033 胸内苦悶ディソナンス
梅雨の明けきらぬ頃の話である。
ほんの少しの悪魔の誘惑、ほんの少しの嫉妬心、ほんの少しの羨望。そしてほんの少しの出来心から、それは大きな出来事へと変化した。
そうなってしまった後悔を、きっと彼はこの先永遠に引き摺ることになるだろう。
——陽がとっくに落ち、闇が深まった空に薄い金色の柔らかな髪はよく映えた。
僅かになってしまった自然の光をかき集めて照らせば、彼そのものが明かりの源になるような気さえする。
しかし、斯様に気の抜けた話は彼の頭に思いつくはずもなかった。
事態は深刻である。
彼は走った。学校の講義では、怪我人を背負いながら走るのは容態を悪化させる可能性がある上に、衝撃を吸収するのが怪我人になるため、手当のできる場所が近くにない限り控えるようにと習っていた。
脳裏に浮かんだそれは、すぐにふっと消えた。
今は、そんなことを考えながらやり過ごせるような状態ではない。実践と学修では往々にして違うことがある、書物にある一般論をこんなにも早く実感することになろうとは、彼自身きっと夢にも思わなかっただろう。
そうして彼は駆けた。一〇歳の少年は闇夜を走った。
学校の周囲は平原と丘陵と、森によってできている。若干上り坂になっている地形は、木々によって足場を悪くしている地形は、梅雨どきの湿り気の強い地面も相俟って、子供の体力を容赦なく奪い取っていく。
汗が垂れて落ちていった。緩くウェーブのかかった短髪が頬にへばりつく。目に入って染みないように、彼は制服の袖で額の汗を拭った。いつも使っているような香や石鹸の優しく香る肌触りの良いレースのハンカチではない。そんな平民の労働者を思わせるような振る舞いをしたのは、もしかしたら彼にとって初めてだったかもしれない。
「……頑張って」
息が上がって、一瞬だけ立ち止まる。既に陽は落ちてしまった。
明かりは周囲の民家を含めて殆どない。当たり前だ。外には野生化した動物も瘴魔——俗に言う「モンスター」も——うじゃうじゃいる。それより恐ろしいのが夜盗や身を持ち崩した狂人たちだった。
人ではないヒトは、恐ろしい。
そういう奴らは闇夜に乗じて現れる。遭遇すればこちらはひとたまりもないというのに、凶暴性も遭遇する可能性も昼に比べて跳ね上がる。だから人々は刺激しないように暗がりの中で朝を待つ。
少年だって本当はそうしたかった。しかし、背負っている温もりはそんな状況を許さない。背中の制服のジャケット越し、控えめな生暖かさと鉄臭い匂いが急げ急げと焦燥を募らせる。
首筋に怪我人の熱く、荒い息がかかる。
いつか本当に死んでしまうんじゃないかと泣きたくなる。
「がんばるんだ……!」
怪我人に触れて濡れた手が錆び付いた匂いを漂わせる。不快だったはずの匂いは、諸々の恐怖を押し殺すためのものになっていた。
鼓舞する言葉は誰のためのものだったのだろう。少年自身かはたまた、背中の怪我人へ向けてのものか。
傷口が化膿していたらどうしよう、もしこのまま目を覚まさなかったらどうしよう——もしここで、瘴魔に、夜盗に襲われたら——
独りぼっちに等しい心細さに、臆病風が吹いた。頬を伝った水は雨ではない。滲んでぼやけた視界の先に、帰るべき場所の明かりがちらほらと見える。
しかしその距離は、遠い。縮まっているはずなのに、ずっと先にあった。
「アーシェ……っ」
絶望をこんなにも直に感じたのは久々だった。堪らず、背中でぐったりとして意識の戻らない級友の名前をルイは呼んだ。
ちょっと苦しめば、ちょっと分かってくれれば、ちょっとでもあの頃のようになれる時間をくれれば、それだけでよかったはずなのに。
こんなに大ごとになるなんて思わなかった。後悔先に立たず。悔やんだって今更遅い。そんなの痛いくらい分かっているけれども。分かっていたはずだったけれども。
なぜそんなことになったのか。それは、今日の昼過ぎまで時間を巻き戻さねばならない。
***
「……ということで、瘴魔というのは基本的に動物と変わらない。ただ動物よりも魔力が高くて——瘴力とも呼ばれるこの世に満ちている魔力の元の形であるマナを負の力として取り込んで——、悪知恵をつけて変に進化したのが奴らだ。だから、動物よりも討伐に難航しやすい」
昼下がりの長閑な教室に凛とした女教師の声が響く。言うまでもなく授業中である。この世に数多くいる動物と瘴魔の違いとはいったい何なのか、教室の前方で彼らの担任であるミレイは黒板に板書を加えつつ、その舌の回り具合を緩めない。
「中にはポッポ鳥やチューチュウ、すねかじりとかほぼ人畜無害と言っていい奴もいるけどな。幸いこの学校の周辺はそういう弱くて退治の簡単な瘴魔が多い。ただ、夜になったり、その地域の瘴魔を集中して狩りつくしたりすると、たまに突然変異した奴とか親玉みたいな強い奴が現れたりする」
午睡を促す睡魔が忍び寄るには丁度いい気持ちの良さである。しかし内容が内容ゆえか級友皆が気を引きしめて聞いている気配をルイは感じた。かくいう彼も真面目に聞いている生徒の一人である。真っ白だったはずの両開きの帳面には、彼なりに纏めた聴講が青黒のインクで一種の街を作っている。
左隣で開かれた瘴魔図鑑と照らし合わせれば、今受けている講義がいつでも蘇るようなそんな内容だった。
「だから学校側は門限を決めてるし、夜になると門を閉める。王都だって、村だって、基本的には一緒だろう? あと狩猟権だな。うちの学校は組織単位で色んな契約を交わしてるから基本的には大丈夫だが……狩りすぎるなよ。特に戦技科は、何かしでかしたら未来の自分の首を絞めるからな」
珍しく学級の全員に注意という釘がきちんと刺さっていることを確認したミレイは、確認のようにうなずき口角を上げた。
「悪いことは言わない。万が一の事態を避けるためにも、今のうちに『瘴魔図鑑』を暗記しておけ。これは数年ごとに新しい版が出るが、大まかな内容は共通してる。それと、この学校から離れるときはちゃんと読んで、向かう先に行くまでどんな瘴魔が出るか把握すること、いいな?」
なかなかに分厚さのあるそれを生徒たちに見えるように掲げたミレイの笑みが、意地悪いものに変わった。
さすがに厳しい内容だと思われたのだろう。めいめい生徒が「えー」と「うそだろ……」と驚嘆とげんなりの入り混じった声を上げる。内容としてはそこまで厳しくはない。むしろ一生使える知識になるならそこまで厳しくないのにな、と机に置いた図鑑を一瞥してルイは右隣に座る二人を窺った。
グレンは至って平然としている。当たり前だろう、側近になるべく教育を受けている彼のことだ。六割ほどは既に一般教養だというのも手伝って覚えているはずで、それ以外は知らずとも一生モノの内容となれば必ず死に物狂いで覚える。それほどまでに彼は勤勉だ。
問題はその奥、グレンの右隣に通路を挟んで座る少女だった。
図鑑を撫でて見つめるその顔色は悪い。きっと彼女は図鑑の内容を現時点で殆ど知らない。恐らく、一般常識とされている瘴魔の種類も、対処の仕方も。真っ新な頭の中にこれほどまでの内容を覚えなければならない。
だからそんな顔をする。唇を噛んで睨みつけるような顔をしているのは辛く苦しく思っている表情だと、ルイは先日グレンに教えられて漸く気づいたのだった。
そんな無知な彼女が、憎くて、知らずに生きられたことが羨ましくて、妬ましくて、ルイは胸の内に渦巻く炎を鎮めるようにそっと微笑んだのだった。
「言っておくが下調べは大事だぞ。そいつについて知っているか知ってないかで、どう対処するかが変わる。数年おきに改定されるとは言っても、大して変わらないんだ。絶対覚えろ」
授業の終了を告げる鐘がミレイの言葉に被さるように鳴り響いた。
***
「——ねえ、グ」
「大丈夫だったか? アーシェ」
「……多分」
声をかけようと名前を呼んだ、呼ぼうとした。そんなルイにも気付かず、終わりの鐘が鳴ってすぐにグレンが話し相手に選んだのは、幼馴染である少女だった。心配そうに自分が付けた名を呼び、級友が困っている様子を察して声をかける。
何の変哲もない、なんだったら喜ばしいことである。一ヶ月ほど前までぎくしゃくしていた二人の仲は修復された。昔のように家族とまではいかないが、幼馴染として、級友として確かな関係を築いている。それが当然どこか他の関係性より近しく見えてしまうのは元家族で、義理の兄妹同士だったからというのもあるだろう。
たった一年程度の関係だったのに、と思わないことはないけれど。
グレンが面倒見が良くて、それこそ本当の『兄』のように頼りになることなんてルイは知っている。お節介なところも当然あるが、それが世話焼きである彼の美点であることも知っている。勤勉で、仲間思いで、確かにからかってくる意地が悪いところもあるが、彼なりに心を許した相手に見せる顔だというのくらい、当たり前だがルイは知っている。
知っているのだ。アーシェより。
「分からないところがあったら言ってくれ。俺も力になるし、ルイもきっと力になってくれるから」
「分かってる」
「そういえば『冒険者フリッツ』は、どうだった? ちゃんと読めそうか?」
「うん。少し難しいけど……なんとか。今は船を手に入れたところまで読んだ」
「そっか。それはよかった」
「本当はもうちょっと読みたいの。けどミレイ先生、『怒られる』から」
「……怒る、じゃないか?」
「あっ」
「はは。アーシェの体調を気遣ってくれてるんだよ。いいことじゃないか。最近は熱も出してないし」
「そういえばミレイ先生からの宿題は? どうだ?」
「……九九を覚えた。ちゃんと言えるのよ。一の段から、九の段まで全部。なにも見ずに」
「それは……すごいじゃないか! 前は九の段で引っかかってたのになぁ……」
「割り算も掛け算も、二桁一緒のものなら殆ど筆算できるの。先生も『頑張ってるな』ってそう言ってた」
「そうか……本当に頑張ってるな、アーシェは。そういえば、国語のほうは?」
「もう、多分だいじょぶ」
「それを言うなら『大丈夫』だぞ」
お互いに顔を突き合わせて笑い合う二人のなんと楽しそうなことか。その雰囲気に入ることもできないままのけものにされたルイは、ただ羨ましそうにじっと見つめることしかできない。
燻っている気持ちに気付かないふりをしながら。それでも悲しいもので、火種が生まれたのを無視することは彼にはできなかった。
僕だって九九くらい言えますよ。そらで言うことだって当然できます。なんだったら二〇までの二乗だったら暗記してるからすぐに諳んじることができますし。
大体、二桁同士の掛け算割り算なんてこの学校入学試験に毛が生えた程度のものですよ。今までできずにいたなんていったい何をしてたんでしょうね。
『冒険者フリッツ』のシリーズは僕だって好きだから貴方とは感想だって語り合えますよ。ねえ、昔ガスティオン家のタウンハウスでそうしてたみたいに。
それと僕は力になりはしますけど、貴方だってアーシェに教えられるくらいには成績が良いはずだったでしょう? だったらきっと僕なんていりませんよ。お二人で、どうぞごゆっくり。折角仲直りしたんですからね。兄妹で水入らずもいいんじゃないですか? たまには。
……熱だって、アーシェは魔力症だからかもしれないけど、僕だって出るのに。最近は出さないけど。いっつも、心配してくれたくせに。
全部、ルイの心の声だ。
口に出している訳ではない。口に出すなんて出来るわけがない。するつもりもない。
泡のように膨れ上がった寂しがり屋の嫉妬心が、ぶくぶくと膨れては弾けていく。心という器を超えないなんてどれだけ自分の器は広くて大きいのだろうと、とルイは皮肉気に笑った。ここまで妬み嫉みを燃やしておいてよく言う。実際言ってはいないが。
本当に一ヶ月前まで、アーシェの今いる立場にいたのはルイだったのだ。グレンにだったら何でも話せた、グレンも何でも話してくれた。
それなのに、寮でも一緒の部屋だというのに、反比例するかのように、二人が話す頻度はこの一ヶ月で大幅に減った。雑談は減り、挨拶や連絡や報告が会話の内容を占めるようになった。
……まあ、きっとそれは言い過ぎだろうけれど。しかしそれほどまでに、理解者である親友がこちらを見向きもしなくなったのはルイの心に大きな打撃を与えた。ここにいるのに、見えるはずなのに、さもいないように扱われてしまうのが、こわい。まるで『あの頃』のようで。
「……そう、この前話してくれた、ウェイン様のところにいたときの本を思い出したの。「絵付きの本」よ。兎のお話の」
「『絵本』だな、あれか。鳥と兎の」
「うん。あの空でしょ。雲がすうっと吸い込まれていくのって」
やめてほしいと言いたかった。自分の知らない話を、自分がいるというのにしないでと言えればよかった。もしくは、会話の中に入れてほしいと言える勇気がルイにあれば、きっと全ては丸く収まった。
しかしそれはできるはずもなかった。
ルイが欲しかったのは、アーシェが今いる立場なのだ。三人でじゃない。二人でだ。
自分の知らないグレンがゆっくりと明るみになっていく。会話の内容なんてとうに聞こえない、聞く気もない。楽しそうに、双方笑みを浮かべながら会話が弾んでいく。純粋に羨ましいなと思った。
寮でもそれなりにグレンと会話していたはずなのに、今日だって喋っていないわけではないはずなのに。
なんだろう、この心の疲れと明確になっていく己の醜さは。
ぼやけた不定形で見えない感情に、輪郭を与えることをルイは拒んだ。そうすればきっと戻れなくなる気がした。
逃げるように、彼は教室をそっと後にした。
その後ろ姿は世捨て人になりきれぬ俗人そのものだった。
新章始動です。めんどくさい彼女みたくなってるルイの話です。
PVブクマなどなどありがとうございます。




