002 再会
バイト前滑り込み。
「歓迎されているみたいだ。よかったね、アーシェちゃん」
「はい」
隣にいたアロイトがそっと優しく、アーシェの背を撫でる。
保護者が相好を崩したことにも動かされたのだろうか。唖然とミレイユを見ていたアーシェがはにかんでいるのが、アロイトの目に映った。
内心、少々驚いて──もちろん、そんな様子はおくびにも出さないのだが──アロイトは目を瞬いた。隣に立っている娘は、同年代と比べても感情に乏しい。否、もちろん年相応に笑うことも怒ることもあるが、喜怒哀楽を明確に見せるタイプではない。
しかも、殆ど初対面と言っていい人物に。
その娘が、笑った。
警戒心を緩めていた。
あまりにも珍しく喜ばしい光景に、次いでアロイトは目を細めた。
(本当に、大丈夫そうだ)
***
「さて……名残惜しいのは重々承知していますが、そろそろ行かなければ。よろしいですか?」
「ああ。もうそんな」
ミレイユの言葉に、アロイトは懐から懐中時計を引っ張り出した。時刻は既に、短針と長針がきっかりと左半分の文字盤に、百三十五度を作っている状態である。
ゆっくり来て下さい、と便りにあった通りに来たわけだが成程これは悠長にしすぎた。頭の中で考えながら、アロイトは跪いた。向き合うは、同い年の子供たちよりもやや小柄な娘に、である。
「ウェイン様との約束を、覚えているかい」
開口していの一番に言うことがこれかと、周囲にもっと人が多ければ思う者もいただろう。しかしこれは、アロイト自身とアーシェを繋ぐ大切な『約束』なのだ。予想通り、鹿爪らしい顔つきになって、少女は頷く。
「もちろんです」
「私たちとの約束は?」
「……善処します」
「そっか」
最初の約束と違い、こちらはややあってしょっぱい顔になって頭を振られた。守れないことは約束しないというところが彼女らしい。しかし、それではいけないのだ。これから彼女が赴く場所は、約束を守ることが彼女自身の保身に繋がるのだから。
「駄目だよ。これは絶対に守らなきゃ」
「……はい」
「ウェイン様との約束、これと同じくらい重要なんだから。ね」
わざと語調を強めつつ、重視してほしい部分の言葉を区切って発する。
俯き加減となっているアーシェの表情は見えない。しかし、今頃頭の中を必死に巡らせてなんとか約束を果たそうと、思考を積み重ねているはずである。
その様子に微笑をやや潜めて、アロイトはアーシェの左腕を取った。
痩せた細く幼い腕には、黒に近い色合いの革のベルトに七色の光を灯した魔晶石を嵌め込んだ腕輪が、重そうに絡んでいる。
「頑張ります」
「レミア様の腕輪も……きちんと身につけること。たとえ何があっても、ウェイン様にも言われたことなんだし」
「レミア様の形見だから」
きりりとした、決意を新たにした表情だった。その顔は、何度も言われて既に分かっていると言いたげである。萌葱の、夏の盛りの草深を思わせる瞳が、じっとアロイトを見据えていた。
困った子を見るように眉を落としていたアロイトに注ぐ少女の視線は、一途な光を帯びている。言い間違いの気配など微塵も感じさせずに。
「ははっ」
だから、いきなり養父が笑い出して鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしても、それは致し方ないことであった。
「ついでに、国語の成績にも期待してるよ」
「……頑張り、ます」
言外に先程の発言で何処かおかしい発音があったと指摘される。苦虫を噛み潰したようにぶすくれるアーシェに吹き出したのは、今度は一人だけではなかった。
「元気でね。生活に慣れてきたら手紙を寄越すんだよ。お友達や先生をあんまり困らせないように」
「分かってますよ」
「分かってないから言ってるんだよ」
既に口煩いと思い始めているであろう少女の頬を、アロイトは軽く抓んでは揉んだ。
「気をつけなさい」
「ひをふへます」
「よろしい」
ぱっと手を離して、そのさらさらな髪を手櫛で梳かして整えてやる。それぞれの耳よりもやや上、やや後ろに結ばれた、深い緑のリボンが色々と思い出させて、アロイトは感慨深くなった。
本当に、長かったのだ。
「それじゃあね。それでは、ミレイ先生も」
先程までの雰囲気と打って変わって、にこやかにアロイトがお辞儀を返した。
「娘をよろしく頼みます」
「はい、承知しております。道中お気をつけて」
相変わらず食えない人だと思いながら、ミレイユも笑顔でひらりと手を振った。
***
人通りが多いという理由で整備されても、麓というのは麓であり坂というのは坂である。緩やかに手を振っているアロイトの姿は高低差もあって、徐々に遠ざかって次第に見えなくなっていってしまった。
未だ根性でボストン鞄を両手にしかと持ちながら、アーシェはその背をずっと見つめていた。
時間がないという割に、ミレイユはアロイトを見送ることを無言で承知してくれた。入学すれば寮住まいで、直近で保護者に再び会えるのが夏休みということもあるからだろうか。
出会ったときの雰囲気といい、この対応といい、これからの生活に対しての憂慮はアーシェには殆どない。
昨晩までどんな教師と会うことになるのか、期待に胸を膨らませると同時に不安に苛まれた身としては、とても良い人に当たったとアーシェは思った。
「あの、ミレイユ先生」
見送りはとうに終わった。充分すぎるくらいに。遠慮して声をかけなかったのであろう妙齢の出迎え人の裾をアーシェは軽く引っ張った。
「ミレイでいい」
「えっ」
「だから、ミレイでいい」
視線を下げたミレイユ──本人がいいと言っているのだからミレイと呼ぶが──と視線がかち合った。言うが早いか、彼女はアーシェから鞄をさっと取り上げると、預かっているトランクの持ち手にボストンの柄を引っかけ、歩きながら手招きを返してくる。
「おーいていくぞー!」
「あっ、はい」
早歩きのミレイに追いつくよう、アーシェは小走りでその背を追った。白いブラウス、黒いパンツというスタイルに、キャメルの外套。こうして再び見ると、教師をしているよりも街を歩いている方が似合っているような気がした。
「ミレイユと呼ばれるのは好かないんだ。ミレイと呼んでくれ。あいつらもそうしてる」
「あいつら」
「これから会えるよ」
隣に並ぶと、ようやく走らなくてもいいくらいにはなった。自分が持っていて疲れるような鞄を二個持ちしているミレイのその背は真っ直ぐである。
ぼんやりと、綺麗だなと思いながら見つめていると、不意にミレイが足を止めた。
「せんせい」
見つめていたら、今度はこちらが見つめ返された。屈んで頭のてっぺんを指で軽く押さえられる。
「お前……小さいな。大丈夫か、マキナの奴より小さいんじゃないか」
「小さい、ですか」
「ああ」
しれっと何事も無かったようにまた歩き進める。どうでもいいが、止まるときはせめて声をかけてほしい。もちろん進むときも。
いつのまにか開いていた大きな門をくぐり抜け、進んでいたのはよく整備された街と見紛う石畳の道である。建物はそこかしこにあり、何があったらどこで用を済ませることになるのか、分からないアーシェは目の前の光景にただ目を瞬かせるだけである。
「これから私たちが行くところは教室だ。お前があいつらと学ぶことになる学び舎。学科と学年ごとに分かれているから、お前は基本的に一階で過ごすことになる」
再び現れた小柄な造りの門には衛兵が二人立っていた。見張りだろうか。ミレイは片割れに話をつけると、さっさと荷物を渡してしまう。
「あっ」
「心配するな。寮に送っておいてくれる」
身軽になったミレイの足は、先ほどと比べても速い。転ばないように気をつけながらその背中を追って、追って、追いかけて──
「さあ着いたぞ」
気が付けば、二人は建物の前に立っていた。木造の三階建てである。今まで住んでいたアパルトマンや家とは違って、比べるべくもないほど横に広々としている。
「だから! おいてーくぞー!」
先ほどのようにミレイが声をかける。だが、その声には怒りは滲んでいない。さっきの声と同じか、いやそれ以上に面白がっている雰囲気が滲んでいる。
低い段差の階段を数段登って、昇降口を通り抜ける。最初に目に入ったのは、クリーム色の壁と飴色に輝くフローリングの廊下だった。
「お前と私のクラスはこっちだ。さっきの入口から見て、左の一番端。な、簡単だろう」
茶目っ気深く、片目を閉じてミレイが笑いかける。周りの教室も廊下もしんと静まり返っていて、ミレイの様子だけがこの世界に華やかさをもたらしていた。
「そう、ここ。この教室だ」
おいでと手招くミレイに従って、扉の前に立つ。扉越しに少しだけ声がざわついて聞こえたのは、周囲の教室が行なっている授業と違うからだろうか。
「……あいつら大人しくしてないな」
降ってくる声曰く、ただ騒いでいるだけらしい。
「……まあいいか。ずっと楽しみにしてたからな」
控えめなノックの音が響く。扉が開いて、さっきから聞こえていたざわめきが大きくなった。
「連れてきたぞー!」
威勢のいいミレイの声に、教室が水を打ったように静かになる。
ぐっと決意を固めて、足を踏み出した。長四角の大きな目の前の『枠』をくぐって──目を向けるのは左側。
先ほど見た段差の低い階段のように段になっている教室の後ろ側には、机と椅子が三組ずつ。それらがひと組に固まって三セット左、真ん中、右にと置かれている。段差分あるのだから、教室に入れる人数は多いはずだ。
それぞれの机に固まるように、これから級友として一緒に過ごす子どもたちが集まっている。楽しみにしてるというミレイの言葉は本当だろう。一様に皆固まって、次の瞬間には顔が綻んでいるのがわかる。
(──あ)
その中に見つけた。ようやく見つけた。
教壇に前、ミレイの左隣で止まって、視線を上げる。
中断の、真ん中の机と右の机に挟まれた廊下に立っている、こちらを見て目を瞠った、ひときわ背の高い少年。短く刈られた髪は亜麻色とも、砂色とも、褪せた金ともつかず、見つめるほどにあの頃の懐かしい思い出が込み上げてくる。
「グレ──」
名前を呼ぼうと口を開く。
同時に、同じようにこちらを見つめた少年が青褪めてその身を戦慄かせる。口を開いたのは彼の方が幾分か早かった。
そして驚きのあまり、アーシェが自分の名を呼ぼうとしていることに、彼は気付けなかった。
「なんで、どうして……どうしてアーシェがここにいるんだ!」




