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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
30/42

029 信じたい

「それで、彼女の様子は?」

「ああ、うん。大丈夫、だと思う」

「……どうやら、貴方はそうでもないようですけど」


 部屋の向こうから出てきたグレンに睨まれた。ここに口煩い保護者、もといゲイルがいなくて良かったと胸を撫で下ろすルイである。絶対に咎められる。というか、しんみりしてる雰囲気が全身から漂っているから少々からかって明るくしようとしただけだというのに、こんなにも手厳しい反応を返されるとは全くもって解せない。そう思った。


「ルイ、普段より随分と軽やかなんじゃないか? 主に口の動きが」

「何とでも。でも、そんなに目と鼻を赤くしてたらまたうるさいですよ。僕だけじゃなくて、学級のみんなが」

「そうだな」

「一回冷やしたほうが良いですよ。赤鼻のトナカイだなんて笑われたくないでしょ。みんな──というかシィに」

「……そうだな」


 むっとした顔が素直に頷くのが少し可笑しくて、それでもいつものグレンに戻り始めたことに少しだけ安堵を覚える。

 同時にちらりと、ルイの脳裏に伸びた黒髪を一つ結びにした少年が浮かんだ。

 どこかで威勢のいいくしゃみの音も聞こえた気がしたがきっと気のせいだろう。うん、きっと気のせいだ。


 そんなグレンの様子が気にかかって、だからルイは彼に『義妹(アーシェ)の容姿が森の中で銀髪紫眼に見えた』という話を話題にしなかった。

 棘を刺激すぎると、自分のところにも弾け飛んでくる。そんなことはこれ以上ごめん被りたかったからだ。


***


 廊下に据え付けられた手洗い場で、ハンカチを水に濡らす。そのまま絞るのもそこそこに、雫がたらりと垂れないそれを眼瞼にそっと押し当てれば、重さと火照りを訴えるそれは徐々に鳴りを潜めていった。

 グレンは漸く人心地がついた気がした。正直に言えばアーシェと共に泣いていたせいで生じた頭の痛みが尾を引いているのだが、それでも何も考えられず前後不覚になるほどではない。


「良かった……」


 近くで待っているであろうルイに聞こえない声音でグレンは呟いた。溜息代わりに深呼吸でも一つすれば、非日常に警戒していた冷たい心が漸くほぐれるのを感じた。


 既に、あの日からは一日が過ぎていた。今日はハイキングのあった黒の日(きんようび)ではない。一週間が終わるはずの白の日(どようび)である。しかも、晴れ渡った初夏を思わせる蒼穹を仰いでみれば、陽の光が黄色と朱色の美妙な色合いの紗を澄んだ青色に掛けていた。思えば夕方が間近に迫る刻限である。

 アーシェが目を覚ましたのはそれくらい時間が経ってからだった。昨日のの昼過ぎにはあの大事件があり、倒れて、グレンが様子を見に行った今の今まで寝ていたのだ。


 ざっと丸一日寝ていた計算になるだろうか。あの大怪我と疲労状態では無理もないだろう。校医の見立てでは左手の手の甲と足首の外傷以外に、軽度の脱水症状にも陥っていたということだ。あの蒸し暑くなり始めた森の中をカタリナに連れまわされていたのだから、そのくらいはさもありなんである。むしろ、アーシェのあの体の弱さでその程度かと、思った以上に状態がよかったと胸を撫で下ろしたことはグレンの記憶に新しい。


 それに加えて、極めつけがあの元気の良さだった。ベッドから突然飛び起きてきたことは驚いたが、それを抜きにしてもアーシェはちゃんとグレンと会話のやり取りをしていた。そこにおぼつかなさは見当たらない。

 グレンにとってのアーシェは控えめで大人しく、受動的な少女だった。それが今やああである。

 彼は経験則で『いもうと』が感情を強く見せたときはたいてい魔力症の発作が付いて来るということも知っていたが、情緒面はベルナデットも成長していると言っていた。故に彼は不安になることをやめた。あの女医がそう言うのだったら、何が何でも大丈夫なのである。


 そこまで考えてグレンは目元からハンカチを外した。下げた目線の先には日に焼けた左手の甲が映る。すべすべとして骨がぼこぼこと浮き出た若々しい甲だった。

 その狭いキャンバスには紅く引かれた一閃などない。まるで、初めからそこに存在してなかったと言うかのように。


「ルイ、回復魔法って本当にあると思うか?」

「なんです? 藪から棒に」


 いつの間にかそんな質問がグレンの口を突いていた。


「……神学の授業でやったじゃないですか。『黄昏記』の時代にはあったとされるけど、今はそんな技術かけらも見当たらないって」

「そうだよな」

「だから僕たちは魔法薬を使ってじゃないと怪我や病気を治せないんですよ」

 

 不便ですよね~と暢気にルイが続ける。真面目に答えてくれて助かった、そういうルイの性根はグレンにとっても好ましいものである。

 しかしこれで、違和感が確信に変わった。


『あの‘‘アーシェ‘‘が使った魔法はなんだ』


 恐怖でまばらにしか覚えていないグレンの記憶にもはっきりと残っているアーシェはその姿を普段と異にしていた。

 髪色が銀色なのは、瞳の色が紫色なのは、光の加減や記憶違いだ、もしくは何かの見間違いだと思うこともできよう。しかし(くるぶし)まで伸びた髪は見間違えようはずがない。アーシェの髪型は顎ほどで切りそろえられたおかっぱだ。全然違う。


 そんなアーシェが魔法を使った。魔力がないグレンという少年の身体に悪影響を及ぼさない——むしろ外傷を治癒する『魔法』を。謂わば『回復魔法』を。


 あれは魔法だ。グレンはそう断言できる。魔力がないからと言って魔道に関する知識がないわけではない。必要な三要素の大部分は欠けていてもあれは魔法だ。思えばキラーマンティスの火球だって同じようなものである。

 そしてグレンは引きずられた記憶の中にもう一つ思い出した。


 キラーマンティスの放った火属性の魔法が、自分に向かってそのまま掻き消えたことを。


(……やめよう)


 考えても埒が明かないというより、考えたくなかった。頭痛の増す頭では碌な考えが出るわけがない。それに十一歳の子供が考えたところでたかが知れているのだ。グレンは何でも知っている大人ではない。


 それに考えたら変わってしまう気がしたのだ。グレンにとってのアーシェという存在が。『家族』だった『友人』が何か理解の及ばないものになっただなんて、彼は思いたくなかった。


(やめよう)


 もう一度心に言い聞かせるように、言葉を繰り返す。手に握っているハンカチはすっかり温くなってしまっていた。


「そういえばどうするんでしょうね」

「何がだ?」

「何って今回のことですよ。アーシェのこともそうですけど……」


 歯切れ悪く、グレンのことを窺うルイは寂しそうな眼をしていた。水色がかった金眼が不安に微かに揺れている。


「カタリナ先生のこと、ミレイ先生のこと」

「カタリナ先生は兎も角、ミレイ先生は大丈夫だろう? 何もしてないんだぞ。罰を受けるとしたらジョルジュ先生のほうがまずいんじゃないか?」

「ジョルジュ先生はいきなり殴られて気を失っていたって言ってますから、全部犯人であるカタリナ先生の責任になるでしょう。多分大丈夫だと思います。……でもミレイ先生はカタリナ先生が担任を外されてから、僕らの面倒をずっと見てきたでしょう?」


 副担任であるミレイはアーシェのことで教頭に咎められて以降、グレンたちの学級(クラス)の担任の仕事も請け負っていたのだ。つまり、受け持った学級の生徒が起こした問題は全てミレイの責任ということになる。


「それにミレイ先生は寮でアーシェと同室ですし。……どこまで責任が追及されるのかな」

「……そうだな」

「また、担任の先生が……変わるのかな」


 暗い空気が落ちた。敬語の抜けたルイの本心の吐露に、押し込んで忘れようとしていた現実が顔を出してくる。カタリナは最悪だった。グレンに魔力がなく、精霊飼いでもないことを何度も嘲笑ってきた。ではグレンだけに最悪な教師だったかというとそうではなく、度々担任としての職務を怠り生徒を馬鹿にするカタリナは学級の内外拘わらず嫌厭されてきた。


 そうした状況はアーシェの登場によって変わった。

 無能な担任は挿げ替えられ、信頼のおけるミレイが臨時で担任を務めるようになった。このまま順調に行けば、きっとミレイが正式に担任になっていたのだろう。


 しかし状況はあまりにも悪い。カタリナの乱入は阻止できなくとも、アーシェの魔力症や怪我のこと、その後のキラーマンティスとのことを巡って糾弾されるに違いない。

 そうした責任を上層部がとることは稀だ。往々にして尻拭いをする羽目になるのは下っ端である。


「全部カタリナ先生が悪いってことに、なってくれないかな~」

「無理だろう、あれだけ気が触れては。せいぜい仕事辞めて実家に戻されるくらいなんじゃないか」

「ですよね……」


アーシェやグレンが助け出された後、当然グレンから話を聞いた教職員たちはカタリナを救助しに彼女の元へ行ったらしい。詳細を生徒たちが知らされることはなかったが推して知るべしである。

 ちなみにグレンはここらあたりよく知っているため我が学級の情報屋、もとい黒髪一本結びの女好きの某シィには根掘り葉掘り訊かれたのだが。そんなのはどうでもいい話である。


「担任問題はどうなるんだろうな。本当に。うちの科、手が空いてる先生って他にいるのか」

「そうなんですよね。ジョルジュ先生はブラッド先生の学級の副担任ですし」

「今回のことはハプニングだったんだ。ミレイ先生で学級が纏まってたんだし——」

「……グレン?」


 目を見開いて固まったグレンにルイが怪訝そうに眉を寄せた。人の話を遮るほどの、彼にしては珍しい反応にルイもまたグレンが向ける視線の先を辿る。


「えっ……えっ!?」

「——おや、二人してその反応はあんまりではありませんか?」


 穏やかな空気を纏った苦笑を浮かべる男がそこにいた。年齢は恐らく三十後半か四十前後で、真っすぐな鉄紺の髪を左肩の近くで結わえて流している。

 男は二人に近寄るとすっと跪いて臣下の礼をとった。あまりにも自然すぎて、ルイは一瞬誰が来たのか分からなかった。


「ルイス様におかれましてはご健勝のこと何よりと存じます。……グレン君も元気そうで何よりだよ」

「アロイトおじさんも……お久しぶりです」

「えっでも、どうしてアロイト殿がここに……?」


 どうしてグレンがアロイトを知っているのか、そもそも何故アロイトがここにいるのか。混乱したルイの脳内は疑問符で占められている。だって彼は、アロイトは普通ならここにいる人物ではないのだ。ルイの保護者であるゲイルの——現ガスティオン公爵の麾下(きか)に入る人物である。こんなところで油を売っている暇はない。

 言外の疑問にアロイトが笑みを強めた。なんとなく黒さが増した気がするのはきっと気のせいだろう。多分。


「少し娘のことで先生方とお話がありまして」

「娘さんが……いるんですか。この学校に」

「はい。今年入学しまして……グレン君からてっきり聞いているとばかり思っていたのですが」

「グレン——?」


 そのとき見たグレンの顔をルイは永劫決して忘れることはないだろう。

 言い表しようのない、後悔、悲しさ、悔しさ——この世にあるどどめ色の感情を全て載せた表情だった。


「ルイ、アロイト……さんの苗字は『ファロア』だ。聞き覚えないか?」

「あっ」


 徐に口を開いたグレンの大ヒントに、満足そうに肯いてアロイトが微笑む。

 思い至った。というか渦中の人ではないか。


 同時に、グレンがなんとなくアロイトを苦手そうにしているのかもルイには分かってしまった。

 ウェインという大黒柱を亡くした後、アーシェの引き取られた先がアロイトの元ならば──グレンが複雑で、割り切れない感情を抱くのも無理はないと思う。


 そこまで考えて、ガスティオンの姓を持つ少年はもう一度アロイトを見た。慇懃で穏やかな物腰を崩さないのが、美点でありながらどこか恐ろしくルイには感じられた。


「どうも。アーシェ・ネフェリス・ファロアの養父(ちち)です。何も申し上げておりませんでしたね。あの子は私たちの養女(むすめ)です。よろしくお願いしますね」

 この7年間を共にしたiPad Air2に敬意と感謝を表して。


 ということで、タブレット端末がお釈迦になられたので慣れないパソコンと誤字脱字の多いスマホを併用しています。よろしくお願いします。

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