158
潮に乗って海を埋め尽くしてしまった瘴気には、あたしたちも成す術がなかった。
今もこの海のどこかにあの怪物は潜んでいて、この瘴気を垂れ流し続けているのだろう。
怪物を退治しない限り、瘴気の元を断つことは不可能だ。
だけど、あたしたち妖狐には、海中の怪物と戦う術なんてなかった。
仲間の救援を頼もうにも、舟で海を渡れなければ、どうすることもできない。
花守様とスギナとあたし。それから、残された息長の人々。
そのみんなで力を合わせて、この苦境をどうにかするしかなかった。
怪我人の治療に励みながらも、花守様は、瘴気の解毒方法を探した。
けれど、花守様の経験と知識を総動員しても、この瘴気を祓うのはなかなかに難しかった。
「なにかねえ。
思ってもみないような、こう、考え方を、くるっと、ひっくり返すような、ねえ・・・
そういうことが、必要なんだと、思うんですけどねえ・・・」
そんなことを言ってため息を吐きつつ、それでも諦めずに、試行錯誤を繰り返していた。
けれど、そんな呑気なことも、だんだんしていられなくなった。
島の人々の健康は、徐々にだけれど、侵されていった。
苦しそうな咳をする人が増え、弱い者から、だんだんと動けなくなっていった。
やっぱり、この島にはいられない。
だけど、目の前の海を渡ることもできない。
八方塞がりかと思える状況だった。
ある、静かな夜だった。
月が、とても綺麗だった。
こんな明るい月夜には、きっと、怪物も襲ってこないだろう。
今は、毎日、命を繋ぐだけで、精一杯だった。
ひとときの安らぎに、疲れ果てた人々は、泥のように眠っていた。
夜中にふと目を覚ました。
どこからともなく、琴の音が聞こえてくる。
周りで眠る人たちを起こさないように気を付けながら、あたしは天幕を脱け出した。
あたしたちは、海辺に大きな天幕を張って、共同の暮らしをしていた。
天幕の外には焚火があって、交代で火の番をしている。
けれど、疲れ果てた番人は、すっかり眠り込んでいた。
誰も起こさないように大きく迂回して気を付けながら進んだ。
月が明るくて、とても平和な夜だった。
辺りに漂う瘴気も、いつもより少しましになった気がした。
音を頼りに進んで行くと、めちゃめちゃに壊された切り株のところに出た。
社の残骸もまだそのままで、ここの惨状は嫌でもあの日のことを思い出させる。
なのに、どこかそれは、静かで、悲しい風景だった。
不思議と、怒りより、淋しさを感じた。
憤るより、悲しいと思った。
切り株の跡で静かに琴を弾いていたのは、花守様だった。
どうしてかあたしは、来る前から、それを知っていた気がした。
月明りに照らされて、花守様の髪は、淡く輝いていた。
「起こしてしまいましたか?」
花守様も、あたしの来るのを知っていたように、ごくごく自然に声をかけてきた。
「あ・・・ええ・・・まあ・・・」
顔を上げずに琴を弾き続ける花守様に、あたしは近づいて行った。
「花守様って、琴も弾くんですね?」
「完全に自己流ですけどね。
琴というものは、誰が弾いても、鳴ってくれますから。」
それはそうか、と思った。
きっと、あたしが弾いたって、琴は鳴るだろう。
だけど、花守様の奏でる音は、まるで名人の音のように、胸を震わせた。
「この琴を弾けば、あの方とお話しができるかもしれないと、思ったのです。」
あの方、というのは、楠の精霊のことだろうか。
長年、島と、ここに棲む民を護ってきたあの精霊は、今、何を思っているのだろう。
「それで、話しはできましたか?」
「ああ、ええ・・・あ、いいえ・・・」
花守様は曖昧な答え方をした。
それから、突然、嬉しそうにあたしに言った。
「けれど、そう。
ひとつ、見つけました。
この琴の音色には、あの瘴気を追い払う力があるんです。」
その言葉に、あたしは、あっ、と気付いた。
「そう言えば、ここも、瘴気が濃すぎて、ずっと来られなかったはず。」
琴の音に惹かれて、知らずに歩いてきたけれど。
ここはもうずっと、足を踏み入れることもできなくなっていた場所だった。
「そうなんです。
もっとも、妖狐ほどの体力のない息長の人々には、難しいかもしれませんが。
わたしたちなら、この琴さえあれば、瘴気のなかにも踏み込めますよ。」
そっか。
それは、もしかしたら、なにか突破口になるかもしれない。
「海を、渡りますか?」
「・・・いや、それはね・・・わたしたちに、対岸まで舟を操ることは、少し、難しいですかね。」
気の逸るあたしに、花守様は苦笑した。
「ただね、そう、楓さん・・・」
花守様は、あたしのほうをじっと見詰めた。
「郷の山吹の木を覚えていますか?」
「もちろんです。」
覚えていないはずがない。
むしろ、いったい何を言い出すんだと見返したら、花守様は、少し照れたように笑った。
「わたしは、自分があの木の化身だと、ずっと思い込んでいたのですけれども。
いえ、あの、思い出すと、いろいろと恥ずかしいのですが。
そういうことは、とりあえず、今は脇に置いておいて、ですね?
そうではないということを、先日、精霊様に教えていただいて・・・
それで、まあ、いろいろと、考えていたのですけれども・・・」
もたもたと言い訳するように言葉をつなげてから、花守様は、ふぅ、とひとつ息を吐いた。
「わたしには、その、植物に働きかける力、のようなものが、あると思うのです。
それは、妖術とは少し違って、誰かに教わったとか、そういうことではなくて。
むしろ、生まれつき、というか、自然に身に備わっていた、というか・・・
生来体得していた、というか・・・」
それ、全部、同じでは?
そう返す前に、花守様は、いきなり、琴をかき鳴らし始めた。
それは、例えるなら、まるで、春雷。
春の嵐のごとく、激しくかき鳴らされる琴の音に、心臓がばくばくする。
びっくりして、息も止めたまま見守っていると、力尽きた花守様は、いきなり、琴の上に倒れこんだ。
「え?花守様?」
「・・・ほら、見てください。」
ぜいぜいと息を荒くしながら、花守様は指を指す。
指された方を見ると、小さな小さな、木の芽が生えていた。
「えっ?」
そこは、この間完全に破壊された切り株のあったところだった。
腰掛けにちょうどよかった根も何もかも、完全に粉々にされて、跡形もなかった。
瘴気を出す腐汁も、そこにはことに酷く、べっとりと塗りつけられていた。
けれど、腐汁は跡形もなくなり、きれいな土の上に、ひょっこりと小さな木の芽が顔を出していた。
「ふふふ。
可愛らしいお姿になったこと。」
花守様は、琴を脇に置くと、木の芽に近づいていった。
それから、愛おしそうに、それを両方の手で包み込むようにした。
それから、にっこりと微笑みながら、瞳を閉じて、すぅ、と深く息を吸った。
赤子を癒すときのように、花守様はゆっくりと、木の芽に力を送り込んだ。
妖力で花守様の全身が淡く光る。
優しい力は、周囲の空気をも軽く浄化していくようだ。
花の香が、ふわり、と漂った。
花守様の妖力の光は、やがて、少しずつ薄れて消えた。
そうしてそこにあったものに、あたしは目を丸くした。
「あっ。」
それは、人の背丈ほどに成長した楠だった。
もう芽とはいえないくらい、力強い若木になっていた。
「まだ、変化するほどのお力は戻らないでしょうけれど。
あと百年もすれば、また立派な守り神になれましょう。
島の浄化と守護。あとのことはお任せしましたよ。」
花守様は、にこにこと若木に話しかけた。
それから、さてと、と気持ちを切り替えるようにあたしを見た。
「せっかく、守り神を復活させても、このままでは、またあの怪物に折られてしまうかもしれません。
だから、やっぱり、怪物をなんとかしないね?」
いや、なんとかしないと、ってのは、思いますけど。
なんともできないから、困っているのでは・・・
そう思いつつも黙っていたら、花守様は、ふふふ、と笑った。
「倒す、というのは、おそらく、わたしたちには、不可能でしょう。
けれど、眠らせることなら、できるかもしれません。
怪物の怒りを宥め、静かに、海のゆりかごのなかで、眠ってもらう。
そうすれば、あの瘴気も収まるように思うのです。」
花守様は、また静かに琴を爪弾きながら、話しを続けた。
「あの怪物を、わたしは、幼子のように思います。
泣く以外にどうしようもなくて、手足を振り回し泣いている小さな子どものように。」
そんな生易しいもんじゃないと思いますけど。
だけど、花守様は、あんな怪物にすら、心を寄せてしまうようなヒトだから。
「ずいぶん、はた迷惑な子どもですよね。
周りをどれだけ困らせるんだか。」
でも、あたしは、息長の人々の苦難を思えば、子どものしたことで済ます気には到底ならない。
「それでもね。
子どもはやっぱり、周りの大人が守ってあげなければ、ならないのだと思います。
いけないことは、いけないと、教え諭すのも必要でしょうけれど。
それと同じくらい、安心して休める場所も必要なのではないかと。」
「あの怪物は、島の人たちから、その大事な場所を奪ったんですよ?」
「ええ。それは本当に酷いことです。
だからこそ、それがどんなにいけないことだったかを、あの怪物は知らなくてはいけません。
それを理解できたとき、あの怪物は、真の罰を受けるのだと思うのです。
自分自身の良心からは、決して、逃げることはできないのですから。」
自分からは逃げることはできない、っか。
確かに、もしかしたら、それは何より厳しい罰かもしれない。
永遠に責められることから逃げられなくなるとしたら。
だけどそのためには、自分がしたことを理解しないといけない。
「あの怪物に、そんなこと、分かるんでしょうか?」
それが一番の疑問だ。
どうでしょうね、と花守様も首を傾げた。
「分かる、かもしれません。分からない、かもしれません。
分かってほしい、と願うしかありませんけれど。
そのときが来るまでは、静かに、ゆりかごで眠っていてもらうしかないとも思います。」
・・・そっか。
ゆりかごは、つまり、牢獄でもあるんだ。
「怪物を、封じるということですか?」
「有り体に言えば、そうですね。」
封印術。
藤右衛門の得意技だけど。
逆に言うと、藤右衛門くらいの妖狐でなければ、できない術ともいえる。
なかなかに難しい術だ。
対象がおとなしく封印されればいいけど、抵抗されれば、術が跳ね返されることもある。
最悪、術師が封じられてしまうかもしれない。
それに、反撃される恐れだってある。
海の中では戦えない妖狐に、海の中の怪物を封じるなんて、可能なんだろうか。
「・・・花守様が、封じるんですか?」
花守様は、確かに、強い。
術力は、間違いなく郷で一番だ。
だけど、花守様の使う術は、ほとんど治癒術か幻術。
攻撃も可能なのは、狐火を強力にしたやつくらいだと思う。
けど、海のなかじゃ、狐火は、あんまり効果は見込めない。
人間相手ならまだしも、これで、怪物に通用するんだろうか。
なんて。
まさか、面と向かって、言うわけにも・・・
いや。
言いましょう。これは。
決意して口を開こうとしたら、先手を打たれた。
「スギナさんにもね、一緒に来ていただきます。
スギナさんは、弓矢を上手にお使いでしょう?
矢にはたっぷりと眠くなる術を込めておきます。」
・・・はあ。なるほど。
流石に無策、というわけじゃあなかったんですね・・・
納得したあたしは即座に言った。
「あたしも、行きます。」
だけど、それは、きっぱりと断られた。
「楓さんは弓矢はお使いにはならないでしょう?
槍や鉾の心得もない。
舟の上から、海の怪物と戦うのには、不向きだと思うのです。」
「風は?
風なら、かなり大きなものも吹き飛ばせますよ?」
「でも、海のなかで吹き飛ばして、妙なところにどぼんと落ちて、舟がひっくり返っても困ります。」
・・・確かに。
そこまで繊細な制御は、あたしには、できない。
「けど!」
「大丈夫。」
ついていきたいんです、という言葉は、花守様の笑顔に遮られた。
「あなたは、息長の人たちと、待っていてください。楓さん。
スギナさんとわたしとで、きっと怪物は封印して帰りますから。」
確かに、役に立たないわたしが、苦手な舟に乗って無理やりついて行っても、邪魔にしかならない。
そんなこと、分かってるけど。
それでも、どこまでも一緒に行きたい。
もう、二度と、離れない、って、決めたんだから。
「・・・おいて、いかないで・・・」
涙と一緒に、言葉が溢れた。
花守様は、そんなあたしをじっと見詰めた。
どのくらい、時間が経ったのか。
ほんの瞬き数回分だった気もするし。
月が位置を変えるほど、長い時間だった気もする。
その間、花守様は、ほんの少しもあたしから目をそらさずに、じっと見詰めていた。
「・・・楠殿が力を失ったのは、年を取ったからでも、虫に喰われたからでもありません。
嘘を、ついて、しまったから。」
突然、花守様はそんなことを言い出した。
「それは大切な人のためについた嘘だったのかもしれない。
けれど、精霊は嘘をついてはならないのです。
たとえ、誰かを護るためだとしても。」
それからゆっくりとあたしのほうへ近づいてきた。
「わたしは、精霊ではありませんが、嘘はいけないことだと知っています。
大切な方を裏切り、傷つけることになる。
それでも。」
花守様はあたしの前に跪くと、優しくあたしの手を取った。
それから、あたしの目を覗き込むようにして言った。
「あなたと、あなたの父上とのお約束を、破ってもいいですか?」
約束・・・?
「わたしは、百年、待つとお約束しました。
けれども、もし、あなたが赦してくださるのなら。
あの約束を反故にしてくださるのなら。
今すぐ、わたしのすべてを、あなたに差し上げましょう。」
いいえ、と花守様は、にこっと微笑んだ。
「それは少し違いましたね。
どのみち、もう既に、わたしはあなたのものなのですから。
けれど、言葉だけでは、あなたの不安を拭い去れないと言うのなら。
婚姻の契りを交わし、あまねく世界に、わたしはあなたのものだと、誓言いたしましょう。」
え?
目を丸くするあたしに、花守様は、うっとりするように微笑んだ。
「わたしをあなたの夫にしてくださいますか?」
あたしは壊れた人形みたいに、何度も、うんうんと頷いていた。




