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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
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008 トラウマ

 紅い紗の小さな端切れが、透き通った水面に波紋が起きるたびに、ほろほろと解けて消えていく。

 その様に反し、痛みはあまりない。否、痛みなんてとうに感じなくなり始めていたいたという方が正しいかもしれない。


 だって、弱みを見せたら、もっともっと増えるのだ。


 腕に付けられた、細い紅の線が。


「ほう……泣かぬか。では、これならば」


 本当は泣き叫びたい。痛みなんて感じないと言い聞かせているのは、ひとえに恐ろしいから。


 泣けば、もっと恐ろしいことが待っているから。


 盆に張られた塩水へと押さえつけられた手は逃れる術などない。何故なら、力の差など歴然としているから。自分のものよりも遥かに大きな掌は、塩水から逃げることなど許してくれない。


 いやだ、いやだ、もういやだ。やめて。心の中で何度も言って、じっと耐える。そうすれば、終わるはずなのだ。絶対に──


「……っ!!」


 そこまで考えが及んで、頭が真っ白になった。

 刹那、感じたのは頭の中が真っ白な世界になる感覚と、背に走った衝撃だった。遅れて、じわりと熱が一本線状に背中を走っていく。息が止まって、吐き気が込み上がってくる。

 息ができない。こわい。


 次いで、遅れたようにもう一閃。

 頭の中は冷たいのに、体は熱くて苦しい。本当に涙を流すより、心が先に泣き叫んで、もう頭の中がぐちゃぐちゃで訳が分からない。


「ほう。まだいけるか……彼奴も大したものだ」


 隣で腕を掴んでいる男が、そう言ってこちらを見て舌舐めずりする。右手は自分よりも遥かにか細い腕を掴んで、右手には本来馬を叩くため筈の鞭を携えていた。

 遊ばせていた鞭が、ひゅっと風を切った。

 次がいつ来るのか気が気でなくて、その音にすら身体が過敏に反応してしまう。


「ほう……」


 面白いものを見たような声。否、それともこれは気分を害したときの声だったか。

 身体を震わせながら、出来るだけ縮こまる。次に来る痛みに耐えられるように。泣いて、男を刺激しないように。


「では、これでは……どうだっ!」

「──やっ」


 熱が、上下左右に走る。

 今まで一方方向に与えられた痛みが、全身に広がった。身体が熱い、熱くて痛くて、怖くて。


 じんわりと目元から、水が溢れてくる。


「……ふっ、ぇ」


 ぽたぽたと、塩水に雫が落ちていって波紋を浮かび上がらせていく。

 止めなければと思えば思うほど、歯止めが利かずに、雫は大粒になってその量を増していく。


「こら、泣くな。泣き言など許しておらぬ」


 これまでの穏やかなしゃがれた声とは一転した、凍りつくような声だった。

 明確に、気分を害したのだということが分かる声。冷徹で感情を排した、同族とは思えない者の声だった。


 力の限り髪を掴まれて、立たせられる。ぶちぶちと髪の毛が引き抜かれる音に、背筋が凍ってより泣きたくなる。生々しい感触、もはやどこが痛くて痛くない感覚がなんだったのか忘れてしまいそうだった。


「其方は人形なのだ。人形はな、泣いてはならぬ。ただ仕事をこなせば良い」


 何度も聞いた言葉だ。頷いて肯定してただ「はい」と言えばいい。

 しかし、言えない。言える訳がない。


 涙を流せば流すほど、言おうと口を開けば開こうとするほど、口から漏れるのは苦しそうな自分の息継ぎと涙声だけで、声を出そうと思ってもそれは水に溺るる者の喘ぎ声にしかなりはしない。


「良いなっ!!」


 痺れを切らした男が鬼のような形相で、耳元で怒鳴り散らす。次いでやってきたのは、細かなじんじんする数々の痛みと──水に叩かれた感覚。

 盆の中の水をぶち撒けられたのだと、熱を持った頭ではそれしか考えることができなかった。


 それが引き金となって、また熱い雫が(まなこ)から零れ落ちた。突き飛ばされた衝撃が身体に伝って、打ち付けられたせいで鈍い痛みが走る。うまく受け身を取れなかったせいで、上手く立てない。


 息が、くるしい。痛み云々など、もう既にどうでもよかった。

 ひたすらに苦しかった。


——『何か』が自分の中で爆ぜたのが、分かった。

 目まぐるしく、世界がゆがんでいく。

 痛みが遠のいて、声も覚えていたはずの苦しさも遠のいていく。


 真っ暗な世界に引きずり込まれるように、頭が重くなって──気づけば場所は先ほどと変わっていた。


「だけどひどいねぇ。まったくさ……頭領も分かってほしいものだよ」


 物柔らかな男が、注射器を手に取って具合を眺めている。結ばれた髪は白く長い。物腰に反して、声色が面白がっている。髪は男の感情に合わせて愉しそうに揺れ動いていた。


「人形は人形なのだから、ちゃんと大切に扱ってくれないと困るんだよねぇ」


 先ほどの初老の男よりも細い、青白く筋の浮かんだ手がほっそりとした子供の腕を掴む。

 爪が食い込んで、痛い。


「そう……『ぼくだけの』人形なんだからさぁ」


 閉じられているように細い目が愉悦の色を宿して見開かれた。血とも見紛う紅、同じように口元の紅もまた三日月形に歪められている。


 左腕の袖を捲られる。

 視界の端に、細い注射針が煌めいていた。


「研究ができないの……困るんだよ」


 ぷつりと、肌を越えて『何か』が入ってくる。肘の反対側の柔らかな部分に、鋭い銀が押し当てられる。

 紫と緑の色合いにえげつないほど変色している肌は、抵抗の意志など一切持たない。そのままするすると、薬液が入ってきて腕を圧迫していく。


「最高傑作に、『代わり』なんてないんだから」


 不健康に青白い顔が恍惚とした笑みを浮かべて、そのじめりとした手で頭を撫でてきた。


「ねぇ。僕だけの『お人形』さん』


 吐き気がしそうなほど、只管に悍ましかった。



***


「──アーシェっ!!」


 地響きのような、女の焦った声だった。地の底にあったはずの意識がその息吹を取り返し、動き始めたのが分かる。怖気立つ記憶はいつの間にか影も形もなく、眠りから目覚めた気怠さだけが脳内を支配していた。


「……せんせ」


 ゆるゆると目を開く。寝起きだからか、頭がぼんやりとしてはっきりしない。何より目が乾燥していてしぱしぱ(・・・・)する。

 アーシェの目に一番最初に飛び込んできたのは、ミレイが顔色悪く心痛の色を湛えてこちらを覗き込んでいる様子だった。


「ああよかった。目が覚めたか」


「はー」と傍らで溜め息を吐かれた。それが、ミレイの心労の具合を表していて、アーシェは余計に訳が分からなくなった。


「どうか、したんですか」

「……だいぶ魘されてたんだぞ。お前こそ大丈夫だったのか?」


 どうしたのかと疑問を返しただけなのに、何故かこちらが気遣われた。


「何度も呻いてたし、汗もかいてるし、兎に角見てるこっちは気が気じゃなかった。何かあったのか」


 気遣わし気にミレイがこちらを見てくる。


「どんなひどい夢を、見たんだ」

(アーシェちゃん)


 アーシェの脳裏にアロイトからの約束が浮かんだのは、ミレイの言葉に口を開こうとするのとほぼ同時だった。


(駄目だよ。絶対。ウェイン様とも約束しただろう? 『あの頃』のことは誰にも話さないって。僕たちが許すまで、話してはいけないよ。いいかい?)


「大丈夫です」


 だからアーシェは、誰にも話してはいけないのだ。

 これ以上誰も失わないように。


「大丈夫です」

「アーシェ……」

「良くない夢です。でも、あんまり覚えてません」

「アーシェ」


 視線による、優しい糾弾だった。最早、その声色にも視線にも心配などという優しい色は浮かんでなかった。


平気(・・)、です」


 咄嗟に出てきた言葉が、何故先程と同じ『大丈夫』ではなかったのか。何故発そうとすると声も毛布を握った手元も震えるのか。アーシェ自身も理解できなかった。

 ミレイが、眉を下げて困ったように見続ける。アーシェが頑固で、これ以上は埒が明かないと漸く理解したのだろうか。それとも、ただの言い間違いにしては様子がおかしいと気付いたのだろうか。


「……分かった」


 ミレイは、それ以上何も訊ねてはこなかった。


「熱は……引いてるな。昨日のことを覚えているか?」

「はい。二応は」

「それを言うなら『一応は』だ。一応は」


 アーシェの額に手を当ててきたミレイが、呆れたように笑った。先刻の翳りや厳しさなどアーシェには微塵も感じられない。


「そうか。なら、朝ごはんを食べに行こう。寮の食堂まで案内する」

「……朝ごはん?」

「──ああそうか。言ってなかったな」


 ミレイが歩んだ先は、アーシェがこの部屋に来たときに彼女自身を差し込む陽によって照らしていた小さな窓だった。確か、最後に浴びた陽は西陽だった筈である。勿論、アーシェの感覚ではの話だが。

 その感覚を裏切るように、ミレイがカーテンを開けた。

 差し込む眩しい光は、真昼のそれとも夕刻近くのそれとも違うものだった。


「もう朝だ」


 煌々と差す光は、乾燥した目に少しきつかった。同時にアーシェは落ち込んだ。ものすごく落ち込んだ。落ち込んだという表現が手緩い程度には、気落ちした。


「……そんなに寝てましたか」


 尤も、表情筋が目立った成長を見せておらずおらず、心の中が煩いというのが常日頃の彼女であるため、余程親しい者でなければ見抜けないのだが。


「いいさ。寝る子は育つ」


 魔力症のアーシェには酷だと思いながら、ミレイは軽口を叩いた。言えば、きっと本当のことになるから。ミレイは信じて疑わない。

 目の前にいる、魔力症の少女のために。


「育ったためしなんて、ありません」

「おやそうか? 育つさ。身長も伸びる」

「そう、ですか」


 見上げるアーシェの顔が目に見えてぶすくれている。自分と親子ほど──いや、叔母と姪くらいだろうか──歳の離れた目の前の少女が愛おしくなって、ミレイはその焦げ茶の小さな頭を少々勢いよく撫でてやった。

 ぽかんと口を半開きにして、こちらをじっと見る顔が面白いことこの上ない。笑い声を堪えて、にかりと唇だけを釣り上げる。


 ミレイの目に映るのは、魔力症というだけで他の子と何も変わらない女の子だった。

 だからこそ、昨夜のグレンのことが、アーシェが左脚を引き摺っていたことが、魘されていたことが、頭から離れず巡って消えないのだった。

 拷問描写のしんどさMAX。

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