表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花恋物語  作者: 村野夜市
49/164

49

よかったよかった母さん、生きてたんだ!


もうそれしか思わなかった。

また会えると思わなかった。

けど、ずっと会いたかった。


母さんのこと、ずっと思い出せなかったなんて嘘みたいだ。

いくら封印されたからって、あたしが、母さんを思い出せなくなるなんて。


辺りはまだ真っ暗だけど、母さんの周りだけほんのり明るい。


あたしは駆け寄って母さんに抱きついた。

母さんは、あらあら、甘えん坊さんねえ、と言った。

間違いない。母さんの声。母さんの匂い。

あったかくてふっくらした、母さんの手だった。


「母さん、どこ行ってたの?」


あたしは母さんを見上げて尋ねた。

耳に響く自分の声が、少し、高くなった気がした。


「ごめんね、楓。大事なお役目だったのよ。」


母さんはそう言ってあたしをひょいと抱き上げた。

母さんの腕の上に座るようにだっこされると、母さんと目の高さが同じになった。


「母さん、大好き。」


あたしは思わず母さんの首にしがみついた。

辺りは暗いけど、母さんの顔だけ明るく見える。

あたしは、母さんさえ見えていれば、何にも怖くない。

あらあら、楓、苦しいわ、と母さんの笑う声が聞こえた。


「いい子にしていたか、楓?」


後ろから父さんの声がした。

父さんにもちゃんとご挨拶なさい。

いつも母さんにはそう言われていた。


「父さん、おかえりなさい。」


あたしはちらっとだけ振り返って急いで言った。


「どうして、いつまで経っても、わたしには懐いてくれないのかな?」


父さんの小さなため息が聞こえた。

それから、いきなり後ろから脇の下を掴まれた。

冷たくて、指がやたらと細くて長い、父さんの手だった。


「ほら、父さんのところにもおいで。」


「やだ!」


あたしは引きはがされるもんかと、必死になって母さんにしがみついた。

あらあら、と母さんの笑う声が聞こえた。


「藤様、幼子のことですから、あまりご無理になさらず。」


母さんはやんわりとあたしを庇うように、背中に手を回してくれた。

父さんは、むぅ、と唸って、とりあえず、あたしからは手を離した。


「お前様はいいよね、紅葉。いつも楓を独り占めで。」


「そのうちに、楓も、藤様のところへも行くようになりますよ。」


「そのうち、そのうちと、いったいいつになったら来てくれるのかな?」


父さんはもう一度深いため息を吐く。

それに母さんは、明るく笑う。


「そのうちは、そのうちですよ。

 心配せずとも、この仔は紛れもなくあなたの血を引く仔なのですから。

 きっと、あなたのことは、好きなはずです。」


「お前様がそう言うなら、きっとそれはそうであろ。

 なら、わたしは気長に待つしかないか。」


それにつけても 待つ身の辛さ~


と後ろで歌うのが聞こえた。


諦めて去って行く父さんを、あたしは、こっそり覗き見た。


当代一の美丈夫、と呼ばれる父さんは、どうかすると母さんより美人だ。

子どもの目にもそれは分かった。

すっと通った鼻筋。きりりと切れ長の目。透き通るように色白な肌。

唇は薄くて、笑うときにも絶対に歯は見せない。

父さんの微笑は、郷の宝、とまで言われているらしいけど。

そんな父さんは、どこか冷たい感じがして、あたしはちょっと苦手だった。

まあるい目をして、あははと口を開けて笑う、あったかい母さんのほうが、ずっとずっと、好きだった。


父さんが行ってしまうと、母さんはあたしを地面に下ろした。

かさり、と音がして、草の上だ、って思った。

その瞬間、辺りは突然、さーっと明るくなった。


母さんは草の上に腰を下ろしていた。

あたしは母さんの隣に座った。


「大きくなったね、楓。」


母さんは手を伸ばしてあたしの髪をそっと撫でた。

あたしは、母さんに抱っこされてたあたしじゃなくて、今のあたしだった。

母さんの姿は、全然変わってなかったけど、座った目線の高さが、あたしと同じだった。


「大きくなった楓を見られるなんて、とても嬉しい。」


母さんは満面の笑みなのに、目にはちょっと涙が浮かんでいた。

笑顔のままで、母さんはあたしに聞いた。


「もう、好きなヒトはいるの?」


突然、そんなことを尋ねられて、あたしは慌てふためいた。


「え?好きなヒト?あ、いや、それは・・・」


おたおたするあたしに、母さんは、あはは、と笑った。


「ごめんごめん。無理に言わなくていいよ。

 ただ、母さんが父さんに出会ったのは、ちょうど今のあなたくらいのときだったから。

 仔狐が、一人前になる、そのほんのちょっと手前くらいのとき、っていうかな。」


へえ~、と返すと、とても幸せそうな笑顔になる。


この感じは、よく知っている。

母さんと父さんとの出会いの話しは、もう何べんも、耳にタコができるくらい聞かされたから。


「母さんはね、普通の狐だったの。

 それが、あるとき、森で父さんを見かけてね。

 こおんなに綺麗なヒトがいるんだ、って。

 一目惚れよね。

 それから、毎日毎日、ついてまわったの。」


そんな母さんを、父さんは最初は追い払おうとした。

けど、諦めずについてまわったら、そのうち、膝に乗せてくれるくらいになった。


母さんは、父さんのお嫁さんになりたいと、お星様に願い続けた。

そうしたら、いつの間にか、母さんも妖狐になっていた。


そうして、父さんと母さんは夫婦になった。


「けど、父さんって、そんなに綺麗かなあ?

 綺麗は綺麗かもしれないけど、あたしは、あんまり好きじゃないなあ。」


母さんの話しを聞きながら、あたしは思わずそんなことを言ってしまった。

母さんは、目を丸くした。

こんなことをあたしが言ったのは、多分、初めてだ。


「お星様にお願いして、妖狐になってでもお嫁さんになりたかった、って。

 そうまでした理由って、それだけだったの?

 父さんの見た目が綺麗だった、って。」


父さんは、嫌いだ。

けど、どうして、嫌いなんだろう。

冷たい感じは、小さいころから苦手だったけど。

今は、苦手ってより、もっと、はっきりと、嫌い、だ。


母さんのことは大好き。

そして、母さんは、父さんのことを、こんなふうに笑って話す。

母さんは父さんのことを、本当に好きなんだと思う。

父さんのことを大好きな母さんは、今、ちゃんと、ここにいる。


なのに、どうして、あたしは、父さんのことを、こんなに、憎んで、いるんだろう?


「楓。」


母さんに名前を呼ばれて、あたしは振り返った。


「大きくなったんだね、楓。」


さっきと同じことを母さんはもう一度言った。


「楓とこんな話しができるようになれて、嬉しいなあ。」


どんな話し?

聞き返す前に母さんは言った。


「父さんが綺麗なのは、見た目だけじゃないのよ?

 けど、そうね。

 確かに、父さんの見た目はとっても綺麗。

 だから、それだけじゃないってこと、かえって分かりにくいのかも。

 だけど、父さんと母さんは、ずっと長い時間一緒にいたし。

 その間には、いろんなこと、あったもの。

 母さんが父さんの好きなところの話しをしていたら、きっと、楓の一生、かかっちゃう。

 だって、その間にも、好きなところは、どんどん、どんどん、増えていくだろうし。」


増えていく?

そんなわけない。

だって、だって、もう、母さんは・・・


突然、火柱が上がる。

危ない、という声がして、あたしは誰かに抱きかかえられる。

けど、その幻は、ほんの一瞬で消えた。


気が付くと、呼吸が荒くなっていた。

どきどき、どきどきと、鼓動も速い。


母さんは、なに?

今、あたし、何を考えた?


い、やだ・・・

嫌だ。

思い出したくない!


せっかく、母さんは、今ここにいるんだから。

せっかく、母さんと、またこうして会えたんだから。


「だからね。楓。」


母さんに名前を呼ばれて、我に返る。

ああ、よかった。母さんはまだ、ここにいる。


お願いだから、ずっと、ここにいて・・・

このまま、何も変わらずにいてほしい・・・


「今度会うときまでに、楓が考えて?

 母さんは、父さんの、いったいどこを、好きになったのか。」


「そんなの!分かるわけないよ!」


その言葉を、すごく強く言ってしまって。

あ、しまった、って思った。

母さんを驚かせてしまったかも。

けど、母さんは、にっこりと微笑んだ。


「分かるよ。

 だって、楓は、父さんと母さんの、大事な大事な娘だもの。」


「それは、違う。

 父さんにとって、あたしは、大事な娘なんかじゃない。

 大事な母さんを殺した・・・」


ああ、そうだ。

カアサンヲコロシタ・・・

あたしは、母さんを、殺した!


とうとう、あたしは、言ってしまった。


その途端に、目の前の母さんの姿は、さらさらと砂のように崩れ始めた。

しまった。

思い出したくなんかなかった。

そうすれば、もっとずっと長く、母さんといられたのに。

だけど、あたしはそれをちゃんと分かっていたんだ。


あたしは、母さんを引き留めようと、手を伸ばす。

砂の欠片を、できるだけたくさん集めようと、胸に抱きしめる。

けど、それは、小さな光の粒になって、消えてしまう。


母さんさえいれば。

あたしには他にはなんにもいらないのに。


申し訳ありません、藤様。

わたしには、楓を導いてやることはできません。

この仔は、わたしには過ぎた仔なのです。


真夜中に、うっかり聞いてしまった母さんの声。

母さんは、泣いていた。


お願い、母さん、あたしを捨てないで。


この仔はまだ幼い。

もうしばしの間、このままにしよう。

力を封じ、普通の狐にするにしても、今はまだ、可哀そうだ。


いいえ、なるべく早く、封じてほしい。

そうすれば、

そうすれば・・・


父さんは母さんを失わずにすんだ。

母さんは父さんを失わずにすんだ。


ごめんね、楓。

母さんは、普通の狐だったから。

生まれつきの妖狐じゃなかったから。


あたしだって、普通の狐がよかった。

妖狐になんか生まれたくなかった。

もっとずっと、母さんといたかった。


こんな力、いらない。

妖力なんて、いらない。

こんな力があるから、母さんは、あたしのことをいらなくなる・・・


ごめんな、楓。

もっと早く、わたしがお前を導くべきだったんだ。

嫌われても、疎まれても、そうするべきだった。

わたしは、お前に、妖狐の血を分けてしまった父親なのに。


こんな力、いらない。

妖狐なんて、大嫌い。

普通の狐に生まれてくればよかった。


父さんなんて、大嫌い。


たくさんの後悔と、たくさんの涙。

あたしはそれに溺れそうになる。

このまま息が止まるなら、それも仕方ないかと思う。


もういいよ。

楽になりたい。


母さんに捨てられて、父さんに捨てられて、あたしはいらない仔なんだから。


火柱が立ち上る。

ああ、そうだよ。

本当は、ずっと、やってみたかったんだ。


狐火って、面倒くさい。

ゆっくりなんて、やってらんない。


からだの内側は、いっつもいっつも、むずむずしてた。

解放されたいって、ちろちろと、蛇みたいに、あたしの隙間から、舌を出してた。


もういいよ。

全部、燃やしちゃえ。

あたしごと、全部、消えてしまえ。


「楓!」


そのとき、はっきり聞こえた。母さんの声。


「楓!」


父さんも呼んでいる。


見上げると、ふたつの手が、こっちに伸びてきた。

母さんの、ふっくら丸い手と。父さんの、冷たくて大きな手。


「楓!!」


ふたりの声が同時に重なって。


燃え盛る炎のなか、あたしは両手を伸ばして、ふたつの手を掴んだ。


ぐい、と引っ張り上げられた。


ぐん、と空が近くなった。

青い青い。どこまでも清んだ空。

明るい草原に、あたしはいた。


「そうれ!」


父さんと母さんは、力を合わせて、あたしを大きく引き上げる。

目の前は、大きな大きな空だけになる。

ぐんぐん、ぐんぐん、空が近づいてくる。

いや、まだまだ。もっと。もっと。


「そうだよ、楓。それでいい。」


「すごいわ、楓。上手上手。」


父さんと母さんの笑い声。

それが、うんと下から聞こえて、あたしは、はっとして見下ろした。


父さんと母さんがいた。

砂になって消えたりせずに。

にこにこと、あたしにむかって、手を振っていた。


あたしは風のなかにいて、とても自由だった。


「楓。お前は、風の仔だから。」


「あなたには、なにより、風が似合う。」


ああ、そっか。

最初から、こうすればよかったんだ。

風になる。

それって、こんなに簡単。


蛇みたいだったあたしの力は、風になって吹き渡る。

もうちろちろと舌を出しもしないし、暴れようともしない。


風になったあたしは、自由に駆ける。

父さんと母さんの間をわざと吹き抜ける。


父さんと母さんは、わあ、とびっくりした声を上げて、それから笑う。

あははと、明るく笑う母さんの声。

それから、なんとあの父さんも、口を開けて、声を立てて、笑っている。


なんだ、簡単だったんだ。


ほっぺたが少し冷たい。

けど、溢れた涙は、すぐに風が乾かしてしまう。

あたしは楽しくてただ楽しくて、ずぅっとずっと笑っている。


むこうの丘。

それを越えたところに、あたしを待つヒトがいる。

そのヒトのところに行かないとと思うけど、でも、行きたくないとも思う。


せっかく、母さんが笑っているから。

せっかく、父さんも笑っているから。

もうずっと、このまま、ここにいてもいい・・・


「行きなさい、楓。」


「行っておいで、楓。」


なのに、ふたりは、まるであたしの気持ちを見透かしたように、そう叫ぶ。


「あなたを待つヒトの許へ。」


「お前を必要としてくれるヒトのところへ。」


あたしは父さん母さんを振り返ってじっと見る。

父さんは、あたしを待ってない?

母さんは、あたしが必要じゃない?


「そんなわけないでしょ。」


「いつでもここに、帰っておいで。」


ふたりとも笑って言った。


あ。そっか。

あたしはいつでも、帰ってきて、いいんだ。


けど、今は、待っててくれるヒトがいるから。


「いってきます!」


あたしは胸の底から息を吐いて、そう告げた。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ