027 呼ぶ声3
起きて、と何処かで声がした。
目覚めて、と言う声は義兄だった少年より落ち着いており、養父である男より若くて張りのあるものだった。当然、恩人の声とは比べるべくもなく青い。強いて言うなら少年の兄で、養父だった男の最初の子に声の高さが似ているくらいか。
少なくとも、アーシェにはそう聞こえた。
(起きて、早く起きて──)
「だ、れ……」
(見つけて。早く時間が──)
ない、と穏やかな口調の青年の声に徐々に焦りが滲んでいく。そう言われたところでアーシェにはできることなど何もない。
アーシェが立っているのは真っ暗な空間だった。
光すら一点も差し込むことのない、闇である。
意識はある。こうして誰かの声を聞くことができるのだから、起きていることには間違いがない。だが、何も見えないのだ。一寸先は闇というのをここまで体現しなくともいいだろうと、常人なら思うだろう。文字通りの意味で捉えるなら、その言葉はまさしくこの空間のためにあるような言葉だった
アーシェのいるここは、黒く塗りつぶされた部屋のようだった。
「……見えない」
(見つけて、早く)
「どこ……」
(触って、見つけて。お願い……)
言われた通り、両腕を伸ばしてみた。誰か見知らぬ者の言われたことに素直に従う気になったのは、アーシェの中に不思議と疑問として残らなかった。
左右に腕を伸ばし、次いで前後に腕を動かす。
何かが、誰かが右の手首を掴んできた。
(──!?)
不意打ちに体がこわばる。ぞわりと背筋を這い上がったのは、懐かしくも有り難くない嫌悪感だった。そのまま力任せに、逃げるように、アーシェは自分の体の方へ右腕を引っ張ろうとする。
刹那、自分の手が何かに触れた。
それが人の手だと理解したのは、見える景色が一気に明瞭になったのを知覚するのとほぼ同時だった。
「え……」
「よかった。間に合った」
目の前にいたのは青年だった。アーシェよりも遥かに上背のある青年である。簡素なデザインの黒衣を纏い、フードを目深に被っているせいで口元しか見えない。だからアーシェは彼の表情を窺い知ることはできなかった。
しかし、その声の優しさと温もりは彼女に敵意を抱かせないのには十分すぎる要素であった。彼女自身も、きっと無意識下で感じ取っていた要素だった。
「ここ、は……」
一気に黒い空間とは無縁となった視覚に、アーシェは尻込みして狼狽えた。
美しい空間だった。それこそ、御伽噺の世界だと思った。
濃紺を溶かしたような夜空に、見たこともない大きさの階段が広がっている。アーシェの目の前の青年の背後にある階段は空高く、天にも届くほどとすら思えた。
呆然と見上げる自分の視界に、今までなかった複数人の気配を感じてハッとする。周囲に、十二体の男女の石像が取り囲むように並んでいた。
そんな石像で区切られた中庭のような空間の奥には、白い柵が整然と並んでいる。
『神殿』という言葉が、語彙も豊富でない彼女の脳裏に浮かんだ。
「『英明過ぎば身滅びぬ』」
「え……」
「説明することはできない。早く、ついてきて」
本当に時間がないんだと続けて、青年は黒衣の裾を翻した。
あまりに素っ気ない言葉と態度にアーシェは理解が追いつかない。
「ここは──私は」
「君の名前を呼んでくれた人を助けたいだろう?」
「私を……呼んだ」
じっと探るように、記憶の奥深くへと意識を集中させる。『アーシェ』と名前を呼んだ声、最後に自分を呼んだのは──
風が吹いた。アーシェの頬を撫でる。
土埃と青臭い、じめっとしたぬるい風。
「グレン……」
声の主に、漸く彼女は思い至った。
そして青年の言葉が意味するところを察して、頭が真っ白になる。
何を考えればいいか分からない。分からない。だが早く助けなければいけないと焦燥が胸を焼いた。
「グレンが、いるの。あそこに」
「そう。助けなきゃ、助けたいだろう?」
青年がアーシェの目の前に拳を突き出した。淡い青緑の光は細長い棒を模って直ぐに解けて霧散してしまう。青年が握っていたのは長剣だった。波打った刀身を持つ、黒い刃の剣だった。
敵か味方か分からない者の得物が出てきたこと──だがきっと味方だと第六感は告げている──に驚いたアーシェが防御の構えを取る間もなく、青年は両手で支えるその剣の刀身を少女に見せるように差し出した。
鏡のように磨かれた刀身に浮かんだのは、逃げる気力もなく諦めた様子で体を横たえるグレンの姿だった。そしてアーシェとカタリナの目の前に現れた大カマキリが彼の目の前にいる。今にも彼の命を奪おうと、腕の大鎌を死神の如く空の上に翳しながら。
「グレン──!」
食い入るようにして、その光景をアーシェは見ようとする。しかし長剣はそれ以上を拒むかのように、ふっと消えてしまった。
まるで今までそこにあったのが嘘であったかのように。
「さあ、早く。本当に時間がない」
青年が淡く光る白亜の階段に足をかけた。そしてアーシェへと手を伸ばす。
まるで、淑女をエスコートする紳士のように。
その手を迷わず、アーシェは掴んだ。
ふと、青年の声が何処かで聞き覚えのあることに彼女は気付いた。
***
遥か天へと続くかと思われた階段は上ればなんということはなかった。森の中でカタリナに連れ回され、疲弊しているはずのアーシェがバテていないのが何よりの証拠である。
上空にあったのは祭壇だった。階段の先にある踊り場のような円状の床には、明暗のそれぞれ異なる六色の点が、時計の一から十二の時刻のように等間隔で並んでいる。
明るい青、暗い青といったように時計回りで。
その少し奥には先ほどと同じように、男女の石像が一体ずつ同色の点同士の間に聳え立っていた。
青年が差し伸べた手を握りながら、アーシェは周囲を見回した。幻想的な夜空はどこまでも広がり、終わる気配がない。
ここが一体どこなのかさえ、アーシェは知らない。急に漠然とした不安が襲ってきそうになる。
「……すぐ終わる。大丈夫」
するりと繋がれた手が解けた。青年が膝をついてアーシェと目線を合わせる。フードを取り顕になった顔は想像以上に大人びていた。少なくとも成年である十七は超えている。二〇も下手すれば超えているかもしれない。
干草にも似たベージュ色の髪は肩につくほど長く無造作に伸びている。前髪が眉にかかるくらいで瞳が見えるからか、それほど鬱陶しさは感じられない。
彼の正体はどこにでもいそうな、しかしアーシェにとっては面識のない青年だった。
「両手を出して。僕と重ねて、目を閉じて」
言われるがままに、アーシェは動く。自分の手を青年の掌へと乗せる。
グレンを助けたいという気持ちしか、その心中にはない。
「想いを、拓いて。自分のために、誰のために動きたいのか」
「その想いを見せて。揺るぎない、君だけがもつ世界を」
魔法の詠唱にも似た文が紡がれる。同時に、アーシェの体中を熱が巡りはじめた。先ほど腕を掴まれて感じた言い知れぬ嫌悪と似た苦しさと恐怖が、頭の中を冷えた興奮と共に支配する。
気持ちが悪くなって、アーシェは拒絶するように青年の手を払い除けた。
「いやっ」
「──駄目っ」
予想外だと焦った青年の声が耳に残る。何処かで聞いたことのある声だった。
思い出そうとするのに、頭の中ががぐちゃぐちゃに塗りつぶされて見当がつかない。
「ほら、続けよう」
「いや……こわい」
「でも、助けたいんだろう」
アーシェは再び目を閉じた。グレンを助けたい。その気持ちに偽りがあるわけない。
しかし嫌だと、心の奥深くで眠る本能が青年の誘惑を拒否する。
「大丈夫。僕は君の味方だ。絶対に上手くいく」
そう言って優しく、頭を抱えて縮こまるアーシェの手に青年は自分の手を重ねた。
『信じて』
青年がその言葉を発して、急に、頭が冴えた。きんとした寒空に放り出されたかのように、アーシェの頭から靄が晴れていく。恐怖も、不安も、全てがどこかへ吸い込まれていく。
「何を」
「彼を助けたいと思う気持ちを、僕たちの力を」
自分が発したとは思えないほど冷たい声だった。アーシェは感情の動きの少ない子供だ。平坦な声は往々にしてあるが、それでも敵に対して発するような酷薄な声を持ったことはあまりない。
誰かに、上げたこともない。敵であった頃のウェインにも。
「命じて。僕らに」
「何を、命じればいいの」
「ただ言えばいい。彼を助けるために、何をしてほしいのか」
青年に導かれた手がアーシェの体の前へと伸ばされる。
重ね合わせた手が熱い。これは体温のせいだけではない。何も知らないアーシェにもそれだけは分かった。
「ただ伝えればいい、本当の想いを。大丈夫。世界はきみの味方だ。絶対に、裏切らない」
「信じて」
重なった手を握り締められる。呼応するように、アーシェもこくりと頷いた。
信頼しない以外の選択肢は彼女にはなかった。
熱が、頭の中で沸騰する。体が滾って、自分が何処にいるのか分からない。火責めと水責めを同時に受けているような苦しさが、アーシェへと襲いかかる。
それでも、この想いが消えることはない。確たる願いは一つだけだ。
「グレンを、助けて! あいつを──」
そして漸く、アーシェは思い出した。
目の前の青年の声は、数週間前に自分が空から落ちたときに聞こえたのと同じ声だった。
「殺せ!!」
***
声が引き金となって見えるようになった景色は先ほどまでと違っていた。
森だった。黒く塗りつぶした空間でも、階段の伸びる神殿のような造りのある夜空でもない。
アーシェがカタリナに連れてこられた、森の奥深くだった。
目の前のキラーマンティスに、刃となった風が襲いかかった。横に薙ぐようにかまいたちが走って、緑色の死神の得物を切り落としていく。痛みも恐怖もあるであろうに、目の前の瘴魔風情は気付く余裕もなく、ただアーシェには目を奪われている。
頭が真っ白だ。
喪失感からではない。恐怖でも、悲しさからでもない。
大切な存在を傷つけられたという憎しみと、怒りと、興奮が、アーシェの胸の内を支配していた。
「ゆるさない……!」
「ぎゃ、ギャオォォ!?」
長い間断の果てに、自分の前脚の異変に気付いたカマキリが叫んだ。怯懦の色を灯し、昆虫の複眼が恐れの光を宿していることにアーシェは気にする風もなく黙殺した。しなければならないのは目の前の『敵』を屠ることなのだ。
逃すつもりはない。
右腕を前に伸ばす。振り払うように手首にスナップをきかせた。
アーシェの意志に従って、先ほど飛んできた風の刃がキラーマンティスの腹を噛んだ。
「キシャァァァ……ッ」
まさしく一閃。ギロチンの刃がキラーマンティスに振るわれた。緑色の体液はぽたりと切り口から落ちて、雫が水溜りを作っていく。
それでも惨めな大カマキリはその場から逃げ出そうと、力を振り絞った。後脚のある胴部と頭のある胴部はとっくのとうに離れてしまっている。それでも残った前脚を必死に動かし、なんとか前へ進もうと努力して──
森の暗殺者と呼ばれた王者は、自分に落ちる影に気付いた。
それは、先ほどまで自分がなっていたはずの『死神』そのものだった。銀色の長い毛が足首まで伸びている。外見があのときの雌のヒトの子と違っているということに、このカマキリは気付いていただろうか。
そういえばなんだか焦げ臭い匂いがする。とはいっても、肉の焼ける匂いとはまた別な──例えるなら、青臭い草が焼けるような異臭である。
化け物カマキリが人の言葉を解するならばきっとそう言っていたであろう。
揺らめく炎の帯が、緑色の胴体を包んでいく。使い物にならなくなった四肢が熱で腐り落ちて、焦げて土へと還っていく。じわりじわりと嬲り殺しにされる恐怖に、炙られる痛みと熱さにキラーマンティスの体が力強く跳ねた。
まるで、捕食者の餌になることが分かって逃げ回る芋虫のように。
「……さようなら」
断末魔に重なって、アーシェの小さな呟きが落ちた。
既にカマキリは──カマキリだったものは意識を失い、ウェルダンなステーキ肉の塊に成り果てていたのだった。
***
「う、ぁ……」
あーしぇ、と口元が動く。
動かせる、そのことにグレンは自分の命が「まだある」ということを自覚した。視界がぼやける、頭がくらくらする、それもそうだと自分でも思った。
「あ、れ……」
なんとか腕で自分の身を支えるようにしながら上体を起こす。キラーマンティスは今までいたのが嘘であったかのようにその存在を消している。代わりにグレンは異臭を──肉と若草が一緒に焼ける匂い──感知して顔を顰めた。
周囲を探る。あのとき以上に危険な気配はないことに心の底から安堵を覚える。同時にアーシェはどこに行ったのだと思う。
そのときだった。グレンの視界は新たな対象を知覚した。否──それは新しくあって、彼には馴染み深い人そのものだった。
「アー、シェ……?」
自分が付けた少女の名を呼ばう。少女は少女であってグレンのよく知る少女ではなかった。
焦茶色で深緑色のリボンのよく似合ったおかっぱ頭は、今や銀色となり彼女のくるぶし近くまで伸びていた。端だけが焼け焦げてしまった銀の織物、もしくは縦糸に銀糸を張った織機、そう思えるほどその髪は長い。
森の穏やかさを思わせる双眸は美しい紫苑の花を思わせる紫色に変わっていて、その少女がアーシェだとグレンが判断した手がかりは土で薄汚れた濃灰色の制服だけとなっていた。
それほどまでに、彼女は変わっていた。見たこともない姿へと。
踊り子がステップを踏むように、軽やかにアーシェであろう少女がグレンへと近づく。差し伸ばされた手の先は、グレンが身動きを取れなくなっていた原因の脹脛だった。
彼女を包む藤色の魔力の粒が零れて、ゆっくりとグレンの怪我の元へと吸い込まれていく。同時に手の甲へも小さな細い指が伸ばされた。草で切ってできた赤い線が、みるみるうちに薄くなっていく。
同時にグレンは恐ろしいものも目にした。
じわりじわりと少女の手の甲に──グレンの怪我が今しがた直った方の左甲に──赤い線が引かれていく。手の大きさが違うせいで、手の甲を横断するほど大きくなったそれが。
急激な現実の変わりぶりにグレンの頭は冷えた。キラーマンティスと一緒にいたアーシェを見つけたときの比ではない。氷水を頭から被ったのではないかと思った。
あまりに突然すぎる展開にグレンの視界が揺らいだ。
揺らいだと思った。目眩がしたのだと、
「アーシェっ!!」
力なく、少女の体がグレンの胸に崩れ落ちるまでは。
「アーシェっ、アーシェっ」
胸元に頽れた体温は、その温もりと胸の上下運動で「生きている」ということが分かる。
しかしそれだけだ。意識はない。グレンの呼びかけに答える様子もない。揺すっても揺すってもぴくりとも動かない。
背筋が冷たく感じる。頭の中は吹雪いたように真っ白だ。
「──グレン!!」
そのときだった。
今この場で、何よりも求めてやまない声に自分の名前を呼ばれてグレンは漸く安堵を覚えた。
「先生!!」
声の主はミレイだった。森の中を走り回って探してくれたのだろう、息が上がっている。その背後にはミレイを呼びに行ってくれたルイも見えて、悪夢が終わったことを知らせてくれる。
と、思っていた。グレン自身だけは。
「グレン、それは……!?」
ミレイの驚愕の表情に、グレンは向けられた視線を追った。
何かと思えば、自分が少女を抱きしめていた。
そう、長い銀髪と紫眼の、アーシェであろう少女を。
この場におらず、凄惨な現場から何があったか予測するしかないミレイとルイにとって、彼女の姿を見て覚えた感情は驚きなどでは到底済まされないだろう。
「な……どうして」
「アーシェ、なんですか……?」
二人とも固まってその場を動こうとしない。
それを好機と捉えたのか、アーシェの体が眩い光で包まれる。耐えられないほどの眩さに、グレンは急いで目を閉じた。
開けた次の瞬間には、アーシェは元に戻っていた。髪は顎ほどのいつものおかっぱで、髪色は栗の皮のような渋い焦茶色だった。
きっと、眼の色も元に戻っているのであろう。そう思えるほど、元からそうであったかのように、銀色の変わりぶりは面影を無くしていた。
後に残されたのは、ぼろぼろの姿のグレンとアーシェ、見るも無惨に焼け焦げた『何か』、そして助けに来たミレイとルイだけだった。
カマキリ好きな読者の方がいらっしゃったら……本当にすみません。




