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花恋物語  作者: 村野夜市
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枯野の琴は大切に島の社に安置された。

そうしてまた、息長の人々の日常は以前と同じに戻っていった。

島のどこからでも影が見えていたあの大きな木は、もう見えないけれど。

いつでも神様が一緒にいてくれるという感覚は、人々から失くなりはしなかった。


都への貢物は、小さな舟に小分けして、毎日届られた。

大勢で同時に漕ぐ大きな舟ほどの速さはなかったけれど。

ひとりで一艘ずつ舟を操って、息長の民は毎日、都へと往復した。


もうきっと、災厄はおしまい。

誰もがそう思い、そう願った。

けれど、それはまだ、おしまいではなかった。


その数日前。

異変は海から起こっていた。

島の周りから、ほとんど魚がいなくなったのだ。


春近いこの時期、島の周囲には、潮に乗って、たくさんの魚が訪れるはずだった。

なのに、一匹もいない。

漁に出た者たちは、毎日、空っぽの舟で戻ってきた。


これでは、大王に届ける貢物に困る。

いや、それ以前に、島の民の食料に困る。


円卓に集まって、人々はそんな会議をした。

その夜のことだった。


その夜は、雨が降っていた。

春の静かな雨だった。

月明りはなく、暗闇のなかで、島の民は、ひっそりと眠りに就いていた。

それは、音もなく、海から這いあがってきた。


前のことがあったから、島の民は夜も見張りを立てていた。

けれど、あれから日も経ち、緊張も緩んでいたのかもしれない。

見張りがそれに気付き、合図の法螺貝を吹き鳴らしたとき、それはもう、村の端にまで迫っていた。


前回の襲撃は、崖の近くの家が数軒、被害にあった。

怪物はそれだけで、海へと帰っていった。

けれど、今回は違った。


怪物蛸は、その大きさからは想像もできないような俊敏さで、村を奔った。

田畑も家も見境なく、押しつぶし、なぎ倒した。

長く伸びた触手は、周囲のものを容赦なく打ち壊した。


それは恐ろしい速さだった。

眠っていた人々は、法螺貝の音に驚いて飛び起き、着の身着のまま、逃げ惑った。

戦いを挑もうにも、武器すらも取る暇のなかった者が多かった。


怪物蛸は、社の奥、守り神の立っていた場所をまっしぐらに目指した。

社の建物を滅茶苦茶に破壊し、今は会議の場となっている円卓を踏み潰す。

円卓は、粉々に踏み砕かれた。


そこまでのことが、本当に、あっと言う間だった。

あたしたちも、逃げ惑う人々の安全を確保するだけで、精一杯だった。


花守様とスギナは、怪物を結界に閉じ込めようとしたけれど。

かけられた結界ごと引きずって、怪物は前進した。

恐ろしいほどの執念を持って、怪物は、楠の残骸を、跡形もなく消し去ろうとしているようだった。


狐火もぬめぬめとした怪物の肌には効かなかった。

業火を使えば、村ごと火の海にしてしまう。

大勢の民を巻き込む恐れのある術は、使うわけにはいかなかった。


徹底的に破壊しつくした怪物は、そのまま、島を縦断するように進んで、海へと帰っていった。

民はなすすべもなく、ただ、怪物の思うままに、島は破壊された。

死人が出なかったのが不思議なくらいの惨状だった。


けれど、怪我人は大勢、いた。

大勢、大勢、いた。

あたしたちは、怪物を仕留めることより、人の命を選んだ。


少しでも広く、安全な場所を探して、あたしたちは走り回った。

優しいはずの春の雨を無情に感じた。

それは息長の人々から、命を温もりを奪っていくようだった。


そのときだった。

破壊された社のほうから、穏やかな優しい音色が響き始めた。

あたたかな春の午後に、島に吹く風のように、それは傷ついた人々の心を癒した。

打ちひしがれ、項垂れていた人々は、はっと顔を上げた。


動ける人たちは、広い場所に柱を建て、布や海藻を集めて屋根を作った。

怪我人はそこに集められ、あたしたちは手当に追われた。

あたしたちを励ますように、琴の音はずっと、鳴り響いていた。


やがて、雨は止み、東の空にお日様が上った。

長い長い夜に、ようやく終わりが来た。

この夜明けを喜ばない人はいなかった。


朝まで絶え間なく人々を励まし続けた琴の音色は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

けれど、みな、あまりにも目の前のことに精一杯だったから、なかなかそれに気付かなかった。

そういえば、と気付いた誰かが、様子を見に社へ行った。

すると、壊れた建物のなかで、倒れていた長老を見つけた。

長老は、琴を守るようにからだを投げ出して、そのまま息、絶えていた。

けれど、その顔は、大切なものを守りきった人のように、誇らし気に微笑んでいた。


人々の悲しみは深く、絶望もまた深かった。

守り神を伐ってしまったから、怪物は易々と島に上がることができたんだ。

そう主張する人たちもいた。


村の被害も酷かった。

怪物の奔った跡には、どろりとした腐汁のような黒い染みが、いたるところに残されていた。

うっかりそれに手を触れると、火傷のように酷く爛れた。

腐汁からは毒の霧のようなものが出ていて、それを吸い込むと、酷く気分が悪くなった。

毒の霧は、やがて、瘴気のように、村全体を覆い尽くした。

片付けどころか、必要なものを取りに行くことさえ、ひどく難しくなってしまった。


暮らしを立て直そうにも、どこから手を付けたらいいのか、誰にも分らなかった。

海に出ても魚は獲れず、田畑は潰され、休む場所もない。

郷からの救援物資で、なんとか民は暮らしていたけれど、希望もなく、心はすさむばかりだった。


怪物は、あの楠を、どこまでも憎み、徹底的に破壊しようとした。

僅かな力の名残さえ、赦さなかった。


けれど、島にはまだ、琴が残っている。

怪物は、またきっと、襲ってくる。

この琴を壊しに、やってくる。


長老に身を挺して守れられた琴には、傷ひとつついていなかった。

けれど、人々が話し合うための円卓は、粉々になってしまった。

いつしか、人々は、話し合うことすらしなくなってしまった。


この琴も、あのとき、壊れてしまえばよかったんだ。


そう考え、琴を壊そうとした者も現れた。

幸か不幸か琴は破壊を免れたけれど。

壊そうとした者は、そのまま島を出て行った。


そして、それが、始まりとなった。


ひとり。また、ひとり。

島に見切りをつけて、去って行った。

家族を連れて去る者もあった。

怪我をして動けない身内を、置き去りにして去る者もあった。


親子。きょうだい。恋人同士。

身を引き裂かれるような、悲しい別れが、あっちでもこっちでも、毎日のようにあった。


それでも、あたしたちには、彼らの決断に意見をすることはできない。

あたしたちはただ毎日、怪我人を世話して、回復のお手伝いをするだけだった。


最終的に、島の民は、半分くらいになってしまっただろうか。

しかし、残された人々も、このまま島で暮らしていくのは難しいと思い始めていた。

瘴気に侵された土地には、家も田畑も作ることはできない。

けれど、花守様にも、この瘴気は簡単には祓えそうにはなかった。


残った者全員で、島の対岸の陸に渡り、そこに新たな村を作ろう。

ようやくその決意が成った。

彼らは残された道具一式を舟に積んで、一斉に移住することになった。


少し前から、大王への貢物は中止になっていた。

今、戦を仕掛けられたら、ひとたまりもないだろうけれど。

大王と戦になったときに戦えるような強い者たちは、ほとんどが島を出て行ってしまった。

残されたのは、老人と、争いの苦手な心優しく弱い者たちばかりだった。


それでも、大臣からは、何も言ってこなかった。

自分が倒されれば、きっと、戦は終わる。

楠はそう言っていたけれど。

もしかしたら、怪物に徹底的に島を壊されたおかげで、大臣も攻めるのを辞めたのかもしれない。


いよいよ、移住すると決めた当日。

舟出をしようとした彼らは、目の前に横たわる海の色に目を見張った。

海の色を見慣れた海人族には、それはあまりに異様な色だった。

そこから漂ってくる臭気は、怪物に押しつぶされた村を覆う瘴気と同じ臭いだった。


もはや、この海を渡ることはできない。


彼らは、瘴気の漂う島に、閉じ込められてしまっていた。





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