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卒業といっても、その後もなにか変わるわけではないし、これといって特別な儀式もない。
一応は、あたしがここに来た日のその前日に、あたしの見習い期間は終わることになっていた。
その日の来る少し前、あたしは、初めて宿下がりを願い出た。
郷の仔狐は、道場に通っている間は家から通う仔が多い。
けど、見習いになると、皆、大抵、導師のところに居候になる。
所作や習わし、決まり事。見習いが導師から学ぶことは多い。
衣食住を共にして、あらゆる場面でそれをひとつひとつ教わっていく。
そんな見習いだけど、一年のうち何日かは、宿下がり、と言って、家に帰ることを許される。
数日間、実家に帰って、しばしの骨休めをするわけだ。
けど、あたしは、施療院に来てから一度も、宿下がりを願い出たことはなかった。
帰るったって、藤右衛門の家は、実家とは思えないし。
長く暮らしたのは道場だけど、そっちは用事でしょっちゅう日帰りで行ってたから。
わざわざ、帰る、必要は感じなかった。
けど、今回、わざわざ帰ることにしたのは、奥方にきちんとご挨拶をしようと思ったからだ。
藤右衛門のくれたあの衣はともかく。
奥方のくださった簪は、本当に嬉しかった。
これはなんとしても直接お礼を言わなくちゃと思った。
道場にいたころ、奥方は、何回も、会いに来てくれた。
けど、あたしはいつも、面会は断っていた。
それでもめげずに、奥方は、何回も何回も、来てくれたんだけど。
あたしは、そんな奥方のことを、しつこいヒトだ、くらいに思っていた。
ずいぶん、ひどいことをしてきたなと思う。
いろいろと事情があったのは、奥方もご存知だろうけど。
それにしたって、あのあたしは、あまりにも失礼で、傲慢で、最低だった。
そのことを、きちんと、謝りたい。
それから、仔狐だから、で大目に見てもらってきたことに、ちゃんと、お礼を言いたい。
施療院は、相変わらず忙しい毎日だった。
花の薬は、もうほとんど、あたしひとりで作っていた。
それに、みんなの食事の支度もあった。
状況を考えれば、数日留守にするのは、かなりみんなに迷惑をかけることにもなるんだけど。
何日も何日も考えて、それでも、これだけは、どうしても、と思った。
意を決して、花守様にこの話しを切り出したとき。
あたしは、なんとしてでも、分かってもらえるまで、説得するつもりだった。
なのに、花守様は、けろっと笑って、ああ、いってらっしゃい、といきなり言った。
「わたしも、そうなさいと、あなたに言おうと思ってたんですよ。」
にっこりとそんなことも付け加える。
「え?けど、施療院は・・・」
むしろあたしのほうが心配になったくらいだった。
「大丈夫大丈夫。
薬は作り置きもたくさんありますし。
わたしにだって、作れないわけじゃありませんからね。」
「ご飯の支度は・・・?」
「ああ、それなんですけどね?」
花守様は思い出したように言った。
「退院間近の患者さんのなかから、申し出がありまして。
施療院専属の料理師にならせてもらえないか、って。」
「施療院専属の料理師?」
そんな話しがあったのかと驚いた。
確か、この間から療養している患者さんのなかに、料理師のヒトがいたはずだ。
料理師の導師について料理を習ったヒトで、人間の料理宿で働いていたらしい。
あたしの料理は、道場で作ってたご飯ばっかりで、ちゃんとどこかで習ったものじゃない。
手の込んだ難しい料理なんて到底できないし、適当ないい加減なものも多い。
専属の料理師がいれば、献立も増えて、みんなにもずっとずっと喜ばれるだろう。
「あなたは、こだわって作った厨を、誰かに勝手に触られるのは、嫌かもしれませんが。
あなたの了解さえ得られれば、そうしていただいてもいいんじゃないかと。」
誰かに仕事を譲れば、あたしの居場所はなくなるかもしれない。
今でも、心のどこかに、そういう不安がないわけじゃないけど。
「・・・分かりました・・・」
答えた声が少し震えた。
花守様は、そんなあたしをじっと見つめた。
「楓さん、あなたは施療院にとって、なくてはならないヒトです。」
あたしははっと顔を上げた。
どうして花守様は、あたしが今一番ほしい言葉が分かるんだろう。
「あなたをもっと大切にしろ、って、柊殿にも叱られたんですよ?」
花守様は秘密を打ち明けるように言った。
「あなたは、誰かを喜ばせようとして、自分でも気づかないうちに無理をするヒトだから。
仲間なら、それに気づいて、無理をさせないようにしないといけない、って。
あなたはこの施療院の大切な仲間ですから。」
仲間なんて、そんなふうに言ってもらえるなんて、恐れ多過ぎる。
あたしは身を縮めて花守様を見た。
「あたしは半人前だから、無理してちょうどいいくらいなんです。」
「頑張り屋さんなのは、あなたのいいところだってこと、みんなよく知ってますけど。」
花守様は仔狐にするように手を伸ばしてあたしの頭を撫でた。
「無理をすることと頑張ることは違いますから。
ここが、あなたにとって、無理をしなくても、安心していられる、居心地のいい所であるように。
そういう場所にするのが、これからのわたしの大切なお役目になりますね。」
なんとまあ、もったいないお言葉。
花守様こそ、いつも、誰かの幸せばっかり考えてるヒトだ。
そんなヒトに気にかけてもらえて、本当に、あたしは果報者だ。
花守様は手土産に、薬をいっぱいつめたつづらを用意してくれた。
怪我の薬だけじゃなくて、腹痛や風邪、熱さましに眠り薬。
大きなつづらには、ありとあらゆる不調に効く薬が入っていた。
これって、この間のお返し、ってのもあるのかもしれないけど。
それにしても、店屋が開けそうなくらいの量と種類だ。
怪我した狐以外も診るようになってから、花守様の作る薬も種類が増えた。
一番基本的なのは、あたしが作ってるけど。
それであいた時間を使って、花守様は、さらにいろんな薬を編み出している。
つくづく、一番無理をしてるのは、花守様自身だと思う。
「施療院にたくさんあるものといえば、やはりこれですから。
しかし、戦師の頭領ならば、きっとこれも、お役に立ててくださるでしょう。」
確かに。
花守様の気遣いは流石だ。
花守様や施療院のヒトたちに温かく見送られて、あたしは藤右衛門の家にむかって出発した。




