037 無明と光明
一方その頃、アーシェは歩いていた。
広がる空はすでに、オレンジと紫の鮮やかさを失って紫紺と黒に変化していた。右手に持っている魔道具のランプ以外に光源となるものはない。
あとは黒曜石を砕いて溶かしたような闇が、見えない地平線の先に広がるばかりである。夜空に煌めく月と星は、今のアーシェにとってはただの視界を賑やかす光に等しい。星の位置から現在地点を割り出すなどという高等な技術と知識を、彼女は持ち合わせていない。
心許ない小さな明かりと足裏に伝わる石畳の感覚で、街道だと分かる道をひたすら突き進んでいく。どれほど歩いたかも最早分からなくなっていた。
それでも歩いていた。ただグレンのためだけに。
足場も視界も良好ならば駆け出したいほどだった。だが今の彼女には前述の二つはおろか、体力も、目的地へ行くための確固たる知識もない。
『学校の丘を下って街道を道なりに進めば、王都行きの乗り合い馬車が出ている停留所がある』
それだけを頼りに彼女は歩いていた。まったく無謀である。その停留所が学校の麓にある村を超えた先にあることしか、彼女は知らない。
(大丈夫)
そう、自分の心に言い聞かせる。無謀だなんて百も承知だ。
それでも行かなければ。グレンが危険なのだ。魔法薬がなくなって、症状が悪化したらどれだけ大変なのか。アーシェはそれを知っている。身を以って、一か月前にも経験したのだ。
魔法が暴走して、魔力が自分の体の中で走り回って、暴れまわって、言うことを聞かなくなる。魔法薬という手綱は大切なものなのだ。
加えて、グレンには普通の魔法薬が効かない。魔力が殆どないと、そういう魔力症を患っているせいなのか、魔力を消費して効能効果を現わす魔法薬は基本的にベルナデットが調合したものでなくてはならないのだ。
どういう原理かは知らないが、義兄妹だった彼女はそんなグレンの体質を知っている。
(次に同じようなことがあったら薬が足りないと言っていました)
アーシェの脳裏に、先刻級友が教えてくれた言葉が過ぎる。
かなりまずい状況なのだろう。それでもルイは言葉をなんとか捻り出して教えてくれたのだ。
少なくとも、アーシェにはそう思えた。
ならば自分にできることなど一つしかない。
門限を破っている? だからどうしたというのだ。
たかが学校の規則などよりグレンの命のほうがよほど大事だ。
他人が聞けば空を仰ぎたくなるほど頭の痛くなる優先順位だが、アーシェにとってこれは揺らがない。
改めて決意しつつ、雨の匂いが濃くなった違和感に空を仰ぐ。ややあって、空からはぱたぱたと雫が落ちてきた。
急がねば。ただでさえ梅雨時で湿気を多く含んだ地面である。街道は石畳で舗装されているため被害はそれほどないが、アーシェ自身は違う。
雨に打たれて熱を出してへろへろになって歩いて帰れなくなった、では話にならない。
(アーシェはお人形さんみたいに、僕たちと待っていればいいんですよ)
「待たない」
自分を鼓舞するように、そっとアーシェは呟いた。
特に「人形」という単語に力を込めて、噛み付くように否定する。
それなのに
その刹那、背筋が凍えるくらいに冷えた。恐怖に駆られて背後を振り返る。
誰もいない。
だが、確かに聞こえた。「お人形さあん」と。
ルイのものではない。アロイトとそう年齢の変わらない男の声だった。愉悦交じりで、「人を人だと思っていない」ような本能が警鐘を鳴らすものだ。ウェインに助けられる前は日常的に聞いていた、あの呼びかけだった。
「いや……」
どこか恐ろしくなる。恐ろしくなる要因など、ここにはない。分かってる。
でも怖いのだ。今まで人畜無害なはずだった自身を覆う夜の暗い帷が全て、まるで敵にでもなったような気分だ。喉が詰まって、胸が苦しくて、縫い留められたかのように足がすくんで動かない。手足が冷たい。
ぎゅっと目をつぶる。そのときだった。
気が遠くに行きそうなほど鋭い痛みだった。遅れて、右の足首に熱を感じる。
しまった、と彼女は思った。気配に警戒するのを忘れていた。
そのまま足がもつれて尻を打つように倒れこむ。打った尻が鈍く重みを増すが、足首のそれとは比べ物にならない。手元にあったはずのランプが衝撃と共にころりと転がる。壊れていないことを証明するように続いている明かりは、アーシェの足の違和の元凶をありありと照らしていた。
人面の皺が頭にある蛇だった。いや、雀の体長ほどの大きさのオレンジ色の果実が頭で、深緑の細長い体は蔦のような質感を持っているから蛇ではない。しかし植物でもなかった。アーシェの知っている植物はこうしてヒトを襲ったりしない。
瘴魔だ、そう思った。
すねかじり——人面の模様を持つ植物性の瘴魔である。昼間は頭部に人面の模様もなくヒトが食用にするほど果実は美味だが、夜になると豹変し人々を襲うようになる。旅人が朝に足首を見て怪我をしていたらこいつのせいだと言われるほど凶暴な瘴魔だ。
混乱する中、なんとか腰に手を伸ばす。そうして掴んだ柄を引き抜いて、アーシェはナイフを思い切り小物めがけて叩きつけた。
「ギャッ」
足首を噛んで離さないのが幸いしてか目標にぶれず、ナイフはすねかじりの脳天を見事にかち割る。良かったと安堵した。これで自分の足首に追い打ちをかけては目も当てられなかった。
そのまま息がないのを確認して、頭部の顎を外す。果実なのに頭部とはこれ如何に。そう思いながらじっと見る。血肉を食もうとするための鋭い牙に灯りを照らすと、黒い靴下に滲んだ跡がじんわりと広がっていく。
なぞった指先には赤い液体がへばりついていた。誰のものかなど考えたくもない。
(いけ、る……!)
心中の呟きに合わせてぐっと腹に力を籠める。その勢いのまま、立ち上がろうとした。
再びよろめいた。無理だ。足首の痛みが尋常じゃない。
こんなの初めてだ。やっぱり止血が必要だろう。しかしそんなものより、今は痛み止めが心の底から欲しかった。痛まなければ襤褸になってでも歩いたのに、そう思った。
立てない、歩けない、助けも呼べない。どうしようと思ったとき、再びアーシェの体を衝撃が襲った。今度は一瞬だが、場所が違う。思いっきりぶつかってきたそれは、左肩でじんじんとした熱になっていく。
突然のことに頭が回らないまま、周囲を見回せば暗がりの中に複数の気配を感じた。自分の手元に放られた瘴魔の遺骸の仲間が加勢にやって来たであろうことは容易に推測できた。
たかだかヒトの子一人に後れを取った仲間の敵討ちをしに来たのであろうことも。
こちらはナイフ一本、明かり一つである。魔法は、魔力の扱いを覚えているだけだ。そんなお粗末な魔法とは言えないもの、それだけである。小さな火球を手のひらの上に揺らめかせることすら、アーシェにはまだできない。
これから降る絶望が想像できて、アーシェはただ唇を戦慄かせることしかできなかった。
***
「おいどうしたんだよルー!?」
シィの静止も振り切ってルイは自室に駆け込んだ。息が上がる、胸が熱くて苦しい。しかし背筋を流れる汗はひやりとしていてその落差に吐き気がする。
「どうして……なんで」
あまりの事態に口から本心が漏れ出た。「一体アーシェはどこにいる?」と、ルイの脳内はそればかりで占められる。こんなはずじゃなかった、という後悔と共に。
グレンのところだろうか。しかしそんな誰しもが思い当たるようなところにいるのであれば、女子寮を上を下へとするような大騒ぎにはならないだろう。何よりあそこには保健医の先生がいる。アーシェを発見したとしたら校内連絡用の魔道具で連絡が取れるはずだ。
だったらもう一つしかない。ベルナデットのところだ。
麓の村を少し過ぎてずっと街道を歩いていけば乗り合いの馬車が出る停留所がある。そこしかない。
そこまで思い至って、ルイは目の前がくらりと歪んだ気がした。
夜である。いくら馬車が出ているとはいえ、街の門が盗賊や瘴魔の流入を阻止するために閉まる時間帯である。当然、そういう輩は街の外に跋扈することになる。
そんな危険な道中を通る物好きな馬車はいるだろうか。いやいない。
アーシェは本当にそこにいるだろうか。いないとして、その停留所に向かって歩いているだろうか。
疑問が次々に湧き起こる。考える猶予などないというのに。
いや、いる。ルイの胸に一閃の光明が差した。なぜだかは分からない。だがいる、確かにいる。そんな確信があった。
彼女のことなど、何一つ理解していないと言っていいのに。
なんだかうるさい気配を後ろに感じつつ、ルイは自分の机の引き出しを開けた。そこから、訓練用に使っているナイフと応急処置の道具や薬が入ったベルトを取る。
その勢いのまま立てかけてあった弓と矢筒に手を伸ばし……止めた。明かりを持つのに手元が塞がるのだ。弓矢が扱えるわけがない。素直に諦めて小道具のベルトを締めた。胸当ては諦めた。身に着ける時間が惜しい。
そして、先程まで履いていた磨かれたのが一目で分かる革靴ではなく、脛を守るブーツに履きなおす。こちらのほうが歩きやすい上に守備力が高い。なにより、この学校の周辺に生息していて一番厄介な瘴魔は、足首に嚙みついて獲物を弱らせていく。防御を増やすに越したことはない。
そのまま、玄関ともいえぬ新聞紙一枚程度のスペースに立つ。部屋を見回した。少し前までグレンと自分がいた。その少し前は二人で笑っていることが多い部屋だった。アーシェが来てそんな穏やかなひと時は変わってしまった。だから、少しの間でもいいと彼女を遠ざけようとした。グレンの気も引こうとした。
今、ルイの胸にあるのは違う感情だった。確かにアーシェは邪魔だ。でも、きっと彼女に何かあったらグレンは悲しむだろうという思いだった。同時に、自分の策が失敗したのだという愚かさを実感する。
ならば、失敗が表に明るみになる前に回収しなくては。
強い意志を胸に抱いて、ルイは壁に掛けられているカンテラを手に取った。
部屋の扉にカギをかけたのを確認して廊下を走ろうとする。
「ルー!」
「——いたっ!?」
不意に腕を掴まれた。振り返るとシィがいた。準備のときに何となくうるさかったのはこのせいかと漸く合点がいった。
「お前どこ行くんだよこんな時間にそんな恰好で!?」
早口で捲し立てられる。その裏に潜むのは驚きか怒りか。無理もないだろう。今の自分は演習の授業に出られるような武装をしている。非日常の姿だった。
「シィ、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかよっ!」
「——アーシェがどこにいるのか、なんとなく分かったんです」
目星がついたと、努めて平静を装う。シィは密偵見習いだ。うまく使えば強力な味方になる。
息を飲んだ気配が伝わる。ついでに驚いて目を見張られた。
「……マジで?」
「多分ですけど学外にいます。僕は探しに行きますから、シィはこのことをミレイ先生に伝えて。お願いします」
「せんせ多分、女子寮いるんだけど」
「それは何とかしてください」
女子が男子寮に入れないように、男子も女子寮には入れない。尤も予科生は多少監視の目が緩いところがあるのだが。
もしかしたら、忙しくていち男子生徒の言うことには耳を貸してくれないかもしれない。
それでも緊急だとか、今行方不明になってる生徒についての情報があるとか言えば寮母や寮監の先生は会わせてくれるだろう。多分。
「オレ、女子寮出禁になってんのに?」
と、考えていた時代がルイにもあった。だが、それは一瞬にして失望と共に打ち砕かれた。
忘れてた、シィの果てしのない素行不良を。彼は頭を抱えたくなった。女性を口説くのを挨拶代わりにしているすっとこどっこい、それがこのシィという少年だというのをすっかり忘れていた。
「~~~っ! フォスに言伝頼んでもいいですからっ!取り敢えず、頼みましたよ!」
「あっおい!」
そのまま振り切るようにルイはシィに背を向けた。当然男子寮の玄関は閉まっている時間帯である。どの廊下を通れば人目が少ないか、どの部屋の窓から外へ抜けるのが簡単か。不安と高揚に、彼の胸は鳴ったのだった。
今年中の終了は無理でした。申し訳ないです。これが今年最後の更新です。評価やブクマもありがとうございました。
では、良いお年を。




