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あ、そっか。
あたしってば、狐の郷と大王とが、もう敵対しません、っていうためのヒトジチだった。
忘れ物取りに帰るみたいに、ほいほい郷に帰るわけにもいかないんだ。
童子はあたしのほうへ顔を上げて言った。
「もう今日は夜も遅いし。
君の部屋は、用意されてないだろうから。
今日は、ボクのところに泊まっていきな。」
ボクのところ?
あたしは周囲を見回した。
そこは、冷たくて固い土の部屋だ。
敷くものもせいぜい筵しかない。
まあ、ヒトジチの分際で、贅沢は言えないっか。
仕方なく座っていた筵の上で横になろうとしたら、童子は顔をしかめて見下ろした。
「ちょっと。そんなところで寝ないでもらえるかな?」
いや、ここで寝ろって言ったの、あんたでしょうが。
「いいからどいて。」
言い返そうとしたあたしを無造作に押し退けて、童子は、あたしの座っていた筵をよけた。
すると、その下には、地面を掘って、なにやら描かれていた。
童子は部屋の隅に置いてある水瓶から、柄杓で水を汲んでくる。
それをゆっくりと地面に流したら、きらきらと水が光って、綺麗な魔法陣が浮かび上がった。
「うわ。すご。」
思わず感心するあたしに、童子は、ふふんと得意げに鼻を鳴らす。
それから、とんとんとん、とかかとを三回、地面に打ち鳴らした。
あ。と思ったときにはもう、別の空間にいた。
広くて立派なお屋敷のなかだった。
柱は太くて、天井も高い。
贅沢に畳を敷き詰めてあって、あたしは慌てて汚れた足の裏を手で払った。
開け放した縁から、外の庭が見える。
灯篭に灯した灯が、ほんのり明るい。
池には、ふわふわと蛍も飛んでいた。
庭園の上に、あの魔法陣が見える。
どうやらここは、地面の下らしい。
それは、施療院みたいに、地中の洞窟のなかに作られているお屋敷だった。
「湯浴み、は、今日はもう、いいっか。
寝る部屋を用意させるから、あとは、あいつらの言う通りにして。」
童子の指さすほうを見ると、しずしずと女官たちがやってくるところだった。
みんな顔を伏せているけれど、たいそう上品な物腰だ。
女官たちは童子の前にくると、袖で顔を隠しながら膝をついた。
童子は大あくびをしながら背伸びをして、ついでにこきこきと肩を鳴らした。
「ボクは、湯浴みしてから寝ようかな。
ちょっと汗かいたし。
ああ、君も一緒に入りたければ、来てもいいよ?」
冗談めかして言われたけど、いえ、結構です。
童子と別れたあたしは、女官たちに奥の一室に案内されていった。
屋敷のなかは、壁や柱に灯の術がかけてあって、困らない程度に明るくなっている。
ちょっと施療院を思い出す。
連れて行かれたのは、少し狭いけれど、それでも畳を敷き詰めた、贅沢な部屋だった。
なるほど。
狭い馬小屋というのは見せかけで、実はこんなところで暮らしてたんだ。
ちらちら見かける女官や随身も、そこそこの人数いる。
お屋敷に至っては、大王の館より、広さこそ敵わないけど、中の調度類はずっと贅沢な感じだ。
あたしの部屋には夜具が用意されていて、あたしは重たい衣を脱ぐと、さっさと床に就いた。
今日は長い一日だった。
朝はまだ郷にいて、花守様に、いってらっしゃい、って手を振ってもらって。
スギナと都の祭りを堪能して・・・舟に乗って、童子がいて、ご馳走・・・
あ。ご馳走、食べ損ねた。
思わず、ぱちっと目を開けてしまった。
立派なご馳走だったなあ。
あれ、藤右衛門が用意したのかなあ。
藤右衛門の料理って、食べつけないものも多いんだけど。
けっこう・・・そこそこ・・・いや、かなり、美味しいんだよね・・・
昼間、露店の食べ歩きで結構お腹いっぱいになったし。
さっきまでは、それどころじゃなくて、すっかり忘れてたけど。
・・・お腹、すいたなあ・・・
ご馳走、食べられなくて、残念・・・ざ、んねん・・・
それでも、かなり疲れていたんだろう。
残念、残念と思いながら、あたしはいつの間にか眠っていた。
夢を見た。
柊さんだった。
え?柊さんの夢なんて見たの、初めてだ。
夢のなかの柊さんは、両手を合わせるようにして、なにやら必死に訴えていた。
え?なに?なんて言ってるの?
声が聞こえない。
あたしは、なんとか聞き取ろうと、身を乗り出した。
すまん!楓!
あとは、頼む。
は?
なに?
そう思ったところで、目が覚めた。
だだだだだっ、と誰かの走る音がする。
こんな立派なお屋敷で、あんなに上品そうなヒトたちばっかりだったのに。
いったい誰が走っているんだろう?
そう思ったら、がらっ、と戸が引き開けられた。
「大変だ!
化け狐の襲撃だ。」
は、い?
とっさに言葉の意味が分からなくて、首を傾げる。
ばけぎつね、って・・・?
「狐だよ!狐!
君の郷の狐が、君を取り返そうと、襲ってきたんだ!!」
ああ、ややや。
それは、まずい。
ようやく頭が繋がって、あたしは飛び起きた。
せっかく、あたしがここにヒトジチになりにきたのに。
そっちから、喧嘩売って、どうする。
あたしは急いで童子についていった。




