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そんなこんなで、結局、あたしは花守様のところへ行くことになってしまった。
どっちみち、もうじき道場は卒業する時期だった。
卒業したら、見習い妖狐になって、それぞれの導師について、お役目の手伝いをする。
見習いの期間はヒトによって長い短いはあるけど、だいたい、二三年ってとこで一人前。
一人前になれば、今度はひとりでお役目を果たさなければならない。
あたしもそろそろ導師を探さなきゃなあ、とは思ってたところだった。
けど、先生以外に、導師として尊敬できる妖狐なんかいなかったし。
だから、先生に導師になってもらえたらなあ、なんて、うっすらと思ってた。
そうして、道場の雑用とか、いろいろ手伝って。
いずれは、道場の師範代になれなれたらいいなあ、とか。
実際、師範代たちは、ほとんどが、先生の教え子だったし。
けど、じゃあ、あたしに座学とか妖術とか教えられるのか、って言うと、それはかなり難しい問題だ。
体術とか、仔狐の世話とかなら、いっくらでもいけるけどね。
基本、受け持った仔狐たちは、座学も体術も、全部ひとりの師範代が見るのが普通。
まあさあ、やってみればなんとかなるんじゃないかなあ・・・
なると思うけどなあ・・・
なるに決まってるって。
うん、きっと、大丈夫。
と思ってた矢先だった。
花守様の棲んでいるのは、郷の奥の森だ。
この森は、郷のはじまりになった場所だ、って、伝説で伝えられている。
郷の仔狐たちは、みぃんなその話しを聞かされて大きくなる。
だから、花守様は、郷で一番有名な妖狐だ。
だけど、郷の奥の森なんて、わざわざ行く仔はいなかったし。
行っても面白いものなんてないって、オトナたちからは言い聞かせられてたし。
きっと、確実に、一生、縁なんかないヒトだ、って思ってた。
まさか、伝説の主人公に実際にお仕えするなんて、思いもしなかったんだ。
けど、実際に会ってみると、花守様は、びっくりするくらい、普通の妖狐だった。
その辺歩いてたって、花守様だって、誰も気づかないんじゃないかな。
いやきっと、このヒトなら、知らん顔して、普通にその辺、歩いてるんじゃないかな。
花守様の森へ行く日。
あたしは少ない荷物をまとめて背負うと、先生にお暇を告げた。
先生は思い切り渋い顔をして、うむ、とひとつだけ頷いた。
「先生、フツツカモノですが、長い間、お世話になりました。」
そう言って、あたしは深々と頭を下げた。
「・・・本当に、大丈夫かい?
なんなら、今から行って、断りを入れてきてあげてもいいよ?」
先生はちらりと横目であたしを見て、あれから何度目かのため息を吐いた。
「いえいえ、それには及びません。
それに、あたしからお断りなんて、そんな、もったいない。」
あんなキレイで優しいヒトに導師になってもらえるなんて、またとない機会だと思う。
「けど、花守様に捨てられたら、ここに帰ってきてもいいですか?」
「あのヒトは、お前さんを捨てたりはしませんよ。」
先生はちょっと諦めたような、でも、喜んでもいるような、複雑な顔をして笑った。
それから手を伸ばして、ちいさい仔にするようにあたしの頭をぐりぐりと撫でた。
「お前さんもとうとうここを出ていくのだねえ。」
あたしは黙ってじっと先生の顔を見ていた。
「なんなら、ずっとこのまま、ここにいてもいいって思ったこともあったけど。
ここに引き止めるには、お前さんの持っているものは、大きすぎたのだろうよ。」
いつも叱られてばっかりだった先生は、今日は叱らないけれど、ちょっと淋しそうだった。
「けど、辛くなったら、いつでも帰っておいで。
ここはずっと、お前さんの家だからね。」
先生のその言葉が、あたしはなんだか嬉しかった。
ここにあたしはいつでも帰ってこられるんだ。
そう思っていられたら、きっと、どこに行ったって大丈夫。
あたしは、思い切り力を込めて頷いた。
すると、先生は、あたしの頭を撫でていた手で、いきなりぱしりと軽くはたいた。
「あたっ。」
折角、今日は叱らないと思ったのに。
むぅ、と口を尖らせると、先生は、あはは、と声を出して笑った。
「そんな満面の笑みで頷くもんだから、思わず手が滑ってしまったよ。」
笑ったから叩くなんて、そんなリフジンな。
むぅ、と今度は声に出して抗議すると、先生は、こんなの見たことないくらい優しい顔で笑った。
「元気で。いや、そこは心配いらないか。
けれど、からだにはくれぐれも気を付けて。
お腹出して寝るんじゃないよ?
お風呂の後は、ちゃんと髪を乾かすんだよ?」
小さい仔じゃないんだから・・・
と思ったけど、これって、けっこう、今も普通に先生に叱られている内容だ。
「拾ったものは、口に入れないこと。
雨の日はちゃんと傘をさしなさい。
それから、ええっと・・・」
「ああ、はいはい。」
あたしはくどくどと言い続ける先生を遮った。
「大丈夫ですよ、先生。
じゃ、行ってきます。」
「いやいや、違う。」
背中を向けたあたしの肩を先生はぐいと掴んだ。
けど、そのまま黙り込んでしまう。
あたしが振り向こうとしたら、動かないように抑えられた。
「ここに来てくれて、本当に有難う。
さようなら。お元気で。」
後ろをむいたままのあたしにそう言うと、先生は、そっとあたしの背中を押した。
振り向いてなにか言おうとしたあたしに、先生のちょっと厳しい声がした。
「振り向いてはいけない。
いいから、そのまま行きなさい。」
あたしは、びくっとして、それから、言われた通り、振り返らずに走り出した。
確かめられなかったんだけど。
先生の声には、ちょっとだけ、涙が混じっていた気がする。