11
庵に戻ると、あのふかふかの布団が待っていた。
まっさらのふわふわな布団にくるまって一晩ぐっすり眠ったら、嫌なことは全部忘れてしまった。
翌朝、まだ外が暗いうちに、誰かが戸をとんとんと叩いた。
いつもだったら、このくらいで目を覚ますあたしではないんだけど。
はっと目が覚めたのは、流石に、多少は緊張もしてたのかもしれない。
何事かとあたしは慌てて寝巻のまま戸を開いた。
するとそこには、にこにこ顔の花守様が立っていた。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「ああ、はい。オカゲサマデ・・・」
あたしはまだちゃんと開いてない目をこすりながら答えた。
けど、花守様のほうは元気いっぱいに、それはよかった、と頷いた。
「なら行きましょう。
朝餉前に鍛錬をなさるのが、習慣なのでしょう?」
「ああ、はい、まあ・・・」
道場にいたころは、朝起きたら、まず、家と道場の掃除。
それから、ぐるっと近所を一周走り込み。
確かにそれは日課だったけど。
あたしはまだ真っ暗い外を見回した。
流石に、こんなに暗いうちからは、やってませんよ?
「あの、まだ暗いんで・・・」
鍛錬はもう少し後にしたいです、というのは、流石に気まずくて省略したんだけど。
花守様はぱっと明るい笑顔になって頷いた。
「大丈夫。ここは一応、施療院のなかですから。
怪しいモノは入ってこられません。
それに、わたしもご一緒いたしますから。」
いやいやいや。
そういう心配してるわけじゃないんです。
それに、花守様に、掃除とか走り込みとか、させるつもりもありません。
「あの、もう少し後・・・」
「さあ、行きましょう。」
断ろうとしたあたしを花守様は強引に遮って、あたしの手首をぐいと掴んだ。
「え?いや、まだ、着替え・・・」
「ああ、それなら大丈夫。」
花守様はあたしの腕を掴んでいるのと反対の手をすっと差し上げた。
ひゅうと風が吹き、あっという間にあたしの身支度もすんでしまう。
「おや、少し急がなくては。」
なにやら中空を見て独り言のように言うと、花守様はあたしの手を引っ張って駆けだした。
あたしは慌てて、とりあえず、足を動かす。
花守様は、走る、というより、早歩きって感じなのに、とにかく速い。
足には自信あったんだけど、全速力で走っても、花守様についていくのでやっとだ。
花守様は、昨日あたしが下りてきた階段のところまで行くと、それを急ぎ足で上り始めた。
「え?外に行くんですか?」
施療院はとっても広いから、ここ一周するだけでも、いい運動になると思うけど。
「ええ、外に行くんですよ?」
先に立った花守様は、振り返ってにこにこと言った。
それから先は、階段の上を真っ直ぐに見据えて、ぐいぐいとあたしを引っ張って行く。
あたしはとにかく、必死に足を動かした。
息が切れて、ちょっと休みたいなって思うころになっても、先に行く花守様はけろっとしている。
このヒト、本当にお年寄りなのかな?
年寄りの皮を被った化け物・・・ああ、いやいや、そもそもあたしたちは妖狐なんだし・・・
それに、花守様、見た目は少しもお年寄りじゃないし・・・
なんてなことを考えて気を紛らわせているうちに、ようやく、階段の一番上に着いた。
出口の扉を、花守様は一気に押し開く。
目の前に拡がったのはほんのりと薄明るくなりかけた森。
年中枯れない山吹は、今日もはらはらと花を降らせている。
そのむこうに。
眩しい一筋の光が差したかと思ったら、みるみるうちにお日様が上ってきた。
「あ・・・」
あたしはぽかんと口を開けて、上る太陽を見つめていた。
どうしてだろう。日の出を見ると、わけもなく、胸のなかがしんとする。
あたしは息が苦しかったのも、足がだるかったのも忘れて、ただただ、お日様に見入っていた。
「無理を言ってごめんなさい。
でも、あなたと迎える初めての朝には、きっと日の出を一緒に見ようって。
ずっと、心に決めていたんです。」
・・・なんか、その言い方、ちょっと違うような気もするんですけど?
いや、違ってもいないのか?
確かに、今日は、花守様のところに来て初めての朝だし。
こうして一緒に日の出を見てるんだし。
もやもや考えてたら、ふわっと花の香がした。
胸の苦しかったところも足の痛かったところも、嘘みたいに楽になる。
花守様は、いつもさり気なく、こんなふうにあたしの不調を治してしまう。
昨夜、花守様を、腕がよくない、とか言ってしまってごめんなさい。
そりゃあ、あの治療師さんも怒るわな、と思った。
お日様が上り切るまで、あたしたちはそこでじっと見ていた。
そうして、辺りがすっかり明るくなってから、あの階段をまた引き返していった。
昨日、歓迎会をしてもらった広場の辺りに来ると、思い思いに朝餉をとるヒトたちがいた。
ここって、施療院の食堂だったようだ。
「さあて、鍛錬の後は、朝餉をたっぷりいただきましょう。」
広場のあちらこちらには、木の実や草の実がたっぷり入った籠が置いてある。
みんな、そこから好きなだけとって食べていいらしい。
けど、ここのヒトたちって、料理とかしないのかな、とちょっと思う。
そう言えば、昨夜のご馳走も、生の実と生の魚ばっかりだった。
料理らしきものは、シノダオバサンの稲荷寿司だけ。
けど、それも、ここで作ったものじゃない。
先生の家にいたときには、朝餉といえば、炊き立ての白米と、味噌をといた汁だった。
まだたった一日なのに、先生ん家のご飯がちょっと懐かしい。
あたしは積み上げてあった木椀を借りて、木の実をたっぷり入れた。
花守様はなにも取らない。
あたしたちは適当にその辺にふたり並んで座った。
「花守様は、食べないんですか?」
わたしが尋ねると、花守様はにこにこと、懐からなにやら小さな巾着袋を取り出した。
「わたしは、これ。」
巾着袋の中身は、小さな黒い木の実だった。
花守様はそれを指で摘まんで、嬉しそうに一粒ずつ、食べ始めた。
「なんの実なんですか、それ?」
「山吹の実ですよ。」
そういえば、始祖様の伝説でも山吹の実を食べるところがあったっけ。
あの仔狐って、この花守様なんだよなあ、と改めて見る。
なんか、違和感しかない。
「伝説のヒトが、今、現実に隣にいて、伝説の木の実を食べてる、って、なんか、妙ですね?」
「そうですか?」
花守様はけろっとして口に木の実を放り込んでいる。
「それ、美味しいんですか?」
「わたしは大好物ですけど。
大抵のヒトは、あんまり、っておっしゃいますかね?」
花守様は、食べてみます?と言って、一粒くれた。
ぱくっと一口で食べてみたけど、固くてすっぱくてびっくりした。
「うへっ。これ、食べても大丈夫なんですか?」
「とりあえず、わたしはこう、ぴんぴんしてますよ?」
そうだった。
確かに食べてもからだに害はないのかもしれないけど。
あたしは、もういいや。遠慮しとこう。
花守様とふたり並んで朝餉をとっていると、こっちに近づいてくるヒトがあった。
昨夜は見かけなかったヒトだ。
そのヒトはにこにこと花守様に話しかけた。
「おはようございます、花守様。
早速、お世話係さんと朝食ですか?」
そのヒトはあたしを、お世話係さん、と呼んだ。
それからこっちをむいて、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。
蕗と申します。」
あたしは慌ててお椀を脇に置くと、ぺこりと挨拶した。
「楓です。」
蕗さんは筒袖の衣を着た、多分、治療師さんだろう。
おっとりと穏やかそうな雰囲気のヒトだ。
優しそうな視線をあたしにむけて、申し訳なさそうに言った。
「昨夜は助けてあげられなくて、すみませんでした。
気づいたときにはもう、花守様が行ってらっしゃって。」
あたしは慌てて手を振った。
「ああ、いえいえ、別に・・・」
あたしってつくづく、歓迎されてはいないんだなあとは思ったけど。
そう思われても仕方ないところもいっぱいありそうだし。
そんなあたしに、蕗さんは重ねて言った。
「柊さんたちも、悪いヒトではないんです。
ただ、みんな、花守様のことが心配なだけで。
だからどうか、あまり悪く思わないであげてくださいね。」
「悪く、は、思ってない、です。」
あの治療師さん、柊さんっていうんだ、って思った。
柊さんたちのことは、ちょっと怖いし、嫌われてるのは困るけど。
だからって、嫌いなものは仕方ないし、帰ろうかと思っても、花守様は帰るなって言うし。
「でも、正直ちょっと、困った、かな。」
「それに関しては、おいおい、改善していくと思いますよ。」
蕗さんはそんなに深刻そうでもなく頷いてみせた。
「みなさん、まだあまり事情をお分かりになってないだけですから。
柊さんも、根っから意地悪なわけではないので。
いろいろと分かってくれば、もう少し、態度も丸くなるはずです。」
「そうだといいんですけど・・・」
ため息を吐くあたしに、蕗さんは宥めるように言った。
「花守様にお世話係をつけてほしい、って願い出たのは、実はわたしなんです。
本当に、花守様は、無茶ばかりなさる方だから。」
蕗さんは、にこにことあたしに話しかけながら、ちらりと花守様のほうを見た。
「なにせねえ、花守様は、極端な偏食で。
口にするのは、山吹の実とお酒だけ。
それすらも、忙しければ、忘れてしまう。
眠るのだって、気づけば三日も四日も寝ていないなんてざらで。
ある日突然、体力も妖力も使い果たして倒れ込むんです。
こんなことを続けていていいはずありませんから。
みんなして、いろいろ忠告はするんですけど、聞き耳持ちませんしね。
ならいっそ、専属で花守様をお世話する方に来ていただけないものか、と。」
あたしはびっくりして花守様のほうを見た。
なんだか、あたしの思ってた花守様の印象とは、ちょっと違っているみたい。
花守様は否定も肯定もせず、ただ、少しばかりバツが悪そうに、視線を逸らせた。
「すると、花守様は、それならば、とあなたの名をあげられたのです。
理由は聞くな、とおっしゃってね。
けど、あなた以外のお世話係はいらない、とこれまた頑固に言い張るものですから。
仕方ない、花守様が受け入れてくれるなら、とあなたにお願いしたのですよ。」
「蕗さんも、どうしてあたしなのか、理由は知らないんですか?」
あたしが尋ねると、蕗さんは、にっこりと首を振った。
「花守様は、何もおっしゃらなくても、その行動には、いつもなにがしかの理由があります。
わたしたちは、何より、それをよく知っていますから。
だから、花守様が何もおっしゃらないのなら、それはそれで、そのまま受け入れます。」
「わがままを押し通して、申し訳ありません。
けど、わたしは楓さんにここに来ていただけることになって、本当に嬉しいんです。」
あたしの横で、にこにこと花守様がおっしゃった。
「楓さんがいらっしゃれば、わたしの暮らしも、きっと改善いたします。
昨夜もね、楓さんを休ませなければ、と思うから、わたしもちゃんと早く帰りましたし。
今朝だって、こうして忘れず、朝餉をいただいております。」
「楓さん、ああ、そう呼ばせていただいても構いませんよね?」
蕗さんはあたしに確かめてから、もう一度、楓さん、と呼びかけた。
「花守様には、是非とも、山吹の実とお酒以外のものも口にするように言ってあげてください。
それから、夜は必ず、休むように、ともね。
あなたのおっしゃることなら、もしかしたら、素直に従われるかもしれません。」
「もちろんです。
楓さんに叱られないように、わたしもせいぜい、精進いたしますよ。」
花守様はこっちにむかって、うんうんと頷いてみせた。
両方からにこにこと期待の籠った眼差しをむけられて、あたしは、ははは、と笑うしかなかった。




