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長くて走りにくい衣をからげて走る。
童子はこちらを振り返りもしないけど。
置いて行かれるつもりはない。
地上に出ると、そこは阿鼻叫喚の真っ只中だった。
なりふり構わず、大勢のヒトたちが走って逃げて行く。
むせかえるような、酔いそうなほど、濃い、花の匂いが、辺りに充満していた。
弓を構えた兵士たちが、一斉に矢を放つけれど。
宙を走る矢は、次の瞬間、一斉に燃え上がって、塵になった。
矢の狙っていた先の光景に思わず目を見張る。
そこには、ごお、という巨大な炎を纏い、その中央にすっくと立つヒトの姿。
「・・・花守、様・・・?」
妖狐の襲撃と聞いて、てっきり、藤右衛門かスギナだと思った。
だけど、そこにいたのは、一番意外なヒトだった。
花守様は、無表情な真っ白い顔をして、ただ、こちらをじっと見据えていた。
「・・・返しなさい・・・」
花守様は、まったく感情の入らない声でそう言った。
「わたしの、宝を、返しなさい。」
ごおおおおっ、とその背の炎が渦を巻く。
その瞬間、あたしは跳んだ。
背中で、まずい!と叫ぶ童子の声が聞こえていた。
ていっ!
結界は苦手。
とか言ってる場合じゃないし。
とりあえず、こっちのヒト全部、覆えるだけの幕は張った。
本気の花守様の炎がどの程度の威力かは分かんないけど。
それ言ったら、そもそも、あたし程度の妖力じゃ、花守様、防ぎきれるはずもないし。
なんてなこと、考える余裕もなかった。そのときは。
けど。
やっぱり、さすが、花守様だ。
咄嗟に、あたしに気付いてくれた。
ぼ、よ~ん、と巨大な結界が、花守様自身の炎を弾く。
あ。すいません。結局、護ってもらっちゃいました。
「・・・楓、さん?」
ぷすぷすと煙を上げる炎を纏って、花守様は、こっちに駆け寄ってきた。
無条件に抱き寄せようとするその腕から、けど、あたしは、一歩、後退った。
「楓さん?」
花守様は首を傾げて、上げたままの自分の手を不思議そうに見た。
それから、何が起こったのか分からないという顔をして、あたしをまじまじと見つめた。
けど、すぐに、気を取り直したように、むぅ、と唸ってみせた。
「帰りが遅くなるなら、ちゃんと連絡なさい。
心配するでしょう?」
仔狐を叱るように花守様は言った。
「けど、無事なら、よかった。
さあ、帰りましょう?」
そう言って伸ばされた手を、あたしは拒絶した。
「こんなところまで、なにしに来たんですか、花守様。」
真っ直ぐに目を見てそう尋ねると、花守様は、ちょっとしどろもどろになりながら言った。
「なにしに、って・・・
わたしは、あなたの導師ですよ?
大事なあなたが、強引に連れ去られたと聞いては、放っておけません。」
「べつに、強引に連れ去られたわけじゃありません。」
あたしはきっぱりと花守様に言った。
「だから、どうか帰ってください。」
「帰るなら、あなたも一緒に・・・」
もう一度差し出された手をあたしは握らなかった。
「あたしはここに残ります。」
そう宣言すると、花守様は、ひどく困ったような顔をした。
「いったい、なんのために?」
「あたしがここにいれば、大王はもう、あたしたちとは敵対しない、って言うんです。」
「ならば、わたしがここに残りましょう。」
すかさずそう言った花守様に、あたしは、慌てて両手を振った。
「い、いやいやいや。
花守様は、まずいですって。
施療院、どうするんですか?」
すると花守様は、いつものようにふわりと微笑んでみせた。
「施療院なんて、誰かがどうとでもするでしょう。
それよりも、あなたをヒトジチになど、できるものですか。」
花守様は、今度はちょっと強引に、あたしの手首を掴んだ。
「なにはともあれ、今は帰りましょう。」
あたしは、連れて行かれるまいと、必死になって抵抗した。
「花守様、らしくないです。
ヒトの意志は尊重すべきだ、っていっつも言ってるのに。
ここに残るというあたしの意志は、尊重してくれないんですか?」
え?と言って、花守様は立ち止まった。
それから、呆然とあたしを見つめた。
「もちろん、あなたの意志は尊重しますとも。
しかし・・・」
「あたしは、自分の意志でここに来て、ここに残ります。
あたしはそれを、望んでいるんです。」
花守様は何か言いたげに、何度か口を開きかけたけれど、結局、何も言わなかった。
ただ、あたしのことを、じっと見つめていた。
すごくすごく久しぶりに、あたしは花守様の顔をまともに見た気がした。
ああ、やっぱり、あたし、このヒトのこと、好きだなあ。
そして、つくづく、そんなことを思っていた。
あのあとずっと、まともに花守様の顔を見られなかったけど。
今ようやっと、こうやって、見られて、やっぱり嬉しい。
願わくばこれからもずっと、こんなふうに、真っ直ぐに花守様を見つめられる、あたしでいたい。
だから。
そのためにも。
「あたしも、郷を護ります。」
あたしは、胸を張って宣言した。
うん。でも、それって、みんなのいる郷だから、じゃないのかも。
花守様のいる郷、だから。あたし、護りたいんだ。
もちろん、花守様に、そんなことは言わない。
これって、あたしの一方的な気持ちなわけだし。
そういうの押し付けるのは、やっぱり、ダメだよね。
だけどさ、思ってるのは自由だし、思わなくなるのも無理なわけだし。
だったら、あたしにとっては、これは好機。
ここにいれば、ただいるだけで、花守様を護ることができるんだから。
花守様の傍にいても、あたしにできることは、あまりない。
けど、ここなら、わざわざ、あちらから、あたしのことヒトジチに、って、指名してくれたんだし。
これはもう、迷う余地なんて、どこにもないでしょう。
何を言っても、あたしの気持ちは変わらない。
花守様も、ようやくそれを納得してくれたらしい。
あたしを見つめる花守様の目から、ほろほろと、涙が溢れだした。
ぼろぼろに泣きながら、それでも花守様は、なんとか笑おうとしてくれた。
「・・・いつの間に・・・そんなに立派に・・・」
えっへん。
花守様にそんなふうに言われると、とても嬉しい。
なんて、いつまでたっても、あたしも、導師に褒められると嬉しい仔狐だな。
あのとき、確かに、花守様は、わたしの宝、って言ってくれた。
あれは、しっかり聞いていた。
花守様が、そう言ってくれるなら、あたしはずっと、仔狐のままでいい。
あたしの宝は花守様。
そうしてあたしは、自分の大事な宝を護るために、自分のやるべきことを見つけたんだ。
「・・・せめて、なにか、わたしにできることはありませんか?」
そう言ってくれた花守様に、あたしは、ああ、と思い出した。
「山吹の花と、泉の水が、ほしいです。
ちょっと薬液を作りたいって思ってて・・・」
「薬液を?」
「ムイムイが、ここにいるんです。
けど、ムイムイは、治療術を使うのに、自分の薬液を使ってて。
今、ムイムイはひどく弱ってるんですけど。
それって、薬液を補充できないからなんじゃないかって、思って。」
「まあ。ムイムイ。
あの仔は、ここにいたんですね?」
花守様は明るい顔になって言った。
「分かりました。
花と水は、帰ったらすぐにここへ転送します。
というより、薬液のほうがよいのでは?」
「けど、薬液は、施療院でも必要ですよね?
あれって、作るのに妖力もいるし。
材料さえあれば、あたしがここで作れますから。」
なんだかいつもの連絡みたい。
花守様も、いつもみたいに、微笑んで頷いた。
「分かりました。
それでは、そのようにいたしましょう。
なにより、あの仔がここにいるのなら、わたしも少しは安心です。」
花守様は、あたしの髪を、よしよし、と優しく撫でた。
「わたしの可愛い見習いさん。
どんなに離れていても、わたしはいつも、あなたのことを思っていますよ?」
・・・そういうこと言うから、あたしも、いろいろと誤解しちゃうんだよなあ・・・
でも、やっぱり、言われると嬉しいから、文句は言わずにおく。
「あたしだって、ずーっとずーっと、花守様のこと、思ってます!」
よし、最上級の笑顔、できた!
あたし的には、会心の笑顔だったのに。
花守様は、堪えきれないように泣き出して、そのまましばらく、あたしを抱きしめて、泣いた。




