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後ろ手に障子を閉めた先生は、突っ立っているあたしに、そこへ座りなさいと手で示した。
あたしは言われるままに恐る恐るそこへ腰を下ろした。
「あ。ああ、え、っと・・・
いらっしゃいませ。
そ!・・・そ?・・・お茶ですが、どうぞ。」
あたしは先生に習った挨拶を必死に思い出して挨拶をした。
「粗茶、でしょう?」
隣でちょっと嫌な顔をして先生がつぶやく。
あたしはあわてて言い直す。
「そ、ソチャ、です。ソチャ。
ソチャ、どうぞ。」
ぺこり、と頭を下げたら、あああああ、と花守様が叫んだ。
「すみません。わたしったら、これ、持ったままでした。
お返ししないといけなかったのですね?」
花守様が返そうとしたお盆の前に、あたしはぴたりと掌を立てた。
「あ。いえ。それ、どうせ、お客さんに出すやつですから。
ソチャ、どうぞ。」
「・・・本当に、これでよろしいのですか?花守様?」
さっきから何回目か同じことを先生が尋ねた。
花守様は、お盆をどうしたものかちょっと迷うようにしてから、そのまま畳に置いて、にっこり頷いた。
「もちろんです。
明るくて元気で、いいお嬢さんではないですか。
わたしのお役目には、楓さんのような方が必要なのです。」
眩しいくらいの笑顔をこっちに向けてそんなことを言う。
朋輩たちにも先生にも、いっつも問題児扱いされてるあたしは、花守様の台詞にくらくらした。
「っそ、そんなこと言われたの、生まれて初めて、かもしれません。」
お礼をするように頭を下げたら、花守様は、まあ、と目を丸くした。
「楓さんの周りにいらっしゃる方々は、きっと、皆さん、照れ屋さんなのでしょう。
愛らしい方に愛らしいと面と向かって言うのは、とても勇気のいることなのですよ。」
「あ?アイラシイ・・・?」
そんな言葉、あたしの辞書にはなかった。
折角だから、急いで書き込んだ。
花守様は、にこにことおっしゃった。
「ペンペンはね、あなたのことが可愛いものだから、心配で仕方ないのです。
できることなら、手元から離したくないのでしょう。
けれど、わたしはどうしても、あなたに森に来ていただきたくて。」
「ペンペン?」
最初のそこが気になったあたしは、それ以降の言葉はまったく耳に入っていなかった。
「花守様。その呼び方はやめてくださいと、何度お願いしたら・・・」
隣で先生が渋い顔をして言った。
慌ててそっちを振り返ったら、先生はちょっと赤くなって目をそらせた。
「えっ?ペンペンって、薺先生のことなんですか?」
花守様は、にっこり微笑んだだけで、はいともいいえとも言わなかった。
けど、この流れなら、絶対そうだよな。
「失礼、薺殿。
あなたのことは、ついつい、いつまでも仔狐扱いをしてしまいます。
年寄りの悪い癖だと、見逃してください。」
花守様は先生にむかって言った。
え?先生のこと、今、仔狐、とか言った?
先生は、むぅ、と唸った。
「花守様。幼いころあなたに受けた恩は、生涯忘れないと誓っています。
今更、ぺんぺん呼ばわりされるくらいどうということはありませんが。
生徒の前では、その、控えていただけると・・・」
花守様は、あ、と小さく声を漏らした。
「もちろんです。
今のはわたしの過ちでした。
ね?楓さん。
どうか、わたしを助けると思って、今のは忘れていただけませんか?」
こっちをむいた花守様は、いたずらを相談する仔狐のように、にこっと笑って小首を傾げる。
あたしは胸がどきんとした。
「わっ、分かりましたあ!
あたし、忘れるのは得意中の得意ですっ!」
張り切って返事したら、先生は苦い顔をして、花守様は嬉しそうに頷いた。
「あなたは明るくて、ほんとうに、気持ちのいいお嬢さんですね。
それに、ほら、これを見てください。」
花守様はそう言うと、畳に置いたお盆を指差した。
「あの危機的状況で、このお茶は一滴も零れていません。
楓さんの身体能力は、驚異的な素晴らしさです。」
花守様の指し示した湯飲みを、先生とあたしは思わず同時に覗き込んだ。
確かに、お茶は零れてはいなかった。
「いやでもあれは、花守様が助けてくれたから・・・」
あのままだったら、突き当りの壁に激突するか、耐えきれなくなって派手にすっころぶか。
そのどっちかになれば、お茶を零さないどころの話しじゃない。
派手にお茶碗を割って、先生にまた大目玉を食らうところだった。
あのとき、突然いい匂いがして、ふわりとからだが浮いた。
あれは花守様の妖術だと思う。
妖術には、みんな、それを使った狐の妖力の残り香、みたいなものがある。
あの花の匂いは、今目の前にいるこの花守様に、すっごく似つかわしかった。
花守様はにこにこと、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ。
全力で走りながら、手に持ったお盆のお茶を一滴も零さないのは、立派なあなたの能力ですよ。
それをもっと大事になさい。」
お茶零さないのが、立派な能力?
それだったら、世の中、立派な能力だらけだと思うけど。
でも、折角褒めてもらったみたいだから、ここはお礼、言っとこう。
「あ。それは、有難うございます。」
「そんなふうに素直なのも、あなたのいいところだと思いますよ。」
頭を下げた姿勢で、あたしはちょっと凍り付いた。
顔がかあっと熱くなる。
こんなふうに、次から次へとほめてもらうと、なんだか、ちょっと、むずむずする。
「・・・花守様、あまりそうおだてると、調子に乗りますから。」
隣で先生がため息を吐くのが聞こえる。
そりゃそうだと、あたしも思う。
「調子に乗る、おおいに結構。
是非、いい調子に乗ってくださいね?」
花守様は、どんと構えておっしゃった。
もしかして、このヒト、この世で最強、かもしんない。