032 そして蕾は花咲く(完)
向かいの校舎の部屋は未だ明るい。その明かりはベッドを囲むカーテンがないと悟るや否や、厚かましく窓から入ってきて、子供の顔を浮かび上がらせた。
眠りの世界にいた幼子が目を覚ます。
寝ぼけた気配が残る視線が向けられて、萌葱色の瞳が瞬いて、アロイトは漸く自分の娘が無事だという事実を噛み締めることができた気がした。
「……アロイトおじさま。ゆめ?」
「夢じゃないよ。アーシェちゃん」
「どうしてここに……」
欠伸を噛み殺しながらアーシェが問うた。起き抜けにしては反応がしっかりしていると思ったが、そういうところは依然として子供らしい。それが彼女に残された数少ない子供らしい点であることも、アロイトは知っていた。
ウェインが生きていた頃は彼女が寝ている部屋に入っただけで目を覚まされていたのだ。親として気を許された故の進歩だと思いたかった。
「ちょっと色々あってね、先生たちとお話ししてたんだよ」
「お話……今日、昨日のこと、ですか」
「そうだね」
事件が起こって保護されてからずっと寝ていたと、アロイトはミレイに聞いている。アーシェが日付感覚を掴めないのも無理はないだろう。そのせいだろうか。いつも真っすぐに整えられている栗毛の髪が思い思いに跳ねている。
愛おし気に目を細めて、梳るようにアロイトは娘の髪に触れた。
妻のリーシャが色々な髪形を試して、目の前の少女を困惑させていた気持ちがなんとなく分かる心地よさだった。
「アーシェちゃんはこの学校にいたいかい?」
答えがあってないような質問だった。アロイトがガスティオン公爵の膝元にいる間、彼女はこの学校に、この戦技科に籍を置き続けなくてはならない。たとえ、アーシェがこの学校にいたくないと泣いても喚いても、そこに彼女の意志が介在する余地はない。
そういう契約なのだ。アロイトとガスティオン公爵であるゲイルが結んだ密約は。
自分の監視下に置く代わりに、国家機密の身を守ってくれると。どこまで信用していいものか——しかしゲイルの人柄からして、忠実にアロイトが仕えれば裏切ることのない取り決めの庇護である。
不意に与えられた質問にアーシェはもうひとたびその眼を瞬かせ、考え込むように顔を伏せた。部屋に明かりはついているといえど、ベッドを囲むように仕切られたカーテンはアロイトのいる窓側だけが開いている状態である。
仄暗い雰囲気と沈黙が続く。俯いた顔が上がって、美しい草深の双眸が彼を射抜いたのはややあってのことだった。
「私は、ここにいたいです。いさせてください」
はっきりとした、揺るぎない意志だった。
「ウェイン様のときみたいに、なりたくないんです。力が欲しい」
「本当に大変かもしれない。魔力症だって、魔法の暴発のことだってまたあるかもしれない……そんなことがあってもこの学校にいたいかい?」
「はい」
光が宿っていた、その瞳の奥に。ここにやって来たときに見た、曇りがちの奥に見えた小さな光とは比べ物にならないほど大きな意志だった。
何が彼女をここまで変えたのだろうか。アロイトは舌を巻いた。ウェインだろうか、それともその次男坊だろうか。自分のために生きなさいと、かつて彼女の恩人が彼女に教えた言葉は彼女の中でちゃんとこの一か月半の間に昇華されていたのだった。
その成長ぶりに彼は言葉が出なかった。
アーシェの胸元に握られた小さな手は、震える様子をおくびにも出さない。
「ちゃんと守れるように、私のために。誰かのためじゃなくて、私が失うのが嫌だから。だからここでたくさん勉強して、色んなことを知って、強くなりたいんです」
「……そっか」
愛しさと、成長への感嘆と、多少の切なさと寂しさが、父親としてのアロイトの心に渦巻く。こんな感情を覚えるのはもっと先だと思っていたはずなのに。まったく子供の成長というのは早く、おそろしいものである。
先ほど梳った焦げ茶の髪を撫でる。どれくらいの力で撫でたらいいのか、力の加減が分かる前にきっとこの子は巣立つのだろう。一気に去来した感情の群れに、嬉しくもあり寂しくなってしまった。
「分かったよ。頑張りなさい」
「はい」
「でも一つだけ、一つだけ。僕と約束してくれるかい?」
「はい……」
固く握られたアーシェの手をアロイトは取った。
優しくさすってやれば、警戒を解いたように拳が緩んでいく。あの頃と同じだと思った。彼の脳裏にぼんやりと、かつての上司が彼女を保護したときの思い出が浮かんだ。
「困ったり、苦しかったりしたら、ちゃんと周りの人を頼るんだよ。大人の人に頼りにくいんだったらお友達でも大丈夫なんだから。ね」
しかし、悲しいかな。
この養父の言葉をアーシェが理解するのは、彼がその命を終えたあとの話である。
***
「アーシェはどうでしたか」
保健室を出るなりアロイトに声をかけてきたのはミレイだった。結構長い間話し込んでいたというのに、この後輩はずっと待っていてくれたのだろう。夜も遅く、彼女自身の都合だってあるだろうにと、ここまでくるとアロイトのほうがな何故か心配になってきてしまう。きっと子持ちになったせいもあるだろうが。
だからこそ、彼女が担任を——ひいては教師を辞めてしまっては惜しいとも思うのだ。彼女の気性はそれはとても好ましい。まるで七変化を見せる海のように。
当然、時化や荒波のときは玉に瑕に早変わりするが。
「ん、大丈夫そうだったよ。ありがとう」
「それは何よりです」
「フォローが手厚かった証拠だよ。ありがとう本当に」
「いいえ……こちらこそ」
言い淀むように視線を彷徨わせ、唇を真一文字に引き結ぶ。
ミレイが腰を折った。彼女の纏められた穏やかな色合いの亜麻色の髪に藤色の影がかかる。頭の色合いがそこだけ濃くなって、悲しみを湛えている気がした。
「すみません。何度も先輩には助けてもらって、世話にもなったのに」
「……昔の話だよ」
「あのときだけじゃありません! 今日だって……!」
「じゃあここから始まるんだよ。きっとね」
柔らかくアロイトが笑った。
「アーシェのこと、みんなのことよろしく頼むよ」
「はい……」
「それに、ベルナデット様にも言われてるだろう? 簡単に役務を投げ出してもらっては困るよ」
「は……え」
いい顔だなと思った。シリアスな空気をぶち壊してくれる美人の阿保面である。面白くないわけがない。現にアロイトも笑いを堪えるのに必死である。
「なぜそれを……? ああでもそうかアーシェの!?」
「お父さんだからね。娘のことを通じてお話は聞けるね。あと言っておいたよ。君が昔切った啖呵のこと。『私はベルナデット・スーベ・オークスという前例がいるからここにいる!』だったっけ?」
「ああああああ」
こんなにも表情豊かな人物が傍にいるのだ。アーシェたちの学校生活はきっと楽しいだろうなと思う反面、感情の振れ幅が大きすぎる悪癖に影響を受けないか少々、いやかなり心配になるアロイトである。つくづく、貴族の教育に良い意味でも悪い意味でも影響を受けてないなと彼は思った。
「いつの話ですか! いい加減に忘れてください!」
「すごい顔してたよ、ベルナデット様が。あと『次に魔女呼びしたらただじゃおかない』って言ってたから気をつけたほうがいいかも」
「どこまで聞いたんですかっ!?」
しおらしかったミレイの様子が、途端に萎びて疲れ切ったそれに変わる。萎れた気配が何かに似てると思ったら、干し柿だった。いつもの気勢はどこへやら、借りてきた猫になってしまったミレイをアロイトはそっと憐れんだ。
自分がとどめを刺したという事実を棚に置きながら。
「ということで、頼むよ、ミレイ先生」
先輩じゃなかったら引っぱたいてますからね、という恨みつらみの籠もった呟きをアロイトは聞かなかったことにした。
***
夜は過ぎて、休日である無の日も過ぎ去り、そうと来れば後に待つのは学生の大半が憂鬱な気分に片足を突っ込む青の日である。
普段ならばグレンもルイも休日に養った英気を発揮する日である。しかし今週は違った。グレンとルイを取り巻く雰囲気はどこか重たく、暗い。
学生の大多数と同じ状態である。
「結局どうなったんでしょうね。アーシェから何か聞いてます?」
「いや何も。特には」
前週の戦技科の予科一年生のハイキング行事で起こった事件は学校の上層部にも重大なものだと受け止められたらしい。キラーマンティスという学校の近くには通常生息していない瘴魔の亜種が現れたことも深刻さに拍車をかけ、学校側で定期的な裏手の森の調査が行われることが決まった。
『今回キラーマンティスが現れたのは魔力の多いヒトが二人もいたせいであり、獲物を求めて森の浅いところまでやって来たのだ』という意見もあるが果たしてどうだろうか。様々な知識について浅いグレンたちには深くを考える術はない。
このせいもあってか、今後森の入り口数か所には見張りのための兵士が配備されるようになるらしい。また、森を管理する番人も常駐で置かれるようになるのだとか。
つまり、監視の目が厳しくなる可能性が高くなるわけで。科を跨いで多くの先輩が不服そうに愚痴を零していたのをグレン達も見かけたが、そんなのは彼らに関係のない話である。
あの後、カタリナ先生は——いやカタリナはこの学校を懲戒免職となったらしい。なったらしいというのは風の噂であって、グレン達も詳しいことはよく分かっていない。『気分が良くなる法的に怪しい』薬品を常用していただとか、気が触れておかしくなったため実家から勘当されて長期療養するらしいとか、尾ひれはひれのついた噂は寮内でも聞いていたがどうだろうかと二人は思っている。
まあ、恐らくは強ち間違いでもないといったところだろうが。
そんなのはさておき、グレンとしては気になるのがアーシェのことである。そして自分たちの担任が誰になるかといったところである。ルイも気にしているのか、昨晩からそわそわして落ち着かなかった。いいから寝てくれと、寝付けない彼に下の寝台から文句を言ったのはグレンの記憶に新しい。
「あいつ……来ると思うか?」
「それはどういう意味で? 怪我で安静ということ? それとも停学処分か何か?」
「……どっちも」
早くも馴染んだ座席の、机の中から紙袋をグレンは取り出した。
思えば入学祝いの一つもアーシェに贈っていない。そう思い悩んで、この数日で出した結論は魔道具のランプだった。
お古になってしまうのは恥ずかしく思うが、グレンとて自由に使える金が多いわけではない。それに、このランプはまだグレンとアーシェが共に暮らしていた頃に一緒になって使っていたものだった。
必然的に父親であったウェインとの思い出も刻み込まれている。きっとアーシェは喜ぶだろう。
紙袋を日に焼けたグレンの手が撫でた。がらりと教室の扉が開いた音が聞こえたのは殆ど同時だった。誰かが来たのだろう、そろそろ始業のベルも近い。遅刻魔のシィかシャイラあたりか。マキナは今期遅刻が多くて相当まずかったはずだが大丈夫だろうか。
そこまで考えて、挨拶のために顔をあげた。グレンは目を見開いた。
あ、と発した隣のルイの声がどこか遠くに感じられた。
「アーシェ——!」
「……おはよう」
その小さな姿を──それでも色濃く記憶にある姿よりぐっと成長している姿を、グレンが見間違えようはずがない。
ゲイルがこの場にいたら「そなたは誰の側近として教育を受けているのだ」と冷ややかな視線で睨まれていたことだろう。
そうならなくて良かったとルイが思うほど、グレンは勢いよく立ち上がった。ルイのことを気にする余裕もなく。そうしてアーシェの元へ走り寄って行った。喜色と安堵が入り混じった、紅い頬をして。
少女は笑っていた。
この学校に来たときには想像もつかないほど晴れやかに、年相応に、そのあどけない顔を緩めていた。左手の包帯と脹脛に見える手当て跡が痛々しいことを除けば、彼女は周囲と何も変わらないこの学級の生徒だった。
喜び合うそんな二人の後ろ——教室の扉の前に人影は現れた。金髪の女性だった。
いつもざっくりと纏められ、お団子で毛先を跳ねさせている髪は肩ほどまでの短さになっており、さっぱりとしていた。前髪をかき上げているからか、彼女自身の晴れやかで爽やかな笑顔がいつも以上に眩しく感じられる。
「ミレイ先生!!」
最初にそう呼んだのは、学級の誰だったろうか。
呼びかけにミレイが笑みをより深くする。副担任だった頃とは比べ物にならないほど、その笑顔は明るい。
「おはようみんな。まず一つ、決定事項を伝えておこう。
——聞いて喜べ。今日から私がお前たちの担任だ!」
そのときの熱をどう言い表していいのか、今となっては知る由もない。しかしこれだけは言える。この学級の——後に『ミレイクラス』と呼ばれる学級の予科生たちが、このときにどう思ったか。
本当に嬉しかったと、安心したと。
このときを知る級友たち皆がきっとそう言うだろう。
季節は夏も始まり、麦雨の月とも呼ばれる六月である。
近くなっていた梅雨の足音が、一瞬だけ遠ざかった瞬間だった。
これにてコードネーム『劇場版』が完結致しました。ここまでお付き合いくださったこと、厚く御礼申し上げます。
アーシェたちの話は続きます。お楽しみに。
(私事ですが、本日で創作活動9周年(推定)になりました。よくここまでこの話を捏ねくり回してるなあ〜と思います。できれば、これからもまだまだよろしくお願い致します)




