野葡萄が好きだってのは、変わってなかった。
消されたと思ったものが、実は消えてなかったんだな、ってちょっと嬉しかった。
奥方とまともに話すのって、多分、これが初めてだ。
長い間の非礼を詫びると、奥方は、なにをおっしゃいますか、と手を振って笑ってくれた。
「一番、お辛い思いをなさったのは、楓様ですわ。」
そう言って、また少し、涙ぐむ。
それからあたしの手を取って、じっと顔を覗き込んだ。
「それにしても、いろは様によく似ていらっしゃいます。
本当に、生き写し。
絵姿は、折々、届けていただいておりましたが。
こうして実際にお会いすると、さらに、いろは様の面影を感じますわ。」
あんまり真っ直ぐに見るもんだから、あたしはちょっと照れくさくなって、わざと話しを逸らせた。
「ああ、まあ、父親にはあんまり似てないって、よく言われます。」
あれが父親だってのは、わざわざ言わないと、大抵、誰も気づかない。
当代きっての美丈夫に似なかったなんて残念だななんて、言われたこともあるけど。
あたしとしては、あの父親になんか似なくてよかったと、つくづく思っている。
すると奥方は何か思うところがあるようにあたしに尋ねた。
「藤右衛門様には、もうお会いになりましたか?」
「あ。いや。
あのヒトには、なんか、会い辛いって言うか・・・」
「まあ。
藤右衛門様も、楓様のことはご心配だと思いますよ。
一度、会って差し上げては?」
・・・どうかな。
奥方と違って、藤右衛門は道場にも会いに来てくれたことなんかなかったし。
案外、せいせいした、とか思ってるんじゃないかな。
「病み狐。
藤右衛門様は、陰でそう噂されているそうです。」
奥方は、ぽつりと言った。
「藤右衛門様は、いろは様を亡くされてから、すっかり病んでしまわれた、と。
もちろん、頭領としての職務は立派に果たしておられますけれど。
藤右衛門様の病を癒せるのは、楓様を置いて、他にいらっしゃらないのではありませんか?」
「あのヒト、病気なんですか?」
ちょっと気になって尋ねると、奥方は、申し訳ありません、と下をむいた。
「詳しいことはよく存知ません。
藤右衛門様とは祝言以来、一度もお会いしておりませんから。」
それには流石に呆れた。
「祝言以来一度も?
そんなに帰ってこないんですか?」
「それも、藤右衛門様流のお優しさなのですわ。
早く頭領の座を譲りたかった父は、わたくしを無理やり誰かと娶せようとしたのです。
けれど、わたくしはこの仔たちの父親を待っていたくて。
藤右衛門様は事情を全て分かったうえで、わたくしを娶ってくださいました。
この仔たちの父親が帰ってくれば、いつでも離縁するとおっしゃって。」
へえ。意外だ。
それって、なんか、いいヒトみたいじゃない。
「口さがない方々がいろいろとおっしゃいましたが、藤右衛門様は気にしないとおっしゃって。
誰が何を言おうと、事実は変わらないのだから、と。
もっとも、そのことで楓様を傷つけてしまうことになるとは。
わたくしも、申し訳ないことをしたと、思っておりました。」
ごめんなさい、と奥方はあたしの手を取った。
「この償いはいかようにもさせていただきます。
楓様は、わたくしに、償いの機会を与えてくださいましょうか。」
「いやいや。
償わないといけないのは、むしろあたし、っていうか。
さんざん気持ちを踏みにじってきたんですから。
ごめんなさい、を言わないといけないのは、あたしのほうです。」
あたしがそう言うと、奥方は、また、まあ、と言った。
「そのお優しさは、いろは様に本当に、生き写し。
血は水よりも濃いというのは、紛れもない事実なのですね。」
なんか、母さんに似ているって言われるたびに、妙に嬉しくなってしまう。
「奥方様は、母さんのこと、よく知ってるんですか?」
「ええ、それは。
藤右衛門様の次によく知っているのはわたくしだと、自負しております。
いいえ、事によっては、藤右衛門様よりもよく存知ていることもあるかもしれません。」
途端に奥方は得意げに胸を張った。
「紅いろは様を愛する同好の士の集い。
略して、いろは同好会。
その栄えある会員番号一番は、他ならぬ、このわたくしですもの!」
・・・へえ~・・・そんなのあったんだ・・・
「ちなみに、二番は、この仔たちの父親ですわ。」
え?
「まさか、それが縁だった、とか?」
「ええ。いろは様は、わたくしに生涯の伴侶と、可愛い仔らまで授けてくださいましたの。
本当に、感謝してもしきれません。」
なんとまあ。そんなこともあるもんだねえ・・・
それから奥方は、母さんの使っていたものを納めた蔵を案内してくれた。
奥方は本当に母さんのことをよく知っていて、いろんなことを話してくれた。
記憶を戻してもらったとはいえ、幼かったあたしには、知らなかったこともいっぱいあった。
その夜は、床を並べて、奥方の隣で眠った。
ふたりとも、明かりを消してからも、いつまでもしゃべっていて、結局、寝たのは明け方だった。
翌朝。
またこんなふうに来ると固く約束して、あたしは施療院へと帰った。
こうして、あたしの初めての宿下がりは無事に終わった。




