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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・初夏(梅雨)
38/42

035 怖気2

「大丈夫? 気分はどうかな。落ち着いたかい?」


 夕方の保健室は消毒液の匂いが普段よりも濃く感じられた。上級生が思い思いに訓練や講義で作った生傷を手当てしている気配を背後で感じながら、ルイは保健医の問いかけに肯いた。


「はい、大丈夫です。……あの」


 言い淀みつつ右端へと視線を滑らせれば、二列それぞれに一〇台以上もの主のいないベッドが並ぶ。

 そのなかで、すぐそこ。ルイから見て右の一番手前。

 一つだけ雰囲気を違えるようにカーテンで囲まれたベッドが目に入った。


 言うまでもない。グレンが眠っているベッドだ。

 きっと処置が良かったのだろう。先程よりも容態が安定しているのか、喘鳴混じりの呼吸は聞こえてこない。距離が空いているから聞こえないというのもあるだろうがしかし。

 それがいっとうルイを安堵させた。

 ちゃんとグレンでも、普通の平民よりも持っている魔力が少ない彼でも、使用できる魔法薬がこの学校にあるということが明らかになったのは、ルイにとって安心できる大きな要因になり得た。


 唯一の親友なのだ、失いたくない。


「ああ、彼かい? 大丈夫だよ。今は魔法薬も効いてる。効き具合と体調にもよるけど今日一日様子を見て、大丈夫そうだったら帰れるよ。心配いらない」

「そう、ですか」

「……むしろ、僕は君のほうが心配かな」


 保健医が犬のような人懐っこい笑みを浮かべた。仕事柄必要ということもあってかさすがに上手い。作り物ではなく、自然だ。

 うっかり心を開きそうになる。


「目の前で同室の友人が倒れたんだ。……まだ一年生だろう? 予想外のことで怖くなって、トラウマになる子もいるからね」

「それは……大丈夫です。一応、僕も戦技科の所属なので」


 面と向かって心から心配そうな視線を送ってくる保健医に、ルイはいつものように微笑んだ。


 それを保健医が悲しそうに眉を寄せて受け止めているのに気づいて、ルイは鳩が豆鉄砲を食ったように呆けてしまった。「そういうところが少し心配かな」と、続けられた優しい声はルイの耳に微かに届いただけだった。


「君、多分上級貴族の出身だろう?」

「ええっと……はい」

「うん、だからだね。貴族の——特に上級貴族の子はいつも弱みを見せたがらないんだ。いつも笑って良い子の振りをしてやり過ごそうとする。

 でもね、ばれてるよ」


 頬の筋肉が固まって笑みが強張ったのが分かる。社交的な微笑という鎧が、少年の顔から崩れ去っていく。

 それを見た保健医がははーんと、したり顔をしているのはルイの見間違いじゃないだろう。悪戯の成功したとでも言いたげな、大人げない笑顔だった。


「……そんなに隠すのが下手じゃないって、自分でも思っているんですけど」

「大人だもの。僕らだってそれぐらい分かるよ。何とか隠そうとして苦しんでる子供たちの様子に気付くのが、僕たち教育関係者の役目だよ?」

「苦しんでなんか……」


 その続きは言えなかった。

 ルイには、自分が言える立場にないことくらい分かっている。心がきしんで、いたいくらいに。


 「……悩みがあるんだったら言っても良いんだよ。上級貴族の教育がどういうものか僕はあまり分からないんだけど、ここでは貴族の子も平民の子も変わらない。先生たちは守秘義務を持っているし、僕らだってそう」


(この先、貴方を害そうとする者は数多くいるでしょう。だからこそ、殿下には覚えていて頂きたいのです)


 こういうときに、どうしてゲイルの言葉が思い出されてしまうのだろう。縋りたくなってしまうのだろう。いつもは、説かれると怒られているようで、その厳しさから逃げ出したくて堪らなくなるというのに。


「ここにいる間は、もう少し僕たち先生を……大人を信頼してほしいな」


(ご自分の目で、信の置ける者を確かめられますよう、その目を磨いてください。そして信頼してください。裏切りを前提に関係を築きたい者など、おりません)


「……分かっていたはずなのにな」


 頭の中では理解できていたつもりだった。しかしそれはきっと表面だけのものだった。

 心の中にすとんと——それこそ「腑に」——落ちたのは、ルイにとって初めてかもしれなかった。


 呟きに保健医の男が反応してこなかったのが、彼にとって唯一の救いだった。



***


 ややあって、グレンとルイの担任であるミレイが来たことによって、保健医との相談話は打ち切りとなってしまった。我らが担任はというと、脇に挟んで持ってきた資料を睨みながら、保健医の話を聞きつつ、床にある顔色の悪い教え子を見ている。

 その姿はルイの目には、カタリナが担任をやっていた頃よりは遥かに生き生きとしているように、そして忙しさも副担任時代の比ではないように映った。


「……ベルナデット様の見解と判断を教えてくださって助かりました。まさかお知り合いとは。魔力症のことは知っていましたが、魔法薬の投与については特に個人健康表(カルテ)にも記載がなかったので。

 魔力の少ない素材から作ったものをそのまま使用していいのか、判断に迷ってしまって」

「構わない。ベルナデット様には『話を通せ』と言われているんだ。事前に聞いてあるこいつらの事情や判断基準はあるが、私では魔道に明るくない分、判断に迷うところは多いからな。

 むしろこっちが助かった。礼を言う」

「いえ。仕事ですから。……とは言え毎回、一刻も争うときにカルテに情報がないのは如何なものかと思います。

 なんとか、投与可能な魔法薬を教えて頂くことはできないでしょうか」

「できるとは思うが……私は魔道については明るくないから、できればそちらのほうから直接、ベルナデット様に相談したほうが早いと思うが」

「ああ、そちらのほうがいいですね。できるのでしたら是非」


 とんとんと話が進んでいく。これでもう、きっとグレンは大丈夫だ。ここまできちんと見てくれる先生がいるのなら、きっとまた元気に学び舎に帰ってくるだろう。


「グレンはどうですか? 大丈夫そうには見えますが」

「鎮静と呼吸を楽にする薬を使っています。解熱薬も投与はしていますが、少し熱の引きが悪いですね。魔法薬の拒否反応(アナフィラキシー)を疑っていたんですが、心当たりは?」

「いや、特には」

「じゃ本人に聞くしかないか……」


 保健医がミレイの返した答えをカルテに書き留めて書面を見つめる。

 怪訝そうに、眉を寄せながら。何かを考えるように、すうっと目を細めて、顎の下を何度か万年筆で叩いていた。


「今日の昼、学校にいるうちは先生から見ても何ともなかったと。……そうなると、原因となる『何か』が今日よりももっと前に体内に取り込まれた可能性がありますね」

「な、そんなことがあるのか。急性的に起こる症状だけじゃないと?」

「珍しいことではありません。魔道師も、少し原理は違いますけどマナが多い場所に行くとなることがあります。自分が耐えられる魔力の量を把握していない人は、特に。自覚症状がないまま、数日後から数週間後に症状が出て……ということが多いですね。しかし……そうなると弱りましたね」


 ほとほと困ったと言いたげに、保健医が苦しい声を出した。頭を抱えている様子が、距離を置いて見ているルイにも分かった。


「元々、魔力が少ない人に投与するための魔法薬はここには揃ってないんです。今年度は事情持ちの生徒や学生が多いということで、できるだけ置いておくようにしてるんですけど。設置許可が国立研究所から下りたのがつい最近で、仕入れるのも上手くいってなくてですね。

 こういう症状の場合、落ち着いているように見えて症状が悪化することもあるので……」

「つまり?」

「……次に同じ症状が起こった場合、投与できる魔法薬が足りなくなるか種類がもっと限られることになりますね。そうなると、少し危ういです」

「そうか……その点も含めて、ベルナデット様には早く連絡を取れるようにしよう」

「できれば、薬も融通していただければと思います。グレン君に投与する分だけで構いませんので」


 話がひと段落したのだろうか。保健医の傍を離れて、ミレイがルイのほうへと歩んできた。教え子の顔を見るなり目を見開き、伏せてしまう。

 それが余計に、恐怖感を煽るように彼には感じられた。


「グレンは……大丈夫なんですか? ちゃんと魔法薬は足りるんですか?」

「心配いらない。世話になっている魔道医の先生がいるから、グレンのことはその人に話せば大丈夫だ。だから——」

「ベルナデット様ですよね? 知っています。大叔母上(おばあさま)の知り合いですから。でも……」


 自分たちの力ではどうにもならないことがあると、ルイは知っている。そのせいで手折られてきたことが幾度となくあることだって。絶望を知るには早いという年齢なのに、そうした出来事の結末を知っているということがルイを恐れ、怯えさせる。


「大丈夫だよ。絶対に助ける」


 肩をやんわりとした力で叩かれた。強張っていた全身の筋肉が解れていくのが分かって、漸くルイは自分が緊張していたのだと自覚した。


「ここから先は私たちに任せろ。いいな。お前は普段通り生活しなさい」

「……はい」

「こーら。元気がないぞ、しゃきっとしろ。しゃきっと。……グレンが目を覚ましたら、笑われるぞ」


 明るい調子のおどけた担任の言葉に、釣られて笑ってしまう。まだ笑える、ならきっと大丈夫な気がした。なんとなく、だけれども。

 その後すぐ、追い立てられるようにルイは保健室を後にした。最後に見た時刻は黒の表刻(ごごろくじ)で、既に寮で夕飯が始まっている時間だった。


 グレンがいないのだと、気付いて人っ子一人いない薄暗がりの廊下をルイは走り去っていく。こういうとき、いつもグレンが席を取ったり料理を取っていたりしてくれているのを思い出して、あんまり頼らないような生活を送らなきゃいけないなとルイは自分を戒めた。


 そんなときだった。自分よりも小さな影が、目の前に現れた。

 月明りに照らされた髪色はもはや黒色だった。顎ほどの長さの真っすぐなおかっぱがささやかな風に揺れ、深い緑色のアーモンド型の瞳が影の中に浮いている。

 まるで、夜空の下を歩く猫のように。


「アーシェ……」


 目の前の同級生の名前をルイは茫然と呼んでいた。

 今一番、出会いたくない人物の名前だった。

 ルビはジョークで入れてたり、現実世界と照らしあわせるとこんな感じっていうので入れていたりするものです。見辛かったらすいません。

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