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その日はどうやって帰ったのか覚えていない。
気が付いたら、庵のふかふかの布団のなかだった。
次の朝も、花守様はいつものように迎えにきた。
あたしはちょっと気まずかったけど、一応、ちゃんとお礼は言わなくちゃと思った。
「あの、昨日は、有難うございました。」
「ああ、いえいえ。また行きましょうね。」
花守様はいつもとまったく変わらない様子でにこにこと手を振った。
「・・・あの、あたし、迷惑とか、かけちゃいました、よね?」
恐る恐る尋ねると、いいえ、と花守様は微笑んだ。
「むしろ、わたしが役得と言いましょうか、とっても癒してもらってしまいました。」
「???」
「あなたもね、無理はしないで、辛かったり、気持ちが沈んだりするときは、言ってください。
わたしに遠慮なんてしないでいいんですよ?」
にっこり首を傾げる。
いえいえ、遠慮なんてしてません。
むしろ、何にも言わなくても、ときどきふわりと花の香がして、辛いところがすっと治ったりしている。
「あの、花守様って、黙って癒しの術とか、かけてくれてますよね?」
「おや。ばれてました?
こっそりやったつもりだったのですが。わたしもまだまだですねえ。」
花守様は、ふふっと笑った。
「お気になさらず。患者さんたちにもいつもやってることです。
まあ、わたしの癖のようなものだと思って、笑って見逃してやってください。」
い、いやいやいや。黙って見逃しちゃだめだと思うんだけど。
「あの、どうもすみません。」
ぺこりと頭を下げたら、花守様は、笑顔のまま、しばらくあたしを見つめた。
「あなたは少し、謝るのが癖になっていますね?」
「あ、それは、すみません。」
慌てて言ったら、笑いながらちょっとため息を吐かれた。
「あ。・・・っと・・・」
また、すみません、と言いそうになったところを、花守様は人差し指で、そっとあたしの唇を抑えた。
そのまま、にこっとする。
ふわっと花の香が広がった。
「行きましょうか。」
花守様はそう言うと、先に立って歩き出した。
「あの。あの泉の水って、不思議ですよね。」
黙っているのも気まずくて、あたしは花守様に話しかけた。
「ええ。あの水には癒しの効果があるのではないかと、わたしも思うのですよ。」
花守様はにこにこと答えてくれた。
「具合のよくないときに、あの水を飲むと、すっきり元気になることがありましてね。
この施療院の水も、実はあの水を使っているんですよ?」
え?と目を丸くしたあたしに、花守様は楽しそうに笑った。
「水汲み場の逆さ井戸。あれって、あの泉の真下なんです。」
「ええっ?あの井戸って、そうだったんですか?」
施療院の水汲み場は、逆さ井戸と言って、天井から休みなくぽたぽたと水が滴っている場所だ。
そこには大きな池があって、滴る水が流れていかないように貯めてある。
それはそれは大きな池だから、ちょっとやそっと汲んだくらいじゃ、水はなくならない。
逆さ井戸という名前を初めて聞いたときには、なるほどなあ、と思ったもんだ。
だけど、普段は、池の水を汲んで使ってる、って感覚だったから、あんまり気にしたことはなかった。
「あの泉って、底が抜けてたんですね?」
「確かに。よく考えれば、そうですねえ?」
花守様も納得したように頷いた。
「逆さ井戸に水が抜けてるから、あの泉は水が溢れないんだ。」
「そうかもしれませんね。
もっとも、ここを作る前から、あの泉は枯れたことも溢れたこともないんですけどね。」
花守様は、うーん、と首を傾げた。
「言われてみれば、不思議な泉です。
わたしも、あえてわざわざ気にしたことはなかったんですけど。
あなたは面白いところに気のつく方ですね。」
「いやあ、そんな大したことじゃない、です。」
出た。花守様の褒め癖。
あたしのが謝り癖なら、花守様は褒め癖だ。
「ここの飲み水や治療に使う水、薬を作るのにもあの水を使っています。
ここのみなさんの怪我の治りの速いのは、あの水のおかげかもしれません。」
「あの水って、薬を作るのにも使うんですか?」
「ええ。
狐の秘薬はね、この水に山吹の花を浸けたものなんですよ?」
なんかそう聞くと、簡単そうに思うけど。
狐の秘薬は花守様にしか作れないすごい薬だ。
あの薬がなければ、ここの患者たちの怪我はあそこまで見事には治らない。
「あの薬の作り方って、どうやって知ったんですか?」
花守様は郷の始祖様で、導師なんてのもいなかったはずだ。
けど、あんなすごい薬も作るし、治療の技だって、誰も真似できないすごい技を持っている。
それ全部、どうやって会得したのか、前から不思議に思っていた。
花守様は、こちらをちらっと見てから、むか~し、むかし、と子どもに聞かせる話のように話し始めた。
「ここの近くの山で、ひどい山火事があったんです。
そのときに、たくさんの狐や、他の獣たちも、そこから逃げてきました。
そのなかには、酷い火傷を負ったものも多くいました。」




