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よかったよかった母さん、生きてたんだ!
もうそれしか思わなかった。
また会えると思わなかった。
けど、ずっと会いたかった。
母さんのこと、ずっと思い出せなかったなんて嘘みたいだ。
いくら封印されたからって、あたしが、母さんを思い出せなくなるなんて。
辺りはまだ真っ暗だけど、母さんの周りだけほんのり明るい。
あたしは駆け寄って母さんに抱きついた。
母さんは、あらあら、甘えん坊さんねえ、と言った。
間違いない。母さんの声。母さんの匂い。
あったかくてふっくらした、母さんの手だった。
「母さん、どこ行ってたの?」
あたしは母さんを見上げて尋ねた。
耳に響く自分の声が、少し、高くなった気がした。
「ごめんね、楓。大事なお役目だったのよ。」
母さんはそう言ってあたしをひょいと抱き上げた。
母さんの腕の上に座るようにだっこされると、母さんと目の高さが同じになった。
「母さん、大好き。」
あたしは思わず母さんの首にしがみついた。
辺りは暗いけど、母さんの顔だけ明るく見える。
あたしは、母さんさえ見えていれば、何にも怖くない。
あらあら、楓、苦しいわ、と母さんの笑う声が聞こえた。
「いい子にしていたか、楓?」
後ろから父さんの声がした。
父さんにもちゃんとご挨拶なさい。
いつも母さんにはそう言われていた。
「父さん、おかえりなさい。」
あたしはちらっとだけ振り返って急いで言った。
「どうして、いつまで経っても、わたしには懐いてくれないのかな?」
父さんの小さなため息が聞こえた。
それから、いきなり後ろから脇の下を掴まれた。
冷たくて、指がやたらと細くて長い、父さんの手だった。
「ほら、父さんのところにもおいで。」
「やだ!」
あたしは引きはがされるもんかと、必死になって母さんにしがみついた。
あらあら、と母さんの笑う声が聞こえた。
「藤様、幼子のことですから、あまりご無理になさらず。」
母さんはやんわりとあたしを庇うように、背中に手を回してくれた。
父さんは、むぅ、と唸って、とりあえず、あたしからは手を離した。
「お前様はいいよね、紅葉。いつも楓を独り占めで。」
「そのうちに、楓も、藤様のところへも行くようになりますよ。」
「そのうち、そのうちと、いったいいつになったら来てくれるのかな?」
父さんはもう一度深いため息を吐く。
それに母さんは、明るく笑う。
「そのうちは、そのうちですよ。
心配せずとも、この仔は紛れもなくあなたの血を引く仔なのですから。
きっと、あなたのことは、好きなはずです。」
「お前様がそう言うなら、きっとそれはそうであろ。
なら、わたしは気長に待つしかないか。」
それにつけても 待つ身の辛さ~
と後ろで歌うのが聞こえた。
諦めて去って行く父さんを、あたしは、こっそり覗き見た。
当代一の美丈夫、と呼ばれる父さんは、どうかすると母さんより美人だ。
子どもの目にもそれは分かった。
すっと通った鼻筋。きりりと切れ長の目。透き通るように色白な肌。
唇は薄くて、笑うときにも絶対に歯は見せない。
父さんの微笑は、郷の宝、とまで言われているらしいけど。
そんな父さんは、どこか冷たい感じがして、あたしはちょっと苦手だった。
まあるい目をして、あははと口を開けて笑う、あったかい母さんのほうが、ずっとずっと、好きだった。
父さんが行ってしまうと、母さんはあたしを地面に下ろした。
かさり、と音がして、草の上だ、って思った。
その瞬間、辺りは突然、さーっと明るくなった。
母さんは草の上に腰を下ろしていた。
あたしは母さんの隣に座った。
「大きくなったね、楓。」
母さんは手を伸ばしてあたしの髪をそっと撫でた。
あたしは、母さんに抱っこされてたあたしじゃなくて、今のあたしだった。
母さんの姿は、全然変わってなかったけど、座った目線の高さが、あたしと同じだった。
「大きくなった楓を見られるなんて、とても嬉しい。」
母さんは満面の笑みなのに、目にはちょっと涙が浮かんでいた。
笑顔のままで、母さんはあたしに聞いた。
「もう、好きなヒトはいるの?」
突然、そんなことを尋ねられて、あたしは慌てふためいた。
「え?好きなヒト?あ、いや、それは・・・」
おたおたするあたしに、母さんは、あはは、と笑った。
「ごめんごめん。無理に言わなくていいよ。
ただ、母さんが父さんに出会ったのは、ちょうど今のあなたくらいのときだったから。
仔狐が、一人前になる、そのほんのちょっと手前くらいのとき、っていうかな。」
へえ~、と返すと、とても幸せそうな笑顔になる。
この感じは、よく知っている。
母さんと父さんとの出会いの話しは、もう何べんも、耳にタコができるくらい聞かされたから。
「母さんはね、普通の狐だったの。
それが、あるとき、森で父さんを見かけてね。
こおんなに綺麗なヒトがいるんだ、って。
一目惚れよね。
それから、毎日毎日、ついてまわったの。」
そんな母さんを、父さんは最初は追い払おうとした。
けど、諦めずについてまわったら、そのうち、膝に乗せてくれるくらいになった。
母さんは、父さんのお嫁さんになりたいと、お星様に願い続けた。
そうしたら、いつの間にか、母さんも妖狐になっていた。
そうして、父さんと母さんは夫婦になった。
「けど、父さんって、そんなに綺麗かなあ?
綺麗は綺麗かもしれないけど、あたしは、あんまり好きじゃないなあ。」
母さんの話しを聞きながら、あたしは思わずそんなことを言ってしまった。
母さんは、目を丸くした。
こんなことをあたしが言ったのは、多分、初めてだ。
「お星様にお願いして、妖狐になってでもお嫁さんになりたかった、って。
そうまでした理由って、それだけだったの?
父さんの見た目が綺麗だった、って。」
父さんは、嫌いだ。
けど、どうして、嫌いなんだろう。
冷たい感じは、小さいころから苦手だったけど。
今は、苦手ってより、もっと、はっきりと、嫌い、だ。
母さんのことは大好き。
そして、母さんは、父さんのことを、こんなふうに笑って話す。
母さんは父さんのことを、本当に好きなんだと思う。
父さんのことを大好きな母さんは、今、ちゃんと、ここにいる。
なのに、どうして、あたしは、父さんのことを、こんなに、憎んで、いるんだろう?
「楓。」
母さんに名前を呼ばれて、あたしは振り返った。
「大きくなったんだね、楓。」
さっきと同じことを母さんはもう一度言った。
「楓とこんな話しができるようになれて、嬉しいなあ。」
どんな話し?
聞き返す前に母さんは言った。
「父さんが綺麗なのは、見た目だけじゃないのよ?
けど、そうね。
確かに、父さんの見た目はとっても綺麗。
だから、それだけじゃないってこと、かえって分かりにくいのかも。
だけど、父さんと母さんは、ずっと長い時間一緒にいたし。
その間には、いろんなこと、あったもの。
母さんが父さんの好きなところの話しをしていたら、きっと、楓の一生、かかっちゃう。
だって、その間にも、好きなところは、どんどん、どんどん、増えていくだろうし。」
増えていく?
そんなわけない。
だって、だって、もう、母さんは・・・
突然、火柱が上がる。
危ない、という声がして、あたしは誰かに抱きかかえられる。
けど、その幻は、ほんの一瞬で消えた。
気が付くと、呼吸が荒くなっていた。
どきどき、どきどきと、鼓動も速い。
母さんは、なに?
今、あたし、何を考えた?
い、やだ・・・
嫌だ。
思い出したくない!
せっかく、母さんは、今ここにいるんだから。
せっかく、母さんと、またこうして会えたんだから。
「だからね。楓。」
母さんに名前を呼ばれて、我に返る。
ああ、よかった。母さんはまだ、ここにいる。
お願いだから、ずっと、ここにいて・・・
このまま、何も変わらずにいてほしい・・・
「今度会うときまでに、楓が考えて?
母さんは、父さんの、いったいどこを、好きになったのか。」
「そんなの!分かるわけないよ!」
その言葉を、すごく強く言ってしまって。
あ、しまった、って思った。
母さんを驚かせてしまったかも。
けど、母さんは、にっこりと微笑んだ。
「分かるよ。
だって、楓は、父さんと母さんの、大事な大事な娘だもの。」
「それは、違う。
父さんにとって、あたしは、大事な娘なんかじゃない。
大事な母さんを殺した・・・」
ああ、そうだ。
カアサンヲコロシタ・・・
あたしは、母さんを、殺した!
とうとう、あたしは、言ってしまった。
その途端に、目の前の母さんの姿は、さらさらと砂のように崩れ始めた。
しまった。
思い出したくなんかなかった。
そうすれば、もっとずっと長く、母さんといられたのに。
だけど、あたしはそれをちゃんと分かっていたんだ。
あたしは、母さんを引き留めようと、手を伸ばす。
砂の欠片を、できるだけたくさん集めようと、胸に抱きしめる。
けど、それは、小さな光の粒になって、消えてしまう。
母さんさえいれば。
あたしには他にはなんにもいらないのに。
申し訳ありません、藤様。
わたしには、楓を導いてやることはできません。
この仔は、わたしには過ぎた仔なのです。
真夜中に、うっかり聞いてしまった母さんの声。
母さんは、泣いていた。
お願い、母さん、あたしを捨てないで。
この仔はまだ幼い。
もうしばしの間、このままにしよう。
力を封じ、普通の狐にするにしても、今はまだ、可哀そうだ。
いいえ、なるべく早く、封じてほしい。
そうすれば、
そうすれば・・・
父さんは母さんを失わずにすんだ。
母さんは父さんを失わずにすんだ。
ごめんね、楓。
母さんは、普通の狐だったから。
生まれつきの妖狐じゃなかったから。
あたしだって、普通の狐がよかった。
妖狐になんか生まれたくなかった。
もっとずっと、母さんといたかった。
こんな力、いらない。
妖力なんて、いらない。
こんな力があるから、母さんは、あたしのことをいらなくなる・・・
ごめんな、楓。
もっと早く、わたしがお前を導くべきだったんだ。
嫌われても、疎まれても、そうするべきだった。
わたしは、お前に、妖狐の血を分けてしまった父親なのに。
こんな力、いらない。
妖狐なんて、大嫌い。
普通の狐に生まれてくればよかった。
父さんなんて、大嫌い。
たくさんの後悔と、たくさんの涙。
あたしはそれに溺れそうになる。
このまま息が止まるなら、それも仕方ないかと思う。
もういいよ。
楽になりたい。
母さんに捨てられて、父さんに捨てられて、あたしはいらない仔なんだから。
火柱が立ち上る。
ああ、そうだよ。
本当は、ずっと、やってみたかったんだ。
狐火って、面倒くさい。
ゆっくりなんて、やってらんない。
からだの内側は、いっつもいっつも、むずむずしてた。
解放されたいって、ちろちろと、蛇みたいに、あたしの隙間から、舌を出してた。
もういいよ。
全部、燃やしちゃえ。
あたしごと、全部、消えてしまえ。
「楓!」
そのとき、はっきり聞こえた。母さんの声。
「楓!」
父さんも呼んでいる。
見上げると、ふたつの手が、こっちに伸びてきた。
母さんの、ふっくら丸い手と。父さんの、冷たくて大きな手。
「楓!!」
ふたりの声が同時に重なって。
燃え盛る炎のなか、あたしは両手を伸ばして、ふたつの手を掴んだ。
ぐい、と引っ張り上げられた。
ぐん、と空が近くなった。
青い青い。どこまでも清んだ空。
明るい草原に、あたしはいた。
「そうれ!」
父さんと母さんは、力を合わせて、あたしを大きく引き上げる。
目の前は、大きな大きな空だけになる。
ぐんぐん、ぐんぐん、空が近づいてくる。
いや、まだまだ。もっと。もっと。
「そうだよ、楓。それでいい。」
「すごいわ、楓。上手上手。」
父さんと母さんの笑い声。
それが、うんと下から聞こえて、あたしは、はっとして見下ろした。
父さんと母さんがいた。
砂になって消えたりせずに。
にこにこと、あたしにむかって、手を振っていた。
あたしは風のなかにいて、とても自由だった。
「楓。お前は、風の仔だから。」
「あなたには、なにより、風が似合う。」
ああ、そっか。
最初から、こうすればよかったんだ。
風になる。
それって、こんなに簡単。
蛇みたいだったあたしの力は、風になって吹き渡る。
もうちろちろと舌を出しもしないし、暴れようともしない。
風になったあたしは、自由に駆ける。
父さんと母さんの間をわざと吹き抜ける。
父さんと母さんは、わあ、とびっくりした声を上げて、それから笑う。
あははと、明るく笑う母さんの声。
それから、なんとあの父さんも、口を開けて、声を立てて、笑っている。
なんだ、簡単だったんだ。
ほっぺたが少し冷たい。
けど、溢れた涙は、すぐに風が乾かしてしまう。
あたしは楽しくてただ楽しくて、ずぅっとずっと笑っている。
むこうの丘。
それを越えたところに、あたしを待つヒトがいる。
そのヒトのところに行かないとと思うけど、でも、行きたくないとも思う。
せっかく、母さんが笑っているから。
せっかく、父さんも笑っているから。
もうずっと、このまま、ここにいてもいい・・・
「行きなさい、楓。」
「行っておいで、楓。」
なのに、ふたりは、まるであたしの気持ちを見透かしたように、そう叫ぶ。
「あなたを待つヒトの許へ。」
「お前を必要としてくれるヒトのところへ。」
あたしは父さん母さんを振り返ってじっと見る。
父さんは、あたしを待ってない?
母さんは、あたしが必要じゃない?
「そんなわけないでしょ。」
「いつでもここに、帰っておいで。」
ふたりとも笑って言った。
あ。そっか。
あたしはいつでも、帰ってきて、いいんだ。
けど、今は、待っててくれるヒトがいるから。
「いってきます!」
あたしは胸の底から息を吐いて、そう告げた。




