29
スギナはあたしの反応には気づかなかったように話を続けた。
「ああ、長い名前だろ?これって、ふたつ名なんだ。
優れた戦師には、たいてい、ふたつ名がつくんだよ。
そのふたつ名のほうが本当の名前よりよく知られてるんだよね。」
・・・知ってる。
「そのヒトはさ、伝説の戦師って、言われてて。
いや、なにがすごいって、そのヒトは、一度たりとも、その手を戦の血で濡らしていないんだよな。
戦師には珍しい、雌狐だったんだけどさ。
そのヒトの手にかかりゃあ、どんなにこじれた戦も、するするする~と、解けて終わる。
戦を終わらせることにかけちゃ、そのヒトの右に出る者はなかった、って。」
知ってる。
「おいらさ、初めてその話を聞いたときに、すげぇ、ってなって。
そんで、おいらもそんな戦師になれたら、って思ったんだ。
もちろん、金を稼がなくちゃならねえってのもあるんだけどさ。
どうせやるなら、クレナイイロハみたいな戦師になりたい、って。
お前もさ、そういう戦師なら、嫌いじゃないんじゃないか?」
呑気にこっちを見てそう尋ねるスギナに、あたしは顔を伏せたまま、ぽつりと言った。
「紅彩葉の、本当の名前は、紅葉、っていうんだよ。」
「え?それ本当か?
すげえな、お前。
イロハのこと、よく知ってんだ?」
スギナはびっくりしたみたいに目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「もしかして、お前もイロハ贔屓なのか?
いいよなあ。イロハ。ぞくぞくするよな。
今は引退して、何してるか誰も知らないんだろ?
けど、もっぺん復帰したら・・・」
「やめて!」
突然話を遮られて、スギナはまたびっくりした顔をした。
「え?」
「イロハのことなんか、知らない!
全然、覚えてない!
なんにも・・・顔も・・・声も・・・」
「・・・え?」
おろおろしているスギナを、あたしは睨みつけた。
「イロハは、伝説の戦師だったかもしれないけど、相棒を庇って死んだんだよ。
その相棒はね、イロハの夫だったんだけど、イロハが死んだらすぐに次の妻を娶ったんだ。
新しい奥方のお腹には、そのときもう、仔狐がいた。
だからさ、もしかしたらイロハは、奥方に陥れられて、殺されたんじゃないか、って。
そういうこと、陰でこそこそ言うやつらが・・・」
「ええっ?」
「知略?謀略?
ただ、ずるくて、陰でこそこそやるのがうまいってだけでしょ?
誰も信じられず、相棒にさえ裏切られる。
戦師なんて、そういうやつらじゃない!」
スギナはもう、え、とも言わない。
あたしは悔しくて腹が立って、ただもくもくと竈に小枝を入れ続けた。
けど、竈の火は大きくなるどころか、かえってくすぶり始めて、そのうちに消えてしまった。
なんでこう、なんでもかんでも、思ったことと逆になるんだろう。
腹が立って、涙が出て、でも、泣くのも悔しくて、唇を噛んで必死に堪えた。
スギナは黙って、ぎっちりみちみちに詰め込まれた小枝をゆっくりと取り出した。
ときどき、あちっ、とか言う他は、なんにも言わなかった。
あたしは黙ったまま、スギナのやることを、ただじっと見ていた。
そうしていると、心はしんとなって、必死に堪えた涙も止まっていた。
スギナは、竈のなかの小枝を減らすと、そこにもう一度火をつけて、ふぅ、と息を吹き込んだ。
火はまた、ちょうどいい感じに、ちろちろと燃え始めた。
「その可哀そうなイロハはね、あたしの母さんなんだ。」
あたしは、すっごく残酷な気持ちになって、へへっ、と笑った。
「父親の奥さんになったのは、前の元締めの一人娘でさ。
その娘婿になって、父親は元締めになったんだよ。
そりゃあ、父親は元締めの地位に目が眩んだんだって、言われるよね?」
「まさか、それって、藤右衛門様か?」
黙っていたスギナは、黙っていられずに、そう聞いた。
「そうだよ。そのトウエモン。
本当の名前は、藤、ってんだけどさ。
へへっ。あのヒトには似合わない優し気な名前だよね。
藤って、綺麗な花だって言うヒトもいるけど。
他の木に絡んで苦しめる厄介な蔓だよ。」
「ええっ?じゃあ、お前は、藤右衛門様の娘なのか?」
「そうだよ。
知らなかったでしょ?」
あたしはあの家が嫌で逃げ出した。
母さんを殺したかもしれないヒトを、お母さんなんて呼べないし。
地位に目が眩んで、母さんを殺されても黙っているのかもしれないヒトを、父親とも思えない。
「戦師の元締め藤右衛門は、奥方と双子の息子と一緒に大きなお屋敷に住んでいる。
立派なお大尽だ、って、みんなには思われてるよね?
だけど、藤右衛門には前妻がいて、その前妻との間の娘のことは、みんな知らないんだ。」
あたしの抜け出したあの家は、丸く収まって家族になった。
「だけどさ。そんなことまでしたのに、あのヒトたち、幸せじゃないんだよ。」
あたしは自分でもぞくっとするくらい冷たく笑った。
「藤右衛門は、あのお屋敷にはほとんど住んでない。
年がら年中、花街に入り浸ってて、家には帰ってこないから。
あのお屋敷にいるのは、奥方と息子だけ。」
「・・・まさか・・・」
「あたしのいたころから、父親はほとんど家に帰ってこなかった。
戦師ってのはそういうもんだ、ってあのヒトは言ってたけどね。
双子が生まれてからは、あのヒトもその世話で忙しくて。
あのね、あのヒトは、あたしのこと、絶対に叱らないんだ。」
黙ってこっちを見ているスギナの目が嫌だった。
可哀そうなものを見るような目をしているのが、とてつもなく嫌だった。
「あのヒトとあたしの間には、見えない壁みたいなものがあってさ。
あのヒトは、いっつもその壁越しに、話しかけるんだ。
自分が殺したヒトの娘だったのが、嫌だったのかな。
だったら、どうしてあのヒトは、あたしのことも、殺してくれなかったんだろう?
あたしは、それでも、よかったのに。」
「バカやろう!」
いきなり肩を掴まれて、ぐいと振り向かされた。
それから、がばりと抱き寄せられた。
つん、と汗臭い匂いがした。
「・・・臭い。」
「はあ?そのくらい我慢しろ。」
「・・・・・・息苦しい。」
「あ。そりゃ、ごめん。」
スギナは焦ったようにあたしを離すと、目を逸らせたままで言った。
「殺されたがほうがよかったなんて、絶対に言うなよ。
お前のことは、おいらが殺させない。」
それからあとは、ふたりして、何も言わずにせっせと朝餉の支度をした。




