52
ふぁああああ。
頭の上で、花守様は突然、大きな欠伸をした。
「あ、ごめんなさい。
ほっとしたら、なんだか、眠くなってしまって・・・」
そのまま花守様は、なにかもにゃもにゃ言いながら、ずるずると横になる。
気づいたら、庵の床に丸くなって、すやすやと寝息を立てていた。
突然寝てしまった花守様にあたしはびっくりしたんだけど。
なんだか幸せそうな寝顔だったから、起こすのも悪いような気がした。
まったく、本当に、どこででも寝られるヒトだ。
患者さんたちはもちろん、治療師さんたちも、施療院で寝泊りしているヒトは、割と、多い。
けどみんな、なんとなく、お気に入りの寝床は決まっている。
療養中の患者さんたちにはもちろん、ふかふかに草を積み上げた寝床が用意されている。
治療師さんたちは、みんな自分の寝床は自分で用意している。
草の種類にこだわりのあるヒトもいれば、花を混ぜて、香りにこだわるヒトもいる。
それでも、だいたいいつも、同じところで寝ている。
ところが、花守様だけは、同じ寝床を使わない。
患者さんのいないあいている寝床で寝ているのはまだましなほう。
その辺の草の上で寝ていることも、しょっちゅうだ。
うっかり花守様を蹴とばさないように、みんな足元には注意して歩くようにしている。
寝起きの花守様は、顔に変な痕をつけてることも多い。
それを見るとみんな、また変なところで寝てたんだなと思う。
柊さんとか蕗さんだと、寝てる花守様を発見したら、術で運んだりするんだけど。
花守様ってば、寝起きは恐ろしくいいから、ちょっとでも、何かの気配を感じると起きてしまう。
だから他のヒトには、起こさずに運ぶのは難しい。
もちろん、あたしにも、起こさずに花守様を運ぶなんて芸当はできない。
だから、仕方なく、そのまま床に寝かせておく。
花守様の綺麗な顔に、板敷の床の筋の痕がつきそうだけど。
頭の下に布を敷くだけでも、起こしてしまいそうだ。
と。そのとき。
眠っている花守様が、するするする、と小さくなっていった。
え?と驚いている間に、花守様は、狐の姿になっていた。
これ、幼い仔狐とかだと、よくあるんだけど。
だいたい、道場に入るくらいの年になったら、もう、やらなくなる。
寝ている間に変化が解けて本性を現してしまうことは、ものすごく無様なこととされているからだ。
けど、大怪我をしたり、重い病にかかった狐は、変化を解いて眠るほうがいい。
そのほうが、格段によく休めるからだ。
だから、施療院で療養している患者さんたちは、狐の姿で寝ているヒトも多い。
もっとも、ある程度回復すると、みんなやっぱり、変化して眠るようになる。
本性を晒すって、そのくらい気まずいことだ。
草の上で寝ていても、花守様が狐に戻ってしまったことなんて、一度もない。
これは、よっぽど疲れていたのかな。
どこか具合でも悪いんじゃないかと、ちょっと心配だけど。
あたしには、治療師さんたちみたいに、からだの具合を調べる術は使えないし。
それにさっきまでの花守様は、あたしに意地悪をするくらい元気だった。
とりあえず、しばらく様子をみるか、と思った。
花守様は病に罹ったことがないらしい。
大抵の不調は、寝るか食べるかすると治ってしまうって、前に言ってた。
寝て治るんだったら、今、花守様は、せっせと自分を治している最中なわけだから。
むしろ、静かに寝かせておくのがいいかもしれない。
狐姿になった花守様は、とても小さかった。
これって、仔狐といってもいいくらいだ。
若く見えるなあとは思ってたけど。
狐姿だと、若いを通り越して、いっそ、幼い。
それにしても、花守様の本性は、綺麗な狐だった。
すべすべの純白の毛色は、郷の誰より白い。
白妖狐は、妖力の高いヒトほど、白い毛をしているという。
混じりけのない純白の花守様は、妖力も飛びぬけて高いのだろう。
背中を撫でてみようかと、思わず手を出しかけたけど、起こしてしまいそうだから、ぐっと堪えた。
その代わり、寝顔をしげしげと観察した。
細い流線形の目鼻立ちは、狐になっても、とびきりの美人だ。
うちの父親も、美形だとよく言われるけど、あれとはまた違った種類の美人だと思う。
花守様は綺麗だけど、冷たさを感じない。
もっと優しくて、春の野原みたいな、温かい感じ。
起きてるときに、じっと顔を見たりしたら、どうかしましたか?って尋ねられちゃうけど。
寝てるときなら、見放題。
せっかくだし、この寝顔をもっと見ていようと思った。
「お~い、あの、食器、下げに来たんだけど?」
戸口から声がして、スギナがこっちを覗いた。
あたしは急いでスギナの視線から花守様を隠すように動いた。
「あ。有難う。」
手早く食器をまとめてお盆に載せると、スギナのところへ持って行く。
そのままぐいぐいとお盆でスギナを外に押し出した。
「うん?どうした?」
不思議そうに尋ねるスギナに、しーっ、と指を唇に当てる。
「花守様、寝ちゃったの。
疲れてるみたいだから、少し寝かせておこうと思って。」
「そっか。
花守様、大変だったからなあ。」
スギナはすぐに納得して、静かに庵から離れた。
「もう、三日以上、寝てないんじゃないかな。」
スギナはあたしからお盆を受け取ってくれながら言った。
「三日以上?」
あたしは目を丸くした。
スギナはあっさり頷いた。
「お前、そのくらい、寝てたんだろ?」
「三日三晩、って花守様、言ってた。」
「花守様、その間、一睡もしないで、お前の看病、してたからな。」
スギナはあたしの顔を覗き込むようにして見た。
「お前、具合は?
もう、大丈夫なのか?」
「うん。もうどっこも悪くないよ。
たくさん寝たら、治った。」
「まあ、柊さんも、そう言ってたけどなあ。」
スギナはちょっとため息を吐いた。
「花守様は、大変だったんだぜ?
そりゃあもう、お前のこと、心配してさ。
泉の傍で倒れてるの、見つけたのも、花守様らしいんだけど。
お前のこと、こう、抱きかかえて、目、見開いて、瞬きすら、してなかった、って。」
スギナはそのときの花守様の姿を再現してみせた。
「俺はそれは直接は見てないんだけどさ。
花守様の妖気に中てられたやつら、何人か倒れたんだって。
ちょっと触っただけでびりっとするくらいすごい妖気だった、って。
その力、全開で、お前のこと診てたらしんだけど、それでも、原因が見つからないもんだから。
もっと、もっと、って、妖力、強くして。
これ以上やったら施療院が崩壊する、ってなって、力づくで止められたらしい。
それもさ、柊さんと蕗さんふたりがかりで、やっとだったんだって。」
まさか、あの花守様が?
穏やかで、ちょっとぼんやりで、どこでも寝ちゃう、のんびりしたヒトが?
それはちょっと、あたしには想像もつかない姿だった。
「悪いところはなくても、眠り続けているなら、寝かせておくしかない、って、柊さんが言ってさ。
それなら、って、花守様は、柊さんに、幻術をかけてほしいって頼んだんだ。
自分が治してやれないのは悔しいけど、幻術はやっぱり、柊さんのほうが上手いから、って。
だけど、それ以外は、誰にも手出しさせなかった。
お前の枕許に、ずぅっと、正座してさ。
ずぅっと、看病、してた。
それで、柊さんと蕗さんが、花守様の抱えてた患者を、治療師全員に振り分けたんだ。
どうしても花守様でないとダメな施術以外は、花守様が、ずっとお前の傍にいられるように、って。
助かったのは、この三日間、施術の必要な患者のなかったことだな。
だから、結局、花守様は、一度もお前の傍から離れずにすんだんだ。」
花守様は、代わってもらった、って軽く言ってたけど。
それは、みんなにもずいぶん、迷惑をかけてしまった。
後でちゃんとひとりひとりに謝りにいっとこう。
「花守様ってさ、普段は、いっつも、あわわ、とか、おわわ、とか、言ってるだろ?
それがさ、この三日間、一っ言も口をきかなかったんだ。
俺も、それは見てたから、間違いない。
鬼気迫る顔ってのは、こういうのを言うんだなって、俺、初めて納得した。
なんか、ずっと、思いつめたような目をしてさ。
柊さんは、大丈夫だ、って言ってたけど。
俺は、ちょっと、心配になった。
っても、何が心配かって聞かれると困るんだけど。」
さっきの花守様はいつも通り、あわわ、な花守様だった。
スギナからこんな話しを聞いても、なんだか、信じられない気持ちだ。
もっとも、スギナがこんなこと、嘘つくわけないって、ちゃんと分かってるけど。
そっか。
狐に戻っちゃうくらい疲れてるのも、仕方ないな、って思った。
そんなに、心配、かけちゃってたんだ。
「花守様、ご飯は?食べてた?」
「食べるわけないだろ?
ほんの少しの間でも、お前から目を離したら、お前が消えてしまうって思ってたみたいだからな。
水だけは、柊さんが飲ませてたけどな。」
「・・・そっか。」
スギナはあたしの頭をぽんぽんと叩いた。
「まあ、お前も、あんまり無理するな?
お前になんかあったら、先に、花守様が壊れちまう。」
まったくだ。
あたしはため息を吐いた。
さっき、目が覚めたときの花守様は、ちょっと疲れては見えたけど、いつもの花守様だった。
あわわ、もちゃんと言ってたし。にっこり笑ってた。
あたしに意地悪する元気もあった。
「花守様、ご飯も食べてなかったんだ。」
「だから、さっき、お粥もふたり分、届けただろ?
一緒に食べたんじゃないのか?」
「え?」
あたしは目を見張った。
そういや、さっきお椀を重ねたとき、ふたつ、あったような・・・
急いでたから、あんまり気にしてなかったけど。
ほら、とスギナは手に持ったお盆を見せる。
確かにそこには、ふたり分の食器が載っていた。
だけど、花守様、自分は何も、食べてなかった・・・
「まさか、花守様、全部、あたしに食べさせたんだ?」
「え?お前、あれ全部、ひとりで食ったのか?」
恥ずかしくて、あんまりよく見てなかったし。
ぎゅって目、つぶってたから。
それにしたって、時間かかるな、って思ったんだ。
ふたり分あったんなら、そりゃそうだ。
「まあ、お前も、三日ぶりだもんなあ。
けど、そんなに腹、減ってんなら、念話で言ってくれりゃ、もっと持ってきてやったのに。
花守様の分まで全部、食わなくったって。」
「そんなの分かってるよ!
てか、あたしだって、分かっててふたり分食べたわけじゃ!」
「う、ん???
じゃあ、なんで、花守様の分まで食っちまったんだ?」
ううう。
そんな食い意地張ってるみたいに言われるのは、ものすごーく、心外だけど。
あの状況を説明するのはもっと嫌だから。
あたしは、唸ることしかできなかった。
「まあ、花守様、今寝てんだろ?
目、覚ましたら、また持ってきてやるよ。
あ。
お前も、また食う?」
「・・・いや、いい。」
あたしのこと、どんな大食いだと思ってる?
「そうだ、スギナ!」
あたしは、スギナにもお礼を言わないといけないのを思い出した。
「戻って、ご飯、作ってくれてたんだって?
ごめんね?
有難う。」
「おう。」
スギナはそう言ってから、ちょっと、何か思い出したみたいな顔をした。
「俺もさ、お前が倒れたって聞いたときは、心臓がつぶれるかと思った。
荷物も何も放り出して、一気に走って帰った。
その間中さ、ずっと、お前のこと、心配で。
ずっと、ずっと、後悔してた。
俺、なんで、薬売りなんて引き受けたんだろう、って。
なんで、ずっと、お前の傍にいなかったんだろう、って。
傍にいて、お前のこと、守ってればよかった、って。
お前の顔見るまで、生きた心地、しなかった。」
へへっ、とちょっと笑って、スギナは続けた。
「だから、花守様の気持ち、俺もちょっとは、分かるかな。
けど、眠ってるお前は、そんな俺たちの気持ちなんか知らん顔で、すっごく幸せそうだった。
柊さんの幻術の効果は、俺もよく知ってるけどね。
なんかちょっと、ヒトの気も知らずに、って、思った。」
ったく、心配させやがって、と言って、スギナはあたしの頭を軽く小突いた。
「けどさ、花守様は、俺の何倍も、お前のこと、心配してた。
多分、俺よりずっと、後悔してた。
だからさ、せめて、目を覚ますまで、ついててやれよ。
お前の大事な導師様なんだしさ。
その間、お前の仕事は、俺が代わっといてやる。」
じゃあな、とにかっと笑って、スギナは仕事に戻っていった。
あたしは、有難う、って手を振って、花守様の寝ている庵に戻っていった。




