39
どこかで、朝を告げる鳥が鳴いた。
その途端、精霊たちは一斉に姿を消した。
はっとして顔を上げると、いつの間にか辺りは白々と、夜明けが近づいていた。
両手を掴んでいた精霊だけ、まだそこに残っていた。
そうして、あたしを見上げて代わる代わる言った。
「祭りのあくる朝、陽の気の極まったお日様の光には、すべての真実が暴かれる。」
「嘘も幻も、その光のなかには存在できず、本当の姿が現れる。」
「今日は、一年で一番、影の短い日。」
「今日の日の出は、格別の力を宿す。」
そのときだった。
はじまりの山吹の木のむこうから、朝の最初の光が差した。
光に目を射抜かれて、あたしは思わず顔を逸らせた。
それ以外のことは、何もできなかった。
両手は掴まれていて動かせない。
こんな小さな精霊なのに、振り払うこともできない。
足もその場に根が生えたように、びくともしなかった。
目を開くと、青い光の残像が見えた。
ゆらゆらと、それはヒトの形を取った。
「花守様?」
眩しい光のなかに現れたのは、花守様の姿だった。
花守様は、とっておきのよそいきのような、純白の衣に身を包んでいた。
いつもとは何か様子が違う。
そう思ったのは、何故だろう。
ああ、そうか。
花守様が、笑っていないんだ。
いつも、どんなときも、その頬に浮かぶ微笑みが、今はまったくなかった。
怖いくらいの無表情で、花守様は、ゆっくりと、その瞳を開いた。
つっ、と花守様の瞳孔が縦にすぼまった。
初めて、花守様を怖いと感じた。
「わたしを、殺しなさい。」
山吹色の瞳であたしを見据えて、花守様は淡々と言った。
なんの悪い冗談だろうと、あたしは思った。
けれど、花守様の顔は、冗談を言っているようにはとても見えなかった。
「そのために、あなたをここへ連れてきたのだから。」
なにを言っているのか、さっぱり分からない。
言葉の意味は分かるのに、その内容はまったくあたしのなかには入ってこなかった。
あたしはただ、ゆっくりと瞬きをしながら、、花守様を見つめていた。
「わたしはどんな患者でも治せるというのは、嘘です。
わたしにも、治せなかった患者がいた。
この命に代えても治してみせると、わたしは約束しました。
けれど、その約束は果たせなかった。
だから、あなたには、この命を奪う、権利があります。」
その先を聞きたくない。
強く、そう思った。
耳を塞ぎたかったけれど、手は動かせない。
大声をあげて遮ろうとしたけれど、声も出せなかった。
「あのときは、あなたに命を差し出せなかったけれど。
今はもう、違います。
さあ、わたしを殺しなさい。」
花守様は、あたしの前で両腕を開いた。
いつの間にか両腕を捕らえていた精霊は姿を消していた。
あたしの両手は自由になって、小さな刀を一本、握っていた。
あたしは呆然として、手元の刀と目の前の花守様を見比べる。
花守様は、からだの急所をすべて晒して、あたしの前に立っていた。
そのとき、ゆっくりと上ってきたお日様が、その姿を全部、地上に現した。
眩しくて強くて温かな光に、あたしの全身が包まれる。
からだに・・・
熱が・・・
満ちる・・・
封じ込められていた何かは、あたしのなかで膨れ上がり、枷を吹き飛ばした。
ゆっくり、ゆっくりと、それは戻ってきた。
あたしを見下ろしている母さんの笑顔。
反対側に父さんも笑っている。
あたしはふたりに手を引っ張ってもらって、高く、高く、持ち上げられる。
楽しくて楽しくて、あたしも、全身で笑った・・・
そうそう、ゆっくりゆっくり。
父さんの声がする。
焦らなくていいの。ゆっくりでいいから。
母さんの声もする。
その瞬間、目の前で、ぼうっと立ち上る火柱。
危ない!と言う声がして誰かに抱きかかえられて。
あとはもう、分からない・・・
母さんはね、普通の狐だったの。
それが、あるとき、森で父さんを見かけてね。
こおんなに綺麗なヒトがいるんだ、って。
一目惚れよね。
それから、毎日毎日、ついてまわったの。
父さんは最初、母さんのこと、追い払おうとしたんだけど。
追い払われても追い払われても、母さんがついてくるもんだから。
そのうち、呆れて、ついてきても知らん顔をするようになったの。
それどころか、おいで、って、手を伸ばしてくれてね。
座った膝に乗ったら、よしよし、って背中、撫でてくれた。
そのとき、母さんは、このヒトのお嫁さんになる、って決めたのよ。
妖狐には、いつの間にか、なってた。
多分、父さんのお嫁さんになりたい、ってずっと強く、願ってたからかな。
毎晩、毎晩、お星様にお願いしたもの。
念願叶って、父さんのお嫁さんになって。
楓っていう可愛い娘も生まれて。
母さんは、幸せ。
とっても、幸せ。
でも、ごめんね。
楓には、ごめんね。
こんな母さんから生まれたから、楓はいらない苦労をしているのよね。
母さんは望んで妖狐になったけど。
楓は、望んで、母さんの娘に生まれてきたわけじゃないのに。
楓の妖力はね、強すぎるんだ、って。
本当なら、妖狐は生まれたときから、妖力の制御を母さん狐から習うんだけど。
けど、母さんは、楓にどう教えていいか分からない。
ごめんね。母さんは、普通の狐だったから。
生まれつきの妖狐じゃなかったから。
どうして妖力を封じておかなかったんだ。
こんな強い妖力、半妖の身には、堪えきれなかろう。
さっさと封じておけばよかったのに。
そうだ、封じればよかったんだ。
何もかも封じて、いっそ、普通の狐に戻してしまえばよかった。
あたしは、妖狐じゃなくてもいい。
ただの狐になってもいい。
ただの狐になって、毎日、野山を駆け回っていたらよかった。
そうすれば、あんなことにはならなかったのに。
ハナモリサマ、タスケテ!
カアサンヲ、タスケテ!
ハナモリサマナラ、ドンナヒドイケガデモ、ナオセルノデショウ?
カアサンハ、アタシノセイデ、コンナケガヲシタノ・・・
アタシノイノチトコウカンシテモイイカラ。
ダカラ、ドウカ、カアサンヲ、タスケテクダサイ・・・
無理だ、楓。
母さんはもう、息をしていない。
心の臓も、止まっているんだよ。
父さんの苦しそうな声。
あたしはもう、なにも見えない。聞こえない。
ただ、きーんという低い唸りだけ、あたしのなかから溢れそうになって・・・
そのときだった。
大丈夫、治します。
このわたしの、命に代えても。
その声が、あたしをそこに引き戻した。
世界に音が戻った。色も戻った。
あたしのなかに響く唸りは、もう聞こえてこなかった。
なのに。
「どうして?
大丈夫だって、言ったのに・・・
嘘つき!!!」
そうだ。あれは、あのときの、あたしの叫び。
辛くて悲しくて苦しくて。
カアサンヲコロシタノハアタシ・・・
甦る記憶を、あたしは何度も反芻する。
思い出したくないのに。
知りたくないのに。
けれど、残酷な事実は、何度も何度も、あたしのなかに繰り返し再生される。
抑えきれなかった力が暴走して、持ち主であるあたしに襲い掛かった。
母さんが庇ったのは、あたし。
ぐったりした母さんのからだを、父さんは抱えて走った。
ハナモリサマナラタスケテクレル・・・
だけど、森に着いたとき、母さんはもう、息をしていなかった。
あたしはハナモリサマに縋った。
ドウカドウカ、カアサンヲタスケテクダサイ。
ハナモリサマは、山吹色の瞳でじっとあたしを見て、それから頷いた。
大丈夫、治します。
このわたしの、命に代えても。
そう言って、あたしの背中をそっと撫でた。
けど、結局、母さんは、帰ってこなかった。
「あのとき、わたしは、あなたに本当のことが言えませんでした。
いいえ、何とかしたいと本気で思っていた。
あなたにお母さんを返してあげたかった。
けれど、わたしの力は及ばなかった。」
ナンデ・・・ナンデ・・・
どう考えても分からなくて、その後、あたしの力は何度も暴走した。
暴走して、あたしを殺そうとした。
それで、とうとう、あたしの力は封じられた。
父さんがそれを、花守様にお願いした。
どうか、この娘を助けてやってください。
母親が、命を懸けて護ったこの仔を、助けてください。
母さんが庇ったのは、父さんということになった。
戦場で、父さんを庇って、死んだ、ということになった。
あたしの力は、母さんの記憶と一緒に封印された。
あたしは、母さんのことは、何一つ覚えていない、ことになった。
それから、父さんは、あたしを捨てた。
母さんを、殺した、あたしを、捨てた。
きっともう、顔も見たくなかったに違いない。
「千と一回、日の出の光を浴びれば、どんな幻術も解けてしまうものです。
わたしがあなたにかけた術も、あと少しで解けかけていました。
だから、最後の最後は、このわたしの手で、封印を解こうと思いました。」
だから、あたしの導師を引き受けたの?
だから、毎日毎日、日の出を見に行っていたの?
「もう一度、封じてくれれば、よかったのに・・・」
声を、絞りだすように、言った。
力なんかいらない。
記憶なんか、取り戻したくなかった。
どっちも封じられたまま、あのまま平和に暮らしていたかった。
「封印は、いつかは解かなければ、ならないのです。」
花守様は静かに言った。
「あなたに、お母さんを返してあげたかった。
あなたに、お父さんも返してあげたかった。
それを奪ったままでは、いられなかった。
それに、この力は、あなたのもの。
あなたが生まれ持ってきたものです。
誰かに無理やり封じ込められていいものじゃない。」
花守様は、静かに胸を開く。
「あなたの怒りも苦しみも、全部わたしが受け止めましょう。
わたしには、その責任があります。」
じっとあたしを見据えるその瞳に、ちらりと鋭い光が宿る。
「だけど、簡単には、殺されてあげません。
あなたは、強くならないといけない。
強くなって、わたしを殺せるくらい、強くなって、そうして、生きなさい。
悔しさも、悲しさも、わたしにぶつければいい。
あなたの、お母さんは、あなたを護りたかったのだから。
あなたに生きていてほしいと、誰より願ったのは、あなたのお母さんなのだから。
その母親への贖罪のために、あなたが自らを傷つけるというのは、間違っている。
その怒りも、悲しみも、全部、わたしが引き受けてあげます。
だから、あなたは、生きなければならないのです。」
花守様は厳しいヒトだ。
初めてそう思った。
笑顔も優しさも、全部見せかけだったんだ。
むしょうに腹が立って、怒りを誰かにぶつけたくなって。
でもなんか、だからって、それを花守様にぶつけるのも、違ってるような気がして。
やり場のない怒りに支配されそうなあたしを、花守様は、そっと引き寄せた。
あたしは思わず、手に持っていた刀を投げ捨てた。
こんなものを持っていたら、うっかり花守様を傷つけてしまいかねない。
花守様の腕は細くて、胸も薄くて、背だって、あたしよりちょっと高いくらいだ。
これ、本気でぶつかったら、ひょっとしたら勝ってしまうかも、ってちょっと思った。
まあ、もちろん、術で反撃を受けなかったら、っていう前提つきだけど。
花守様はあたしの顔を自分の胸に押し付けた。
ずるって音がして、あたしは、自分の顔が涙と鼻水でべしょべしょだったことに今更、気づいた。
やばっ、ととっさに顔を離そうとしたんだけど。
花守様の力が思ったより強くて、あたしはそのまま、花守様のよそいきに涙と鼻水をべったりつけた。
「今はまだ無理なら、急がなくてもかまいません。
全部まとめて受けて立ちますから、いつでも、殺しにいらっしゃい。」
花守様はあたしの耳元で言った。
その声は、嫌になるくらい、優しかった。




