034 怖気1
久方振りに晴れた、盛夏の月の初旬らしい空だった。梅雨に入り、あと数日は雨模様か曇り空に悩まされる日が続くであろうヴォルセナの気候にしては穏やかな天気だった。
しかし梅雨開きが近いというのに、自分の、この気持ちは一体なんだと言うのだろう。
寮の部屋、自室へ帰ってきたルイの気分は晴れなかった。それどころか雷鳴が轟き、波は高くうねり、雨が打ち付けるようなそんな荒れ模様である。夏特有の風をはらんだ昼過ぎの光が室内に差し込めど落ち着かない。自分たちと同じ低学年の生徒たちが、思い思いの放課後を過ごしている声が窓越しに聞こえてくる。
絶対に今の自分にはあり得ない状況に、彼は途方もない寂しさを感じた。
(僕の方が、アーシェよりも仲良しなのに)
ささくれ立った心はブレーキが利かない。そんなことを思いたいわけではない、思っていたって仕方がないと分かってはいるのに、
「大体彼女のどこが良いんですか」
ほら今だって、口を突いたのは僻みと妬みである。激しく暴れまわりそうになる心はルイには抑えられそうにない。
「たった一年ちょっとですよ。兄妹でいたのなんて。心配なのは分かりますけど」
滝のような思いを閉じ込めた独り言が、聞く宛てのない室内に木霊する。さすがに危うさと自分の変人ぶりを自覚してルイは二段ベッドの上段へと昇っていった。独り言を喋り続ける変人、もとい狂人などと噂を立てられては堪ったものではない。やろうと思えば何とでも言うことはできるが、落とした評判を回復する手間を考えればそもそも落とさないほうが良いのは自明である。
何より、ゲイルに自分を貴族科へ転科させる口実を与えることを避けたかった。知れば「今までの教育とご自身の努力は身を結ばなかったようですので」と、にこやかに——それでいて全然目が笑っていない冷たい声で——ルイに「役立たず」の烙印を押す。
隠しに隠した感情と権謀とが渦巻く貴族社会で、自分の考えや感情を読ませないことは『身につけなければならない』処世術だ。自分一人の気の緩みで相手に隙を与えたが最後、そのペースに食われて飲まれて、大切な人まで巻き込む。
そのため貴族は自分が害を被らないようにに、周囲を巻き込まないように、自分の顔に仮面を取り付けつつ強かにやり過ごす術を学ぶのだ。
今のルイには、それができていない自覚があった。アーシェに対して苛立つ自分を棚に上げることなどできない。未熟な己に嫌気が差すが、そのことに気付けただけむしろ褒めてほしい。
だからルイは自分の枕に顔をそっと押し付けたのだった。息を吸えばかび臭い匂いが鼻の奥へ通っていくのが分かったが、そんなの気にしてなどいられない。
「僕の方がずっと一緒にいたのに。一緒にいる期間が長かったのに、家族っていうだけで、あんなにも甲斐甲斐しく」
「大体何も知らないのにも呆れますよ。この前のテストで出されたのも一般常識みたいなものだっていうのに、今までどうやって生きてきたんですか。この学校に入学する学力もちゃんとあったんですか? 笑わせないでくださいよ。この学校に入ったならそれなりに努力してくれませんか」
「魔力症だって、体が弱いのだって分かりますよ。だからって一週間に何度も熱を出したり、体調を崩したりするのは自己管理ができていない証拠では。虚弱すぎますよ。グレンだって、フォスだって、魔力症だけど頑張って学校に来てるのに。本当にこの学校で生きていけるんですか」
「それなのに、グレンに甘えっぱなしで、のうのうと生きられて。あんなに笑って幸せそうに……昔話をするくらい」
いつの間にか、ルイが掴んでいたのは毛布になっていた。薄手の滑らかで緑色の毛を持つそれは、夜に使うものとは言え夏場には暑い厚手気味なものだった。
抱き締められるくらい分厚く畳まれたそれを、ぐっと顔に押し付ける。息が苦しい。きっと毛布のせいだ。喉が震えているせいじゃない。
「僕の知らないグレンを、知ってるなんてずるいよ」
僕の方が、知ってるのに。
口には出さないと思っていたはずなのに、するりと勝手に出ていってしまう。敬語という仮面が取り払われた彼の本心は、脆くてよわいものだった。
「──僕のほうがずっと一緒にいたのに、ずっとグレンを独り占めして、ずるい」
『思っているまでは良いのです。口に出せば、それは真のものになってしまいます。誰かを傷つけたり、喜ばせたり、そんな動きのあるものになってしまうのです』
そうやってルイに諭してくれたのは、ゲイルだったか。それとも爺代わりでもあるギデオンだったか。
誰が言ったか覚えてもいない──しかしずっしりと心に重く響く言葉が、ルイの頭の中に居座る。
それに反論できないのが、言い訳ができないのが、正しいことだと分かって逃げられないのが只管に苦しい。
「僕だって頑張ってるのに……なんで君は、何も知らないで」
そこまで紡いで、ルイは歯を食いしばった。これ以上言ったら自分の中の『何か』が壊れてしまう。惨めなものに成り果ててしまう。
成り下がるつもりなど、今の彼にはまだ微塵もなかった。
けれど一言だけ。嫉妬と羨望と怒りと失望と混じった激情に、ルイの思考は動いてしまった。
『無の民』と、御伽話にも等しい伝説の存在を不意に彼の脳裏に浮かんだ。
数週間前のキラーマンティスの襲撃によって姿が変化したように見えたアーシェの姿はこのまさしくそれだった。聖書にしか記されていないような、伝説の存在そのものに見えた。
負傷したグレンと彼女の元に駆けつけたときに見えたその髪色は、銀髪だった。普段の渋皮の栗に似た色合いではない。月の光を集めたかのような銀糸だった。そしていつもとは違う、足元まで届く真っ直ぐな長い髪だった。
聖書では「無の神と直接契約を果たした」者しか持ち得ないとされる色合いの──ものだった。
森の中は深部ということもあって薄暗かった。光の当たり具合のせいだろうと、実際はルイだって理解している。今のアーシェは銀髪なんて色合い欠片も見当たらない。長髪もきっと何かの見間違いだろう。今の彼女は普段通りの地味な焦茶のおかっぱだ。
そもそも聖書に出てくるような非現実的な存在が、こんな身近にいるわけがないのだ。
そもそも、アーシェが大幅に姿を違えていたというのなら、あの場にいたグレンは何かを言ってくるはずである。彼もまたこれまでの教育内容から当然聖書の内容は理解しているはずで、そんなグレンが何も言ってこないのはおかしい。
そこまで考えて、うんざりなアーシェという少女について思いを巡らせていたことに、ルイはげんなりした。
あんなにも無知で、努力を知らない子供が無の民であっていいはずがない。そう決めつけて、これ以上心の余裕を消耗しないようにと考えを切り上げようとする。
大神や精霊を生み出した創世神である無の神と直接契約を交わしたなんて、それはさぞ素晴らしい『人間』だろう。無の民というのは。無の力を失った『ヒト』である自分たちと違って。
もし仮にアーシェが無の民だったとして、それは彼女が努力を怠ってきた証左になりえる。ルイにとって努力とは当たり前にすべきもので、自分の居場所を得て守るためにしなければならないものだった。そして、もしアーシェが無の民じゃなくともグレンのことがある。グレンはあんなに努力して今の彼を築いているのに、なんで彼女はその努力が見えないのだろう。
努力もせず、このドレッドノート中等学校の厳しい環境で生きていこうとするのだろう。
だから、ルイはアーシェが苦手だ。嫌い、なのかもしれない。認めたくないのは、先の諭された言葉があるからだった。それだけが今の彼の拠り所だった。
拠り所にして、心の靄を飲み込んでじっと耐え忍ぶ。彼にはそれしかできなかった。相談などという、下手すれば自分の弱みを他人に易々とみせることはできなかった。何より一番の相談相手であるグレンは、ルイの傍に今やいないも等しい。
ルイは子供だ。秋が来れば十一になる少年である。当然、見てきた世界は狭い。他人という、自分とは別の世界を生きてきた者が隣にいないという状況は、その世界の狭さを増長させる。
だから気付けないのだ。
仕方がない。いくら貴族であっても所詮は子供なのである。嫌なことというのは目に入らず、振り解こうとしても執拗に付き纏う。
「——ルイ!」
寂寥感と悔しさに眠気も混ざってうとうとしていた意識は、自分の名前を呼ばれたことで一瞬にしてルイの元に帰ってきた。ベッドの柵越しに一瞥してみれば、赤い顔をしたグレンがこちらを見ている。きっとルイを探して走り回っていたのだろう。赤い顔をして息を切らせて、胸が激しく上下しているのが彼の苦労を伝えていた。
「なんです」
「『なんです』じゃない! お前!」
つかつかとベッドに早歩きで近づくグレンに対して出たのは、ルイ自身も驚くくらい他人行儀で冷ややかな声だった。
「帰るときは一緒だってゲイル様に言われてるだろう!? 勝手に帰るんじゃない!」
怒り心頭に発するとは、まさに今のグレンのことを言うのだろう。それほどまでに彼は激怒していた。頭に血が上りすぎているせいか息を整えるのさえままならないらしく、言いながら咳き込み続けている。
どうでもいいな、と冷めた気持ちが勝った。
「どうせ学校の中ですよ? 考えすぎですよ。刺客なんてそうそう入り込めるわけがないんですから。それに、僕の護衛見習いの仕事を投げ出したのはグレンのほうじゃないですか。アーシェとのお話は楽しいんでしょう。邪魔をしてはいけないと思ったんですよ」
「なっ、ルイ……お前」
「それとも僕からゲイルに言ってあげた方ががいいですか? もっとグレンの側近の仕事を減らしてって。アロイト殿のご息女の面倒も見てるみたいだから、きっと僕のことは負担になるだろうし、って」
滔々と淀みなく喋る自分に嫌気が差す。恐れすら感じる。それは脅しだった。
怖い、嘘だ。
本当は気付いてほしい。けれどそんな『弱み』を言えるはずもない。
胃の腑の奥から競り上がって来た、吐き気と気持ちの悪いぐるぐるをぐっと押し殺す。仮面代わりににこりと微笑めば、それはもう『貴族のやり方』そのものになった。
「ル……イ」
「でも、そんなことになったら困りますよね。貴方は」
言葉を失ったであろうグレンの様子に、漸くルイの胸はすいた。彼の絶句具合からして確実に言いすぎた。しかし、それだけこちらは本気である。
本当は「側近見習いの仕事」と「元家族」と、どっちが大事なんだくらい詰めてやりたかったがすんでのところで理性が止めに入ってやめた。グレンが選べる立場にないことくらいルイは知っている。
だから、ゲイルが手を下すのを匂わせるだけにしたのだ。
さて、言うだけ言ってすっきりしたところで彼の胸中を襲うのは多少の罪悪感である。グレンはどう出るのかと楽しみにしながら、ルイは外した目線を彼に合わせる。
——動きに重なって、ベッドの揺れと何かが大きなもの落ちたんじゃないかという地響きの音がルイを襲った。
「——グレン!?」
ベッドの梯子を踏み外さない程度に滑り下りる。息を荒げ目を閉じ、痛みを堪えるようにグレンは床に頽れていた。顔は赤みが引かず、咳き込みが激しい。——先程とは比べ物にならないくらいに。
肩を揺すった。いつも自身の傍にあって、一歳しか違わないというのに頼りになる背だ。ルイがずっと尊敬もしていた背は、丸く縮こまって息苦しそうに丸まっている。
震えた手で触れる。
返事はない。こちらを見ない。シャツ越しに触れたグレンの肌は冗談ではないかと思うほど、熱を持っていた。
刹那、ルイは唐突に理解した。
彼は言葉を失ったのではなく、自分とのやり取りすら精いっぱいだったということに。
「噓でしょう……!? グレン、グレン!!」
「おい、ルー! どうした?」
「シィ!!」
部屋の扉越しに級友で隣人である少年の焦った声が聞こえる。ルイは声を助けを呼んだ。声を張り上げた。あらん限りの力を込めて。
「先生を、呼んでっ!! 誰でもいいから、呼んでっ!! 早く──!!」
先程までの意地などとっくのとうに消え去って、ルイの胸中を支配したのは失いたくないという恐怖それだけだった。
ちょっと視野が狭いけど仕方ないね。一〇歳だもん。と思ってます。




