036 揺らぐ
「ルイ」
深い緑の瞳が二つ、暗がりに浮いていた。
それがまるで、彼自身の胸の内にある嫉妬心すら見抜いているようで、言い知れぬ居た堪れなさをルイは感じた。
ぞっとする。ヴォルセナではあまり見られない目の色だからか、その色合いと目の光には確かに迫力があった。思わずたじろいでしまう。それほどに。
「グレンは、大丈夫だったの?」
夜の廊下でなければ吸い込まれて溶け切ってしまうような、小さな声だった。いつもと変わらぬ平坦な声だった。しかしその中には確かにグレンへの心配する気持ちがあって、会いたくない、嫉妬している、などと思った自分をルイは惨めに思った。
幼稚で、浅ましいのはどちらだと突きつけられている気がした。
「ねえ——」
「ミレイ先生に聞けばいいんじゃないですか? 先生のほうが知ってますよ」
「……先生が見つからないから訊きに来たの。あなたに」
ここの大きな廊下を左に曲がってとルイが指し示すのに目もくれず、アーシェが続けた。
そんなことを言われても困ると思った。第一、ミレイとアーシェは同室なのだ。いつでも訊けるでしょうと思わないことはない。
同級生に訊くよりも、圧倒的に担任であるミレイに訊いたほうが確実に情報を得られるはずなのに、どうしてそうしないのか。
戦技科の生徒なのに、悪手を選んでいる彼女にルイは嫌気が差した。
「あなたはグレンのことをよく知ってるから。寮でも一緒の部屋だし、倒れたときも一緒だったでしょ?」
取り零しそうになるところだった。嫌気に振り回されて。
取り零したほうが良かったのではないかと、彼女の言葉を聞いて後悔した。
(当てつけかな?)
当てつけだと悪魔が脳裏に囁いた。返すように、そんな言葉が口から飛び出ないまでも、ルイの頭の中を支配する。そんなことアーシェがするはずないでしょう、煽るだなんて高等なことができるわけないでしょう。
理性が宥めてくるのなど今の彼には関係なかった。
当然それは知ってますよ、君よりも付き合いが長いんだから。
にこやかに、言ってやりたくなった。純粋にグレンとの仲を褒められているだけだというのに、沸々と湧いてくるマグマのようなこれはなんだろうか。
純粋だからこそたちが悪いなと思った。
相手がどう思っているのか分かっていない、相手の顔色も読めない、だからこそ純粋な言葉は無神経という棘に変わってルイの心を逆撫でする。
今まで生きてきて何を学んできたんだろうかと吐き気がした。その向上心のなさに、本当にグレンの妹だったのかと疑う。
魔力がなく、確固とした地位も名誉もなく、親という後ろ盾もなくし、なおも俯かずに親友は険しい道を歩んできたというのに。それほど実直で、誠実で、前を向く人なのに。
のうのうと、何も知らずに生きていけたなんて、ああなんて
「……羨ましい」
と、口を突いて出た言葉にルイは目を見開いた。拒絶するように。
今、自分は何を思っていた?
なんて呟いた?
羨ましいはずがない。だって、
「ルイ」
呼びかけられた。思考が途切れてハッと我に返る。
アーシェの声は揺れていた。ルイがずっとだんまりになっているのを誤解している。
そんな声色だった。
「……今は落ち着いていますけど、次に同じようなことがあると薬が足りないと言ってました」
「薬が……大丈夫なの?」
向かい合うほどいつのまにか縮んだ距離もあって、アーシェの声の揺れが大きくなったのが分かる。こんなにもアーシェがショックを受けて感情を動かしているなんて、ルイは初めて見るかもしれなかった。
それが彼女にとってのグレンという存在の大きさをルイに知らせる。
同時に、アーシェは魔力症であるという事実を改めて知ることになった。
「グレンは魔力がとても少ないから、ベルナデット様がずっと診てくれてるの。だから魔法薬、普通のものが使えたいって」
「落ち着いて。大丈夫ですよ」
誰に向けて言った言葉だったのか、一瞬ルイは分からなくなった。矢継ぎ早に要素要素な情報を繋げては言い間違えているアーシェに、そんな彼女を見たこともない彼は必死に頭を回して何かを言おうとする。
年上ならば兎も角、自分より年少の者に言い含めるようなことなど慣れていない中で。
「大丈夫です」
揺らぐ萌葱の双眸を見つめても、先程より怖くないのが不思議だった。
「先生たちが何とかしてくれます。アーシェはお人形さんみたいに、僕たちと待ってればいいんですよ」
そう、一番最初に学級にやって来たときのように、大人しく。そう思って言ったのだ。子供に言い聞かせる風を装って。
『少しは大人しくしてほしい』という問題児的なこれまでの行動への嫌味も込めて。
何でそういうときに限って、普段使わないような言葉選びをするのだろう。
自分でもうまく言えたと、悦に浸ってる場合ではないというのに。
気づけばアーシェが右腕の肘のあたりを掴んでいた。左腕の魔道具の腕輪が顔を覗かせていて、紺の強い夕暮れが濃い灰色のブレザーに一層濃い影を落としている。皺になるほどきつく腕を握っているのはどうしてなのか、アーシェの表情からは推し量ることはできない。
俯きがちになった顔は濃い栗毛のおかっぱが邪魔して、窺うことができなかった。
「アーシェ?」
刹那、弾かれたように少女はルイに背を向けて走り去った。
忽然と気配が消えて非日常な夜の廊下に残ったのは、茫然としたなか『失礼な子だ。嫌な子だ』と、相対的に浮上したアーシェへの評価をストップ安で下げるルイだけだった。
彼自身もそう思っていた。
生き生きとした虫と蛙の大合唱をBGMに、彼もまた寮へと走る。ちゃんと夕飯に時間内にありつけるのかという一抹の不安を残して。
だから、アーシェが拒絶するように、恐怖に駆られて「いや」と呟いた二音はきっと誰にも聞こえず掻き消えたのだった。
***
「ようようお嬢さん、隣座っていいかい?」
夕飯の時間も終わりかけに滑り込んだとあってか、食堂は普段の姿からは信じられないほど閑散としていた。一部屋に何十と広がる複数人掛けのテーブルそれぞれに一人が座っていればいいほうである。
そして当然、あらかた成長期の子供たちに食い尽くされた主菜と副菜に碌なものが残っているはずもなく。ルイは食堂の婦人たちに貰った冷めて硬くなりつつあるパンに野菜スープを浸して齧るという余興に暇を費やしていたのだった。
その最中だった。
軽薄な中に人情味のある声が彼を呼んだ。後ろに下手で結んだ黒髪の尻尾を跳ねさせて。
ここ数ヶ月、毎日のように聞いている人物のものである。添えられている軽口なんてもう慣れた。
「僕をお嬢さんに見間違えるなんて。……とうとう年貢の納め時では? シィ」
「わりーわりー。ルイくん、ほんと女の子に見えちゃうから」
「目の悪い密偵見習いなんて世も末ですねえ。ああ、もしかしてとうとう両刀使いになりました?
悪いんですけど僕はそういうお誘いはお断りなので他をあたって頂けます?」
「ちっげえわ。男好きになるわきゃねえだろ」
ぐっと拳を握り、シィが熱弁を振るうまであと、3・2・1。
「大体この世にかわいー女の子たちが星の数ほどいて俺様との出会いを今か今かと待ってるってのに男にうつつぬかすわきゃねえだろ。そんな暇ねえわ。第一、この学校の女子ですらまだ口説いてねえし。男狙うほど相手不足してるわけねえだろ。俺様ってば伊達男よ。伊・達・男! この学級一番の!」
「うん。で、シィ」
「あ?」
「要件はなに?」
「……ルイくんってば、ノリがわりぃ~の!!」
なんだよーといじけて大仰に溜息を吐く姿が、雨に濡れるできの悪い子犬を思い出させる。これでルイの二つ上、グレンの一つ上で我らがミレイクラスの最年長である。何かの間違いであってほしかった。
「僕、見ての通りご飯食べてる最中なんですよ。お話の相手が欲しいなら談話室にお願いします」
「つれねえの。グレがいなくって寂しいだろうと思って、話し相手やってやろうと思ったのに」
「うん、いらない。十分間に合ってます」
「ま、いいや。俺様は俺様で話あるし」
「話聞いてた……?」
「遠慮すんなって!」
「してないよ?」
どこまでもゴーイングマイウェイを突っ切ろうとするシィに、ルイは早々に匙を投げた。早くしなければスープが冷める。食堂が閉まる。
閉まっても食器は明日の朝返却すればいいがルイは朝に弱い。グレンがいなくなって朝起きられるのかすら怪しいというのに、余計な仕事を増やしたくなかった。
「……で、真面目な話。グレの容態はどうよ。俺見たときは結構やばかったけど」
「落ち着いてますよ。というか、密偵見習いならそういう情報も方々から集める訓練したほうがいいんじゃないですか?」
「いやあ。信頼できる情報筋から仕入れるのも密偵の役目なんでね」
「……ああそう」
ルイの真向かいに舞台俳優のように格好をつけながらシィが座った。
その椅子から落ちたりは……しないよね~と暢気に思うルイである。正直、色々あった後におしゃべりと話すのは疲れるのだ。
気遣いは気遣いとして、尻でも打って退散してくれた方がありがたい。
「魔法薬が少し足りないみたいなこと、先生たちも言ってましたけど。ベルナデット様に相談するから大丈夫だって」
「ベルナデットってあのオークス? めっちゃ有名な女医さんじゃね?」
「でしょうねえ」
「……熟女は趣味じゃねえけど、あいつどんな伝手持ってんだよ」
「知らないよ」
そんなどうでもいいことを訊ねられたってルイだって返答に困るのである。本当にどうでもいい。
「アーシェのことも診てる方なんでしょ。任せていれば大丈夫ですって。元気になって帰ってきますよ。多分」
「おっ、むきになっちゃってどうしたの? ルーってば」
「むきになんか、なってませんけど」
紳士らしい微笑を浮かべて、揶揄ってるシィへ抵抗する。
幼稚なのはどちらだか。傍から見れば子供のやりとりそのものである。
実際子供なのだが。
「そういやアーちゃんのことだけど、お前たちなんかあったの」
「……何が」
「なんかギクシャクしてるっぽいから。グレとお前と、アーちゃん」
「……して」
ないとは言い切れなかった。アーちゃんと呼ばれただけで誰を指してるのかくらい分かる。
言い淀んだのを見逃さないシィが、ふーんと合点が言ったようにルイの様子を見ていた。
「ま。いいけどよ。貴族の坊ちゃんならそこら辺のやり方分かってるだろうし。俺から言うことはねえけど。……でもあんまりやり過ぎて、その優しい王子様のめっき剥がれたら大変だぜ~?」
「ご忠告、どうも」
「いーってことよ。もっと感謝してくれてもいいんだぜ? この兄貴分サマに」
「しない」
しつこさ故に反応がぞんざいにる。
ちょうど皿も空いた。食堂のおばちゃんたちがキッチンから姿を出して、ちらほら掃除を始めている。頃合いだなと思って、ルイは食器の載ったトレーを手に立ち上がる。
本当はいつも通り食後の紅茶を貰いたいところだが、時間がない。楽しみだった紅茶の時間は明日の朝までお預けだ。
「せんせが、気にしてたぜ」
「えっ」
いきなり出された名前に、あからさまに動揺してしまう。
シィがせんせと呼ぶのは決まって担任であるミレイのことだ。どういう意味か掴みあぐねて、ルイはシィを見る。
にたりと笑われた。
してやられた。引っかかった。
「! あのねー!」
「——いましたわ! 二人ともー!」
何か言って一矢報いてやろうとルイは口を開いたが、それが叶うことはなかった。
女の子の声である。周囲の人々の視線は、ルイたちのも合わさりその少女——違う。二人だ。少女たちだ——に集中していた。
深紅の髪を真っすぐに伸ばし紺色のリボンを側頭部の左右で揺らしている少女と、癖のない濡羽色のショートヘアで片目を隠している長身な少女だった。
ルイたちが自分たちの級友だと気づくのに時間はかからない特徴である。
「——リリィ? レイス?」
「やっと見つけましたわ! まだ食事中でしたの!?」
「い、色々あってですね……どうしました?」
「アーシェが見つからないんだ」
リリィ——赤髪の少女の気迫に押されてたじたじになるルイを襲ったのは、レイスの持ってきた寝耳に水という形容でも足りないほどのニュースだった。
普段困り眉で下がりがちになっている眉をさらに下げて、心配そうに彼女が状況を説明する。
「女子寮のみんなで探しているんだがどこにもいなくて……ミレイ先生が一緒なのかと思って話したら先生も知らないみたいで」
「本っ当にいい迷惑ですわ! 食事が終わってからずっとですわよ! あの問題児!」
「ど、どうしよう。もしも……なにか事件に巻き込まれてでもしたら」
「どうしたもこうしたもありません! 事件だったとして、いなくなったのは門限すぎたあとでしてよ。破るにしたってもっとやり方というものがあります。このままじゃ連帯責任ですわ!」
戦技科の女子寮の全員で探している。その事実が事態の深刻さを伝えていた。
ぷりぷり起こっている級友と心配で仕方がないというようにおろおろしている級友。二人の姿は見えているのに、ルイの頭は拒絶する。
誰がいないって?
誰を探しているって?
口の中に残ったスープとパンの風味がじゃりじゃりとした舌触りの無味に変わっていく。
おーい、ルーと独特な愛称で呼びかけるシィにルイは反応できずただ立ち尽くしていた。




