113
朝はまだ誰も起きてこない暗いうちに、コヤタの馬小屋部屋に上がる。
そこへ、ひたひたと、足音を忍ばせて、ヨトギちゃんがやってくる。
そこでいつも、あたしと交代。
あたしは、ヨトギちゃんの代わりに後宮へ行く。
けど、その日は事情が違った。
魔法陣で馬小屋部屋に転移した途端、何人かの人影が、あたしたちを取り囲むように現れた。
とっさに、コヤタはあたしをもう一度魔法陣のほうへ突き飛ばした。
あたしは尻もちをついた姿勢のまま、コヤタの屋敷に舞い戻っていた。
もう一度、魔法陣を使うには、水を汲んできて、発動させなきゃいけない。
どきどきと焦る気持ちを抑えながら、あたしは水を取りに行く。
急いで、再び馬小屋部屋に行ったときには、そこにはもう、誰もいなかった。
部屋のなかは、激しく争ったように、物が壊れて散らばっていた。
そこに落ちていた赤い染みに、どきっとする。
その染みからは、コヤタの匂いがしていた。
コヤタが、傷つけられた?
どの程度の怪我をしたのだろう。
幸い、血の量はそれほど多くはなかった。
部屋の中には、他の人間の血の匂いはしない。
コヤタだけ、一方的に傷つけられたようだった。
物陰に身を潜めるようにして、少し待ったけれど、誰もやってこなかった。
コヤタはもちろん、ヨトギちゃんもやってこない。
これはなにか、ただならぬことが起きたに違いない。
どきどき、どきどきと、自分の心臓の音だけが響く。
こんなことしてる場合じゃない、と自分の胸に言われているみたいだ。
しばらく迷ってから、あたしはくるりと一度宙返りをして、狐の姿になった。
ぱさり、と着ていた衣が床に落ちる。
妖狐にとって、狐の姿になるってのは、人間にとっての、裸になるのに近い。
いや、裸、とまでは言わないか。下着姿、くらいかな?
施療院で療養中の患者さんなんかは、狐姿で寝ていたりする。
まあ、よっぽど具合が悪くて、しんどくて、ゆっくり休みたいとか、そういうときだけ。
仔狐ならともかく、一人前になったら、こういうことは、まず滅多にしない。
めっちゃくちゃ恥ずかしいんだけど、まあ、ここには妖狐はいないからいいでしょ。
それよりも、変化姿でうろうろして、ヨトギちゃんと鉢合わせでもしたら、そのほうが困る。
それに、狐姿のほうが、からだも小さくなるから、物陰にも隠れやすい。
手印を使うような複雑な術は使えなくなるけど、そもそもあたし、そんな難しい術、使えないし。
素早さや身軽さは、こっちのほうが何倍も上だ。
姿を見えなくする類の術が使えない以上、この姿になるほうが、ずっといいように思えた。
こんなこと、郷のヒトにばれたら、それこそ、呆れられたり、怒られたり、嘆かれたりしそうだけど。
今は非常事態だ。仕方ない。
うん。でも、これは、絶対に、あたしだけの秘密にしとこう。
いろいろと自分に言い訳をしながらも、あたしは物陰を縫って、走った。
コヤタの匂いを追って行く。
そうそう、匂いを追うのも、変化姿より狐姿のほうが鼻が利く。
下働きの女官や衛士たちは、そろそろ起き出す頃だった。
今のあたしは、ただの白狐だけど、大王の館にそんなものが入り込んでいたら、きっと騒ぎになる。
捕まるなんて心配はしてないけど、人間たちに追いかけまわされるのも真っ平ごめんだ。
なるべく見つからないように物陰に潜みながら、あたしは進んでいった。
厨の傍を通ったとき、誰かがコヤタと言ったのが聞こえて、あたしは思わず足を止めた。
水を飲みにきたらしい衛兵が、厨の人間たちと話しをしているようだった。
「・・・、そうか、捕縛されたのか・・・」
「今朝一番に、大臣の部隊に捕らえられたらしい。」
「あの、毒を飲まされたのは、大臣の子息だったそうだな?」
「大臣は拷問してでも、真実を吐かせると息まいておられたとか。」
「こうなっては、小弥太殿も、もはや、二度と日の下を歩くこともあるまい。」
なんですって!
思わず叫んだけど、人間の耳には、きゃん、としか聞こえなかったはずだ。
あたしは慌ててからだを竦めるようにして、ゆっくりと背中をむけて立ち去る。
なんだ、犬か、という呟きが、背中に聞こえていた。
捕縛・・・大臣・・・毒・・・子息・・・拷問・・・
聞こえてきた恐ろしい単語が、頭のなかをぐるぐるする。
二度と、日の下を歩けない。
突然コヤタに振りかかったその運命に、膝から崩れ落ちそうになる。
どうして?
なんで?
いきなり、そんなこと!
助けなきゃ。
なんとしても。
確かに、昨夜、コヤタも、誰かが毒を飲まされたとか言っていたけど。
そのときには、完全に他人事だと思っていた。
コヤタだって、自分に関わりのあることのようには言わなかった。
コヤタはきっと、関係ない。
これはきっと、ヌレギヌだ!
コヤタが犯人だなんて、あり得ない。
だいたい、誰かを毒殺しようとしてきた後で、あんなふうに笑うなんてできるはずない。
呑気ににこにこ笑って、一緒にお団子を食べた。
ニセモノだけど、綺麗なお月様見上げて、楽しいお月見だった。
そんな悪いことをしてきたやつが、あんなふうに笑えるもんか。
目の下が冷たい。
朝の風が冷たい。
いつの間にか、もう秋だったんだな。
それにしても、ほっぺたが冷たい。
頭のなかはぐるぐるしてたけど、とりあえず、人間には見つからないように走る。
コヤタの匂いだけ追って行く。
そうやってたどり着いたのは、館の奥深くの小部屋だった。
そこは一見、コヤタの馬小屋部屋より、よほど上等の部屋に見えた。
けれど、周りは全部壁に囲まれていて、厳重な感じだった。
入口のところに、衛兵が二人、見張りをしている。
あの見張りをどうするか、まずはそれが問題だった。
あたしは、くるっと宙返りをして、変化姿になった。
衣は置いてきてしまったから、郷の普段着のような簡単なものしか着ていない。
これじゃあ、下働きの女官にも見えないな。
なにかないかな、ときょろきょろと辺りを見回す。
すると、そのとき、すーっと襖が開いて、煌びやかな姫君の衣裳の端がちらりと覗いた。
お?
こそっ、こそっ、と忍び込む。
そこは誰か姫君の衣裳部屋なのか、きらきらした衣が何着も、衣架にかけられていた。
すいません、ちょっとお借りします。
あたしは素早く一着取って、頭から引き被る。
着付けとか、自分じゃできないし。
うん、でも、大丈夫。これなら、きっと、なんとかなるって。
不安になりそうな自分を自分で励ましながら、早足で戻った。
弱気になってる場合じゃないのよ。
今は、コヤタのほうが、何倍も心細いんだから。
それでも、絶望的におかしな身形だ、って自覚はあったから。
物陰から、そぉっと頭だけ出して、衛兵のほうを見る。
気付け、気付け、気付け・・・
こっち見ろ!
と、念を送った。
ふっふっふ。
これでも、妖狐ですから。
念の力は、あると思う・・・。多分。
ふ、とこっちを見た片方の衛兵が、あたしに気付いてくれた。
よっしゃあ!
お次はちょっとだけ手を出して、指先だけで手招きをする。
「おや?・・・どうなされた?」
そう言いながら、衛兵はこっちにやってくる。
こんな綺麗な着物を着た、うら若い娘だもの。
警戒なんか、しませんとも。
「・・・すみません・・・あの・・・」
あたしは消え入りそうな声、ってやつで、もごもごとなにか言う。
恥ずかし気に俯き、えっと、あっと、と言っていると、衛兵は、なんだ?とあたしの顔を覗き込んだ。
「あ。あは?」
目が合った瞬間、首を傾げて、笑った。
その口だけ、狐に変えて、耳まで裂けてるように見せる。
衛兵はぎょっとしたように目を見開いて、そのまま、白目をむいて気を失った。
お、おー。
思わず、拍手。ぱちぱちぱち。
これ、前に、柊さんに、護身用に、って、特訓してもらったんだけど。
やればできるもんだ。
もっとも、効果時間はあまり長くはないから、本当に、緊急に逃げるだけ用なんだけど。
なんだ?と様子を見に来たもう一人も、同じやり方で気を失わせる。
ごめんね?怖いもの、見せちゃって。
今度、狐の秘薬作って、こっそりお届けしますから。
こんなところに衛兵二人転がしてちゃ目立っちゃう。
あたしは、とりあえず二人の衛兵を両脇に抱えて、小部屋に飛び込んだ。
薄暗い部屋の真ん中に、縄でぐるぐる巻きにされたコヤタが、ぽつんとひとり、座っていた。




