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それから何日か経ったころ。
修行を終えて、夕方家に帰ったら、先生の部屋にお茶を届けるようにと言われた。
今日のお茶係はあたしじゃないのに、とぶつぶつ呟きながらもお湯を沸かしてお茶を淹れる。
ついでに戸棚のお菓子を適当にお皿に乗せると、あたしはお盆を持って先生の部屋にむかった。
長い長い廊下の一番奥に先生の部屋はあった。
この廊下は毎朝みんなに磨かれて、いつもぴかぴかだった。
長い廊下の端から端まで、雑巾をおさえてよつんばいになると、せーの、で走り出す。
もちろん、いつも一番なのはあたし。
ぴっかぴかの廊下は実によく滑る。
今はお盆を運んでいる最中なんだから、気をつけなくちゃ。
そう思ってそろりそろりと歩いていたら、やっぱり滑った。
とっさにお盆を落とさないように身を乗り出したら、そのまま勢いがついて止まらなくなる。
結果。
うわあああああっ、と大声を上げながら、あたしは廊下を爆走し始めた。
「誰か誰か誰か、止めて止めて止めて~~~。」
とにかく長い廊下を悲鳴を上げながら走る。
いや、下手に止められると余計に危ないんだけど、いやでも、止まれないのも困ったし。
すると、がらり、となんか音がして、かすかに花のいい匂いがした。
と思ったら、いきなり、ふわっとからだが浮いた。
「え?ひぇっ?」
驚いた拍子に取り落としたお盆は、あたしの足をめがけて真っ逆さま・・・
にはならなかった。
はっと気づくと、目の前にはにこにこ笑う一匹の妖狐。
差し上げたその片手に、あたしの持っていたお盆がのっている。
「怪我はありませんか?」
そう言って優しく微笑むその顔から、あたしは目が離せなくなっていた。
なんていうの、これ?
なんていったらいいんだろ。
この間借りた絵巻に書いてあったんだけど。
なんか格好いい言い回しだったから、覚えておいていつか使おうと思ってたんだけど。
「あ!ハクサイの美青年!」
「白菜?」
思わず指差して叫んだら、そのヒトは、きょとん、と首を傾げた。
「これ。ヒトを指差すな。
それを言うなら、白皙の美青年だ。
まったく、躾が行き届かず、申し訳ない・・・」
しきりに謝りながら差し上げたあたしの手の甲をぺしりと叩いたのは先生だった。
「しかし、本当にこの仔でよいのですか?花守様?」
続けて言った先生の言葉に、あたしはもう一度悲鳴を上げた。
「えええええっ?!
じゃ、じゃあ、このヒトが、例のクソジジイ?!」
これっ、という声と同時に、あたしは後ろから頭をはたかれていた。
あはははは、と、ちょっと困ったように笑って、花守様は腰を屈めてあたしに視線を合わせた。
「こんにちは。はじめまして。楓さん、ですよね?
わたしがそのクソジジイ?かな?」
あたしは目を丸くしてそのひとを見つめていた。
なんでなんで?という言葉だけ、頭のなかをぐるぐる回る。
目の前のヒトは、めちゃめちゃ優しそうで、キレイで。
郷の始祖、とかいうから、髭を長く伸ばして頭つるつるのおじいちゃんかと思ってたけど。
ぜんぜん、思ってたのと違う。
あたしは慌ててばたばたと両手を振り回した。
「いや、そんな、クソジジイなんて、とんでもない。
こんな美人つかまえて、そんなことは思いませんよ?
それに、あなた、ジジイじゃないですよね?
すっごく若く見えるし、なんなら、先生より若く見えるし・・・」
その辺で、あたしは先生に口を抑えられて、あとはもごもごとなった。
これ以上失礼なことを口走る前に止められたらしい。
花守様は、にっこりと微笑んで、そうですか?と首を傾げた。
その姿に、あたしは思わず呆然とする。
一応、あたしよりは年上には見えるし、一人前の雄狐なんだけど。
なにこれ、可愛い。
花守様は、仔狐じゃないんだけど、かといって、オトナというほどがっつりもしてなくて。
オトナなんだけど、朋輩の男子たちの、あのガサツな感じもこれっぽっちもない。
そういうとこ、オトナなんだけど、でも、オトナでもないというか。
オトナっていうと、もっと、先生みたいなヒトだと思うし。
あわわわわ、なんか、うまく言えない。
「とりあえず、部屋に戻りましょうか。」
あたふたしているあたしを後目に、先生は花守様とあたしを部屋のなかへ入るように促した。




